二〇九九年 七月二日 木曜日 ④
七月にしては優しく涼しい風を受け、城ヶ崎真はゆるりと紫煙を吐き出した。
本田鉄郎が手配してくれた琵琶湖畔の貸し別荘の裏手、バーベキューコンロや丸太を割ったテーブルが二台並んでいるのにそれでも広々としているウッドデッキでタバコを吸いながら考えを巡らせていた。
波打つ琵琶湖の湖面を眺めてはいても、真の頭の中ではHDの進行度合いが本当のことだろうかと考えていた。
食事の後に行われた篠崎と木村による検査では、骨の硬質補助化と筋肉の高反発樹脂化及び毛細管スプリング化も順調で、神経と腱と血管のコーティングにあと一晩かかるとのことだった。
――これがどれだけの成果になるか分からないけど、智明との能力差が埋まるなら、何だってやってみるしかない――
結局、智明の能力を間近で体験したのは真しかおらず、普通の十五歳では智明を抑えられないことも真が一番分かっている。だからこそ可能性のある行動をしなければならないと考える。
田尻や紀夫だけでなく、テツオや瀬名までHD化に巻き込んでしまったことは想定外だが、自分一人で不足ならば人数を揃えるというのも手段や作戦として有りだと思えた。
――なんせ、相手は瞬間移動使えて、核分裂や核融合起こせるんだから――
と、自分を奮い立たせようとした思考が、逆に怖さとなって真は身震いした。
「……あれ? 田尻、まだ終わらないのか」
「あ、ホントっすね」
少し考え事に集中しすぎたのか、いつの間にか真の背後に紀夫が立っていて、ウッドデッキを眺め回したあと琵琶湖の湖面に目を向けて眩しそうに目を細めた。
「どうすっかな……」
「様子、見てきましょうか?」
「いや、いい。もうちょっと待ってみて、戻ってこなかったらバイクのメンテ行こう。田尻も俺らの姿が無かったらガレージに来るだろ」
真の近くの椅子に腰掛け、タバコに火を着けて足を組む。
しばらくして紀夫が同じセリフを口にする。
「……どうすっかな」
「どうしたんすか?」
「いや、別に」
真が見ても作り笑いだと分かる笑い方で誤魔化したが、明らかに紀夫は田尻やバイクのことを考えていないと予想できた。
「赤坂さんでしたっけ、あの看護師さん」
「おお!?」
真の推測が当たったのか、動揺した紀夫がタバコを落とした。
「おま、よく覚えてんな。人の彼女の名前なんか覚えるもんじゃねーぞ」
「す、スンマセン。美人じゃないけど可愛らしい人だったし、なんか印象強かったんで覚えちゃいました」
「……全くよぅ」
アルミ製のアームチェアの下に転がっていったタバコを拾い上げて、仕方なさそうに紀夫は真を見やる。
「人をブス専みたいに言いやがって。恭子みたいな大人なのに可愛らしい顔って、なかなかいないんだぞ!
……と、そこじゃねーな。ただでさ未成年で無許可のH・Bやってんのに、今度は認可前のHDだぞ? 説明のしようがないだろ。悩ましいんだよ」
真もH・Bの『種』を飲む時に厳しく注意されたのを思い出したのだが、未成年者のH・B化は法律で禁止されていて、診療の際に医者や看護師がその兆候や事実を突き止めた際は必ず通報しなければならないことも決められている。
使用者に厳罰が下るだけでなく、施術を施した者も事実を知りながら見過ごした者も厳罰に処される。
それほどに未成年者への影響があると考えられ、流通や施術に重責を求めているのだ。
そこに来て非認可のHDで体を作り変えたなどとなると、紀夫の恋人赤坂恭子の反応は読めないし予想できない。
「そんなこともあるんですね……」
まだ恋人と交際したり両思いになったことのない真は返事がしにくく、なんとなく雰囲気のあってそうな言葉を答えておくことにした。
ふとよぎった幼馴染み鬼頭優里の顔が、やや霞んで見えた。
恐らく真の初恋の相手だし、今も優里への恋心は間違いなく真の中にある。
――一週間ほど顔を見てないだけで忘れかけるとか、うっすい愛情だな、おい――
苦笑を通り越して苦渋の表情で真はつぶやく。
「悩ましいっすね」
「マジでな」
紀夫に返事をされたが言葉を返すことができず、とりあえず真はヌルくなってきたコーラを飲んだ。
※
ちょうどその頃、田尻はイライラの頂点に達していた。
「もう一回聞くぞ。『種』もらった時から思ってたけど、なんであんたらはそんなに嬉しそうに検査してるんだ? なんか隠してるだろ?」
ウッドデッキから少し離れたリビングルームで、田尻はソファーに座ったまま篠崎と木村を睨みながら問いただしていた。
だが何度声を荒げても篠崎と木村は薄く笑いながらやんわり否定するだけで、尚更田尻は怒りがこみ上げてくる。
直情型で堅い性格だと自認しているが、こういう少し上から小馬鹿にされるのが心底気に入らない。
淡路連合の集合時間に遅れそうだった時に、接触事故になりかけた軽自動車の運転手の鯨井とかいう医者と話した時もそうだった。理屈で遠回しに追い詰めてきて、最後には警察官のフリをしてきて、キレにくい脅し方をしてきた。篠崎と木村は鯨井と似たタイプに見えて、ずっとモヤモヤしたものがあったのだ。
「隠し事なんかしていないよ。なあ?」
「もちろんです。嬉しいのも当然ですしね。研究開発した商品が、こうして計画通りの成果を表しているんです。嬉しいに決まっているじゃないですか」
本人達は田尻を落ち着かせるための笑顔のつもりかもしれないが、田尻からすれば実験動物を弄り回すマッドサイエンティストに見えるのだ。
「その『成果』ってのが怪しくて仕方ねーんだよ!」
今までテツオが近くに居たので我慢していたが、ついに田尻は本心をぶつけた。
「おやおや」
「そこを疑っちゃいけないな。君達の利害と私達の商品は一致していたから、君は『種』を飲んだんじゃないのかね。そんなんじゃ、本田君が悲しむゾ」
肩をすくめた木村にも腹が立ったが、それよりも篠崎がテツオを引き合いに出したことと語尾の『ゾ』のアクセントは完全に田尻を煽っていて、田尻の最後のブレーキがぶっ飛んだ。
「バイク乗り回して遊んでるだけのガキとか思ってんじゃねーぞ! お前らの腹ん中がどんなもんか、大体の予想はついてんだ!」
「ははは。元気がいいな」
怒鳴りつけた田尻だが篠崎の余裕の笑みは変わらない。
「じゃあ、聞くぞ。HDは認可も販売許可もないんだよな? だから俺らで手っ取り早い人体実験をしようとしてる。その先にあるのはHDっていう市場の開拓と独占だろ。なんならHDとセット売りできる自分たちの作ったH・Bのシェア拡大とかも狙ってんだろ」
声のトーンを抑え、早口で捲し立てた田尻に、篠崎と木村は黙り込んで顔を見合わせる。
うなずき合うような素振りのあと、二人揃って小さな拍手をし篠崎は楽しそうに答える。
「いや素晴らしい。会社や企業というものをよく分かってるじゃないか。君の言うように、自社商品の実験であることは言わずもがなとして、我々だって企業の一員だからね。売れて金になる商品を開発するのが仕事だ」
「どいつもこいつもそんなふうに腹が黒いと思ったら反吐が出るぜ!」
田尻が思う最大級の侮蔑や怒りを吐き捨てるも、木村は涼しい顔で言い返してきた。
「すべてニーズに応えた結果です。骨や筋肉が金属化や硬質化させることで、歩けなかった人が健常者と変わらぬ生活を送れるんです。老化という概念がなくなり、就業可能な年齢が引き上げられることで、労働力の確保や年金問題の打開策ともなりえるんですよ。その代価として支払われた金銭が企業の売上になり、さらなる商品の開発へと結びつくんです。騙したり偽ったり儲けすぎるわけじゃないですよ」
まるで用意していたようにスラスラと並べ立てられたメリットに、田尻は負けそうになったが、もう一つだけ残しておいたワードをぶつけることにした。
「フン。じゃあ、H・Bに信号やプログラムを忍ばせてるって部分は大丈夫なんだな?」
この問いは、実は田尻にとって諸刃の剣でもあり、できれば使いたくないワードだった。
なぜなら、篠崎や木村がこれを認めたり肯定するということは、田尻の中にすでに組み込まれたプログラムが存在するということになるし、そのプログラムがどういった内容かを彼らが明かす可能性は低いと考えるからだ。
また、何らかのスタートボタンが押されれば、田尻や他のメンバーの命が奪われる恐怖を孕んでいるかもしれない。いや、H・Bはスマートフォンと同等以上の機能を内包した電脳なのだから、メール一つで発動しかねない。
田尻が怒りと恐怖で見据えている先で、篠崎と木村は急に黙り込んだ。
――図星か? それともヤブヘビか?――
成功と失敗の両方が田尻の頭の中を駆け巡る。
「なかなか想像力が豊かだ」
篠崎がポツリと無表情で言った。
それに木村が続ける。
「考え方としては正しい。ですが、我々への脅しとしては間違いですね」
もともと表情の動かない木村が、田尻を蔑むような突き放すような視線を向け、一瞬田尻は寒気を感じた。
「やめろよ。本気で何かあるように思っちまうだろうが」
田尻は小さな後悔とともに、座っていたソファーから僅かに腰を浮かせた。
彼らより腕っぷしが強い自信はあるが、明らかに増してきた陰湿な雰囲気が気持ち悪い。
そんな田尻に追い打ちをかけるように篠崎が不敵に笑って言う。
「安心していい。まだHDの経過を確かめているところだ。悪いようにはせんよ」
「あなたには『何も答えない』という対応が一番効きそうですしね」
いつもの表情ながら木村は言い放ち、リビングルームから出るためのドアを開いた。
「……クソッ!」
篠崎と木村を問い詰めてマウントを取っておこうという田尻の思惑は見事に打ち砕かれ、逆に彼らにマウントを取られてしまった。
侮蔑の言葉を吐いて苛立ち紛れに立ち上がり、田尻はドアへ向かう。
「ああ、そうだ。田尻くん」
「ああん?」
田尻を呼び止めた篠崎に、田尻は剣呑な声を返す。
しかし篠崎は楽しそうに告げる。
「我々は君達の活躍を応援してるからね。頑張ってくれよ」
「……アンタらに応援されても関係ねーし!」
「そんなことはありません」
今度は木村が営業スマイルを向けてくる。
「君達は我が社の広告塔ですからね。しっかり宣伝してもらわなければね」
右手親指と人差し指で円を作って残りの指を開いてポーズを取る木村に、返す言葉も見つからず、田尻は中指を立てて部屋を出て行った。
――二十一世紀末に古臭いオーケーサインなんかしやがって! ……それとも銭金の方のサインか?――
どちらにせよ田尻は彼らの事が益々嫌いになった反面、新商品の宣伝のためにある程度本気で手を貸しているのだとも分かり、怒りを燃やしていいのか諌めていいのか分からなくなってしまった。
「……テツオさんがグルだったら、ヤダな……」
田尻は初めて憧れの男を疑ってしまった。