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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第一章 三つの仔
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事件前夜 ①

 29インチのモニターに写されているMRIの断層写真を眺める髭面のこの男も、中島病院の新しい設備と国生大学の提示した給料に釣られてやってきたクチだ。

 鯨井孝一郎(くじらいこういちろう)

 奈良県に生まれ、親の跡を継ぐために関東の有名大学を目指したが二浪し、『箔よりもまずは実だ』と地方のFランク大学に入って医師免許を取得。しかし在学中に脳神経外科の権威・野々村穂積(ののむらほづみ)の講演に触れる機会があり、野々村医師の講演に感銘を受けただけでなく彼の掲げた興味深いテーマに惹かれ、大学卒業後に脳外科医育成プログラムに参加して脳外科・脳神経外科の専門医としての道へ進んだ。

 育成プログラムの修業を待っていたかのように野々村医師から連絡が入り、三年間を野々村医師の助手兼生徒兼後継者として現場に立った。

 その後は地方の総合病院を転々としたが、国生大学が野々村医師を医学部の教授として招聘したことに合わせ、弟子の鯨井医師が中島病院の脳外科・脳神経外科の専属医として招聘された。


「あら、またクジラさんは遊びに来てるの?」

「んー? これが遊んでるように見えるんか? 美保ちゃんの目は節穴やな」

 白髪が混じり始めた頭をかきながら、鯨井はデスクチェアを回して背後の女性を断じた。

 白衣を着て両手にマグカップを持って立っていたのは、この野々村研究室の研究生で国生大学院生の野々村美保(ののむらみほ)。鯨井の師匠のお孫さんなので以前から面識があり、そのぶん美保は鯨井に対して遠慮がない。

「そお? クジラさんの執務室は脳外科病棟にちゃんとあるし、もうすぐ日付けが替わるのに残業という感じでもないじゃない」

 美保は実習や研修がないからか白衣の前を開けていて、すき間から水色のブラウスと紺のタイトスカートを覗かせている。

 五十前で未婚の鯨井には若さ溢れる肢体に目を奪われてしまうが、師匠のお孫さんに軽々しく手を出すわけにはいかない。生足に白のソックスと上履き代わりのサンダルというところまで見て視線をそらす。

「向こうのパソコンはどうもタッチが合わんのよ。それに、こっちの方が資料が揃ってるし、広いし、美味いコーヒーが飲めるしな」

 美保が居たのなら白のポロシャツとカーキの綿パンなんかで来るんじゃなかったと思いつつ、美保の持つマグカップを指差す。

「私はクジラさんの奥さんじゃないのよ。髭も剃ってくれないしさ」

 美保は半分呆れながら左手のカップを鯨井が座るデスクに置く。

 美保は鯨井のボサボサの白髪混じりの髪型と口髭と顎髭を気に入っておらず、ことあるごとに『似合ってない。髪型をちゃんとして髭を剃りなさい』と命令してくる。それでも親ほど年の離れた自分に気さくに接してくれるところを見るに、髪型と髭以外は問題無いのだなと楽観してしまう。

 そうでなければ、鯨井の姿を見るやいなやコーヒーを淹れてくれたりはしないだろう。

「あんがと。美保ちゃんを嫁さんにもらったりしたら、世間の一部が騒がしいからなぁ。美保ちゃんはちゃんと年相応のふさわしいイケメン医師と結婚した方がええよ」

 野々村教授の後継者争いが囁かれている中、年齢差を顧みずに美保の好意を受け入れるというのはかなりの冒険で、鯨井は本音を心の奥底に追いやらねばならない。

 鯨井と美保が付き合うなどとなれば、世間やマスコミが何というか容易に想像できるからだ。

「うん! 美味い!」

「それはなにより」

 鯨井の絶賛に素っ気なく答えつつ、美保は鯨井の隣のデスクに腰を引っ掛ける。

「クジラさんは、今日は何時まで居るの?」

「さあな。今やってる調べものが片付いたら帰ろうかとも思うけど。片付くのが遅くなったら、何時間後かには診察始まってまうからな。そうなったら泊まった方が体は楽だからなぁ」

「ふーん。そうなんだ」

「美保ちゃんは? 帰らんのか?」

 鯨井の問いに、美保はコーヒーを一口すすってから答える。

「私は研究レポートの資料を探してただけだから、いつ帰ってもいいんだけど。ちょっとこの時間になると、一人では帰り辛いかな。……最近、この辺りって物騒じゃない?」

「まあ、ちょっと乱れてるわな」


 もともと都市化の進んでいた旧洲本市の塩屋・港・本町・物部では、遷都に関わる建設や工事は小規模なものが各所で行われている程度だが、倭文(しとおり)から広田・八木から中条は淡路島の西部に広がる三原平野から東部の洲本平野へ行き来する際の峠のような位置のため、リニア駅建設と相まって国道28号線の拡張と街灯の整備・農業用水路を上下水道への改修・賃貸マンションや分譲マンションの建設・商業ビルの建設や企業本社の建設と、狭い地域のアチコチで工事や建設が進行中だ。

 そのため、アチコチに防塵ネットや立入禁止のバリケードが張り巡らされ、重機やトラックや資材がそこここに目立つ。

 つまりは暗がりが多く、死角が出来やすく、人通りも少ない。

 そういった環境を好むのはいつの時代も犯罪者と無法者で、どんなに警察が見回っても窃盗や強盗や性犯罪などの犯罪が起こり、エネルギーを持て余した若者が起こす騒動も暗闇と死角を選んでいるように見える。


「ちょっと帰るタイミングじゃないでしょ? ほら、私ってやっぱり若くて美人でオシャレだから」

 後半は鯨井をからかっているのか、同年代の女性たちから羨ましがるであろう美脚を見せつけてくる。

「美人かどうかはちょっと横に置いておいて、その格好じゃ危なっかしいなぁ」

 鯨井には今の若者のオシャレはよく分からないが、美保を一人で帰宅させるのは危険だということは分かる。

 ただ、美人の部類に入る容姿だとは思うのだが、鯨井としてはショートカットより背中まである黒髪を首のあたりで一つにまとめる髪型が好みで、残念ながら美保は明るい茶色に染めているし、美保を美人だと認めた瞬間に自制が効かなくなりそうなので横に置いた。

「ボディーガードとまでは言わないけど、髭面のオジサンが送ってくれるなら助かるなぁ」

「ふうむ。それはいいんだが……。美保ちゃんの家ってどこだっけ?」

「ここから牧場の方に下って、国道まで出たとこのマンション」

「あれ? もしかしてうちの隣りのマンションか? あんな広いとこ住んでるんかいな。師匠も儲けてるみたいだけど、お父さんも儲かってるんやな」

「私、一人暮らしだよ?」

「そうなのか?」

 あえて美保に興味を持たないようにしていたため、住まいを知らないことで美保を落胆させてしまったようだが、ここまで話が進むと送迎するしかなくなってしまった。

「おじいちゃんも優しいけど家賃を持ってくれる程じゃないし、お父さんもおじいちゃんに出させる気はないしね。とはいえ、大学院生を分譲マンションに住まわせる親もいないでしょ。普通に安いワンルームです」

 美保は普段研究室では野々村教授を『教授』と呼んでいるが、今は鯨井とのプライベートな会話なので『おじいちゃん』呼びだ。

 余人の前で美保が野々村教授を『おじいちゃん』呼びすると、ひどく気を遣った顔をされるらしく、『公と私の使い分けに苦労する』とは美保の愚痴だが、鯨井からすれば美保との関係の近さこそ苦慮せねばならない。

「なるほどな。……ちょっと待ってくれよ……」

 美保からパソコンへ視線を移して、鯨井はマウスを走らせる。

「とりあえず必要な資料だけプリントアウトしたら車で送ってやるよ」

「助かるわ、クジラさん」

「三十分程かかると思うから、用事とか支度が終わったら声かけてくれ」

「はぁい」

 美保に話しかけてはいるが、体をしっかりパソコンに向けた時点で鯨井の集中力は全て作業に向けられている。

 それが分かっているから美保も適当な返事をして鯨井から離れた。

――これが計画的な作戦やったら、まんまとハマってしもうた、のかな――

 送迎どうこうのあたりから美保の機嫌が良くなったのが少し気になった。

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