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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第三章 広がる波紋
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二〇九九年 七月二日 木曜日 ①

 諭鶴羽(ゆづるは)山地は広大で奥深く、皇居建設も相まって特別保護区となり人の出入りが制限されているため、普段は静かな一帯である。

 耳をすませば鳥のさえずりが聞こえ、風の渡る流れが見え、関西国際空速や神戸空港や伊丹空港へと発着するジェット機が大空を横切る音さえ聞くことができる。

 週末の日中や夜中には、時折アワイチと呼ばれる淡路島一周のコースとして洲本から阿万へと、スポーツカーやバイクやロードバイクが駆け抜けることがあるが、二十世紀に横行した暴走族のような騒音ではない。


 だが今日の昼間はその限りではなかった。


 旧南あわじ市と旧洲本市の警察署に加え新たに設けられた国生警察の機動隊が、輸送車八台に放水車と指揮車を交えた大部隊で新皇居の奪還任務を遂行したからだ。

 大勢の人間がうごめき、その度に装備や防具が耳につく物音を立て、命令や報告が叫ばれた。

 だがそれも人々の怒号や嬌声や車両が吹き飛ばされた音の後に、少しの時間で沈静化し、辺りはいつもの静けさを取り戻した。


「…………もしかしたらとは思ったが。…………いや、甘い期待でしかなかったということだな」


 諭鶴羽山山頂北側にそびえる電波塔の影で、簡素な装束を纏った女が呟いた。

 腰まで伸ばした艷やかな黒髪を肩の下あたりで束ね、顎まである前髪を中央で分けて耳に流して留めてある。

 和風な細面は髪型と装束に引き立てられて独特の雰囲気を感じさせるが、その表情は無い。

 歳の頃ならば十代後半というところ。

 立入禁止のはずの電波塔の鉄骨の根本で、片ヒザを付いてアカガシの木々を見張るように注視している。


「収まったか。…………戻るか」


 なす術なく退却を余儀なくされた機動隊が、虚しいディーゼルエンジンの駆動音を響かせて御山(おやま)を下りていったのを感じ取ったので、女は立ち上がって帰り支度に取り掛かった。

 が、御山を立ち去ったはずのエンジン音が再び皇居を目指して鳴り始めた。


「…………バイクの集団、か。しかし数が多いような…………」


 自身の感覚を確かめるように声に出し、再び目を細めて眼下の木々を注視する。

 苦もなく感じ取った映像には、女が見た事もないほど沢山のバイクが疾走していて、他人を威嚇するように不必要な騒音を巻き起こして勾配を駆け上がっていく。


 女は生まれてこの方、御山として崇拝する諭鶴羽山の山中から出ることは少なく、バイクや自動車や飛行機などの形状や機構は知識として教えられたのみで、実際に見たり触ったりしたことがほとんど無い。そのため、今彼らが皇居へと向かう最中に不必要にエンジンを轟かせている意味や理由が理解できないし、精神集中をかき乱す爆音が不愉快で仕方がない。


「…………なんて乱暴な音なのだ。父様が下界を嫌っている理由は、ああいった者共のせいかしらん…………」


 高まっていく不快感がために女はバイクを見ることをやめ、通常の聴覚でバイクの音が収まるのを待つ。


「まだ、来る!」


 やや語気を強め、眉間にシワを寄せて彼女はここに来て初めて感情らしい感情を表現した(ただし、それは純粋な怒りや腹立ちや苛立ちであったが)

 先程の一団を追うように、同じ道を同じような騒音を巻き起こして駆けていく。

 今度は注視すらせずにただただ騒音が収まるまで待つだけにした。父親と御山の教えにそって、関わる価値のない事物に触れないようにしたのだ。

 やがて通常の聴覚にバイクのエンジン音は届かなくなり、念の為に五分ほど様子を見、女はとうとうその場から姿を消した。


 電波塔から彼女のねぐらへは通常の駆け足で五分もかからないのだが、先程の不愉快なエンジン音を記憶から葬り去りたくて遠回りをした。

 物心がついた頃から修行と採集で慣れ親しんだ諭鶴羽の山中は、木々の姿が目を癒やし、鳥のさえずりが耳を清め、流れ過ぎる風が髪を洗い、湧き出る泉は体内を潤し、踏みしめる大地は全てを包んでくれる。

 十分も走れば彼女の心身は生まれ変わったように力がみなぎり、精神が研ぎ澄まされ、頭の中に宇宙を宿したような無限の活力に満ち満ちた。


 修験者(しゅけんじゃ)として徳を積んだ彼女は、御山として崇拝する諭鶴羽山に身を置く限り、何事においても自由自在に振る舞うことができる。


 そもそも修験者とは修験行者(しゅけんぎょうじゃ)山伏(やまぶし)などとも呼ばれ、山や巨木や巨石などの自然崇拝を起源とする修験道に道教や儒教・仏教・陰陽道や神道などが複合された密教の信奉者を指す。自然に身をおいて苛烈な修行を行うことで悟りを開き徳を積み人々を救済することを目指している者のことである。

 だが修験道も一つの教義や宗派にまとまっているというわけではなく、神も仏も自然も拝む宗派もあれば、山や木や巨石のみを崇拝する一団もあり、経文や呪文が違ったりもする。


 彼女、藤島貴美ふじしまきみは諭鶴羽山を御山として崇拝し、守護神としてイザナミノミコトを崇める一派に属している。幼い頃からの修行の賜物なのか、徳を積んで人智を超えた能力を得た彼女は守人(もりびと)として加持祈祷かじきとうを請け負ったり、今日のような調査や観察の依頼を請け負って一派の財源を獲得している。


 もっとも、こういった依頼を請け負って金銭を受け取ることを不浄とする意見もあり、本来の救済から外れた行いだと断じる者もいる。貴美もその一人ではあるのだが、代価を取らずに無制限に引き受けることも別の問題を生むし、現代では多少なり現金を持ち合わせておかなければ思いもよらない障害にぶち当たることもある。師匠であり一派のまとめ役である父からそう説かれては従うほかない。


 諭鶴羽山の山頂より南に八十メートル下ったところに諭鶴羽神社があり、その一翼を間借りして貴美が加持祈祷を請け負っている。

 神社本来の祓いごと清めごと納めごとは、創建から二五〇〇年のいわれがある神社の歴史においてすべからく歴代の宮司が取り仕切って来た。が、神職の階級や役職と、積み上げた徳と神通力とが等しくならない場合もある。

 そういった局面を代行したり、御山の警備や管理を修験者が受け持つなどして、二者はこれまで対等とも言える関係を保ってきたのだ。


「こんにちは。おや、貴美さんがこちらからとはお珍しい」

 神社の境内を竹ぼうきで掃いていた禰宜ねぎが、貴美の姿を見かけて声をかけてきた。禰宜とは、神社を取り仕切る宮司ぐうじの補佐役の名称で、宮司になる修行をしつつ雑務などを担う役職のことだ。貴美とは加持祈祷の申し合わせなどで何度も顔を合わせているので、挨拶や世間話など気安く声をかけてくる男だ。今日はどうやらいつも裏手から現れる貴美が表参道から境内に現れたことが意外だったらしい。

「こんにちは。見回りのついでに少し寄り道をしてきたのです」

「左様ですか。ご苦労さまです」

「ご苦労さまです」

 いつもと変わらぬ他愛ないやり取りだが、丁寧なお辞儀をする禰宜に貴美も同等の礼を返し、掃き掃除を再開した禰宜の前を通って裏手へと進む。


 その間に貴美はまた父親の言いつけを守れなかったことを心で詫びた。

 貴美は守人としてその能力を加持祈祷で活かしているし、万人を救済するという使命を絶対のものと考えている。

 しかし幼い頃から修行中心の生活をしてきたせいか、人との接し方や人の名前を覚えるということが不得手で、一緒に修行に取り組んでいる修験者以外の人名を覚えられないでいる。先程の禰宜だけでなく、宮司や巫女の名前すら覚えられないでいるくらいだ。

 父親からは『諭鶴羽神社の神職達には世話になっているし、長年顔を合わせている近しい存在なのだから、名前を呼んでくれる方の名前は必ず覚えて呼び返しなさい』と何度も注意を受けている。


「無理なことは無理なのだ」


 詫びの気持ちと同じかそれ以上に開き直って独り言を呟き、木陰に隠れるように建っている塒の前で貴美は一旦立ち止まる。

 自らに課された依頼を全うしたかを自問し、伝えるべきことを整理してから貴美は帰還を告げた。

「父様、只今戻り申した」

「貴美か。入りなさい」

 いつもと変わらぬ父の声を受け、一拍おいてから貴美は板戸を引いて入室する。

 屋内は三間に仕切られていて、一番奥が貴美と女性の修験者二名の寝床になっていて、真ん中に貴美の父を含む男性五人の寝床、そして一番手前の部屋が炊事や食事など雑多な用を済ませる部屋になっている。


 貴美の父公章(こうしょう)は一番手前の部屋で、修験者の正しい身なりで草履ぞうりを修理していた。

「どうであった?」

 修理の手は止めたが、公章は胡座をかいて座ったまま貴美を見上げながら問うた。

 貴美は父から少し離れて正座し、一礼して答える。

「やはり彼奴(きゃつ)の力は強大で、機動隊では歯が立ちませなんだ。その様は赤子も同然」

「やはりか」

 公章は苦々しい顔で手元を睨み、逡巡の末に貴美を見つめる。

 その視線の意味を察知して貴美は思わず視線をそらしてしまったが、この一週間の隠密行動から避けられぬことは分かっていたので、覚悟を込めて父の目を見つめ返した。

「まとめ役たるかしらとして聞く。依頼は果たせそうか?」

 父ではなく一派の長として問われ、貴美は太ももに据えていた右手をずいと伸ばして床に付き、前のめりに詰めて誓いを立てる。

「……全身全霊をもってかかりまする。御山を守り、万民を導くのが我が使命。法章ほうしょう様の離反が生んだ一派の汚名は、貴美が(そそ)いでご覧に入れます」

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