二〇九九年 七月二日 木曜日 ②
「そのことは言うな」
貴美のの言葉が公章の心の傷に触れてしまったようで、公章は貴美から視線を外してしまった。
貴美が口にした『法章』とは先代の守人のことで、公章の兄に当たる人物だ。
貴美と公章が属する一派は、少し前まで淡路島では最大規模と目されるほどの大所帯で、他の宗派にも先達として世話をし頼られる存在であった。その中で法章は若くして強い霊力に目覚め、顕現した力は加持祈祷に遺憾なく発揮されてちょっとした流行にもなり、テレビやマスコミなどにも取り上げられて政治家や著名人に救世主のように祭り上げられた。
世間は『よく当たる占い師』程度の認知だったのだが、内部では受け取り方が真逆で、政治家や著名人から包まれた寄進が破格な金額であるという噂がたち、『一派の目指す教義から外れた行いだ』と非難し信徒は半減してしまった。これを取りまとめようと公章は東奔西走したのだが、当の法章が責任をとって離反を申し出たにも関わらず、信徒の流出は止められず、法章が名を変えて呪い事の商売を始めてしまったことでさらなる批判を生み、信徒はほぼ居なくなってしまった。
結果、公章は法章と喧嘩別れの形になったことを未だに傷として抱えているらしく、二十歳にもならない貴美に教義に反する営業をさせている事態が、さらに公章を苦しめていることは貴美も肌で感じている。
「……申し訳ございません」
貴美は正座のまま一歩下がって深く頭を下げた。
そんな我が子を目にしつつ、公章はため息とも深呼吸ともつかぬ長い息を吐いて、娘に言う。
「父親として言うよ。お前には申し訳ない思いでいっぱいだ。こんな忍者とも魔法使いともつかない汚れ仕事ばかりさせてしまっている。本当にすまないと思っているよ。しかも今回は得体の知れない超能力者だと言うじゃないか……。そんなものに命をかけさせるなんて、私は情けない父親だ。だから貴美。……お前の本心を言ってくれないか。それ次第では、こんな仕事は断ってもいいと思ってるくらいだ。貴美、どうなんだ?」
崩した口調で話しかけてきた父に動揺し、貴美は驚きとともに慌てた。
いつもの泰然とした父ではなく、不安や弱々しさをさらけ出した父の顔に、どんな態度や言葉を返せばいいかが分からなかったのだ。
だが貴美の内心でホッと安心する部分も感じていた。自分を教え導いてくれていた父の姿は、他の信徒に対する態度と何ら変わらないように見えていた。しかしその内には自分に対する父としての愛情や心配などがちゃんと秘められていたと知らしてくれた。
――今だけなら言っても良いのではないか?――
貴美の内に秘められている子供の心がざわつく。守人として、まとめ役たる頭の娘としての殻を少しだけ開いてしまいたいと欲する。
「……わたし。……私は……」
父の言葉に答えなければと言葉を発しようとするも、貴美の唇は震えて思うように動かず、辛うじて発した声も震えてしまってちゃんと言葉になっているかも怪しい。
若干震え始めた体はさらに貴美から声と言葉を奪ってしまう。
「……怖い、です……。あんな…………化物、の。……前に立つ、のは。…………戦うなんて。無理っ」
もはや貴美の口から発せられるのは言葉ではなく嗚咽に変わり、いつからか視界がグニャリと歪み始め、頬を伝う涙でようやく自分が泣いているのだと気付いた。
口を閉じても火山の噴火のように唇を押し割って嗚咽が漏れ、瞼を閉じ何度拭っても涙は止まらない。
「分かった。分かったよ。貴美、もういいんだ」
いつの間にか公章は体を寄せ、十数年ぶりに父に抱きしめられていた。父の体温を感じた貴美も、父にしがみついて声を上げて泣いた。
どのくらいそうしていただろう。
公章が貴美の背中をさすり、貴美も泣き声を潜めてひっきりなしに鼻水をすすり始めた頃、貴美はそっと父の体を押し返した。
落ち着きを取り戻した娘を認め、公章は素直に体を離して娘の様子を伺う。
「…………お父さん。ありがとう」
「ん。……早速この話を断る連絡をしてくる。今ならまだ断ることができるから」
決意の表情で告げた公章に、しかし貴美は装束の袖で涙を拭ってから答えた。
「……父様。本当に断るなどということができますでしょうか? 此度の依頼は『あの方々』のご依頼のはず。きっと今更断るなど適わないでしょう」
「かもしれん。我が一派の存続を左右する発言もあった。断れば我々は御山にいられなくなることは間違いない。しかし、優先すべきはそれだけではない」
貴美の指摘に公章は悲痛な面持ちで認めこそすれ、貴美の生命が大事だと断じてくれた。
それだけでも貴美には満たされるものが有り、困難な依頼を果たすための勇気が湧く。
「恐れはあり申す。しかし、これは大義ある行い。……私が向かわねば別の守人や軍隊が動いてしまいまする。きっとやり遂げてまいります」
しっかりと公章を射抜く目はすでに娘から守人のものへと変じてい、頭へと戻りきらない公章を慌てさせた。
「……出来るのだな?」
再度の問いかけに、貴美は真っ赤な目のまま答える。
「はい」
「相手は化け物だぞ?」
「この一週間で力の片鱗は把握しており申す。手も使わずに木々や車を持ち上げ、腕の一振りで大地を裂き、気を固めて銃弾を弾き、高圧の水すら通さない壁を作る化け物。……しかし、まだ私という同種の存在には気付いておらぬはず。そこに付け入れば勝算はあるかと……」
貴美の覚悟を決めた目に、父としての躊躇いが公章の口を重くした。だがここで引き止めることは貴美の覚悟を無下に扱うことになる。
断腸の思いで公章は貴美に命じた。
「あい分かった。しかし命を無駄にせず、よく機会を伺って取りかかり、きっと使命を果たして戻って参れ」
「はい!」
力強く応えた貴美は床に付くほどに頭を下げ、直ったあとにしっかりと父と視線を合わせてから塒を出ていった。
一人きりとなった公章は瞑目して天を仰ぎ、大きな深呼吸をして貴美が出ていった板戸を見やる。
そっと短く厄除けの呪いを呟き、草履の修理を再開した。
※
同日、午前九時。
城ケ崎真は滋賀県に居た。
大阪市此花区で某有名企業の開発研究者と会い、骨や筋肉を機械化するというHDという技術を紹介され、その日のうちにHD化するためのナノマシンの集合体である『種』を飲み、二日間の経過観察を終えてまたバイクでのロングツーリングとあいなった。
今回も大阪市内から京都を経て滋賀県まで高速道路を走ったが、前回よりも体力の消耗も少なく、また渋滞などにも引っかからなかったので四時間強で到着した。
「真。紀夫見なかった?」
「ふぁい?」
気の抜けた返事をしながら真は頭を持ち上げると、なんとも言えない顔で田尻が真を見ていた。
あまりにもベッドの寝心地がよく、まだ真のスイッチはオフのままだ。
どういったコネがあるのか想像もつかないが、大阪で二日間宿泊させてもらったホテルも、滋賀県に入って連れられるままに宿泊したこの貸し別荘も、全て本田鉄郎が用意してくれたものだ。
資産家が使用しなくなった別荘を売却して、買い取った不動産業者が次の買い手が見つかるまでのつなぎとして貸し出しているそうで、琵琶湖のすぐ傍の広い敷地にはテニスコートがあったり、二級船舶免許を持っていれば敷地内の桟橋からボートを出してバスフィッシングも楽しめるという正しく金持ちの別荘らしい別荘だ。
ベッドも真を虜にするほど寝心地がいい。
とはいえ、真がベッドと一体化してしまっても仕方がないとは思いつつ、旅行やレジャーで来たわけではないから田尻が微妙な顔になってしまうのだ。
ましてや共通の目的があり、テツオの手配した別荘に居るのだ。田尻が真面目になるのも当然といえよう。
「いい加減に起きろって」
「……はい。スンマセン」
田尻の強い口調に自分の立場を思い出し、ようやっと真はベッドから分離した。
「昼頃にまたオッサンらが来て、HDの検査があるだろ? それまでに体操とメシを済ませたいんだ」
「そうでした。……顔洗ってきます」
田尻の口調は元の優しい口調に戻っていたが、予定が詰まっていることを意識して真は自発的に動く。
「紀夫見つけたらテニスコートの方に行ってるからな!」
「分かりました!」
中学生らしい真の元気な返事に、田尻はリトルリーグ時代の後輩を思い出して顔がニヤけてしまう。
一方の真は中学校のバスケット部の緩い縦構造の経験しかないため、友人やクラスメイトの言う本格的な『厳しい縦社会』というのは情報として持っていても、さっき田尻が発したような緊張感や重圧には過敏に反応してしまう。
――WSSもあんな感じなのかな――
一瞬だけ不安がよぎったが、それはそれで学んで適応していけばいいやと思い直す。
まだ真は十五歳だ。高校に進学すれば環境が変わるわけだし、大学進学や就職を経ればまた変化するのだから、大層なことではないと思えた。
事実、顔を洗って歯を磨いている真の体内では、篠崎と木村から授かったナノマシンが体中を駆け回り、骨や筋肉を改造しているはずなのだ。
それでなくても人間の体というやつは、代謝機能として脳神経や体細胞は常に新しい物へと入れ替わっていくのだと、篠崎と木村から教わった。
智明のような突発的で衝撃的な変化だけが強力な能力を生み出すわけではない。
――人はいつだって変わり続けていける――
歯磨きをしながらだったが、真は真理にたどり着いたような気がして少し嬉しくなった。