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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第三章 広がる波紋
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予感 ③

「まあ、うん、そういうことだ」

 一瞬、玲美の脳裏に高齢の柏木珠江と鯨井のまぐわう姿が浮かんでしまい、小さく身震いした。

「待て待て! 勘違いせんでくれ! ないぞ! してないからな!」

 あからさまに引きつった顔をした玲美の誤解を解くためか、鯨井は身を乗り出して強く否定した。

「ええ、でも……」

「人工授精だよ。遺伝の研究だけじゃなくて、人工受精も柏木センセの研究対象なんや。さすがの俺も柏木センセを抱くわけないやろ」

「そ、そう。そうなのね」

 鯨井の狼狽ぶりから真実味を感じたので、一応の納得をして玲美はカップに口を付け、気持ちを落ち着ける。


「でも、最初はそのつもりだったのね。柏木先生らしくないわね」

「ああ。あの人間嫌いで偏屈な異端児が、研究のための準備とはいえセックスを是とするなんて、天地がひっくり返るほど驚いたよ。よりによってこんなクソ生意気な若造とだからな」

 玲美が落ち着いたのを見て鯨井も椅子に座り直す。

「よほど気に入られたのね。どうやって断ったのかしら?」

 玲美は意地悪い質問と思いながら、それでも鯨井にぶつける。

「気に入られたというより、他にアテがなかったんだろ。助手や弟子も居るには居たが、センセが気を許せるほどではなかったように思う。俺に気を許してくれてたとも思わんが。……とりあえず俺にも女は居るし、尊敬するセンセを抱くという発想がないって断ったよ。決め手は『妊娠するんですよ』だったな」

 懐古しながら苦笑いする鯨井に玲美はハテナ顔を向ける。

「どういう意味かしら」

「うん。柏木センセはずっと独身を貫いてらっしゃるが、遺伝や遺伝子操作を研究してるくらいだから、当然妊娠に関わるデータも持ってらっしゃる。ということは、つわりや陣痛や体調の変化や体機能の変化も分かっているわけだから、それを体現できるのかと逆質問したわけさ。そう言われてシミュレーションしない研究者はいないし、柏木センセの性格上、妊娠のために研究が制限されるなんて耐えられるわけがない。結果、取り出した精子で人工授精に至ったというわけだ」

 少し胸を張って話す鯨井を見ながら、玲美は核心へと話をすすめる。

「そうして孝子さんや一美さん、一郎君が生まれたのね」


 どこか面立ちの似た三兄弟は、名前の一字を取り出して並べると『孝一郎』になる。


「まさか三人も育ててるとは思わなかったよ。協力者がこんなこと言っちゃいかんのかもしれんが、研究目的で人を産み育てるというのは、やっぱり複雑な気持ちだよ」

「それだけ?」

「ああ。他に何かあるか?」

 急に詰め寄るようにトーンを落とした玲美を、鯨井は怪訝な表情で問い返した。

「ご自分の子種でしょうに。ちょっと無機質すぎじゃないですか? お腹を大きくして痛みの中から産まれ出た命ですよ?」

 少しずつ滲んできた怒りのトーンに鯨井は慌てる。

「ちょ、ちょっと待て! 俺が愛情をもって柏木センセを抱いた結果、彼らが産まれたのならもっと人間らしい感情で話すことはできる。だけど、俺は孝子が産まれて少ししたくらいに一度顔を合わせただけで、そこからは時々メールをやり取りするくらいなんだ。親子や父親なんていう繋がりや感情は、一般家庭よりは薄いよ」

 玲美がこんなに感情的になって怒りを顕にすることは珍しいからか、鯨井の弁解は感情論ではなく、医者や研究者としての側面に訴えかけるように聞こえた。


 玲美は鯨井の割り切ったような弁解を聞いて、つまらない質問をしてしまったと悔いた。

 別れた旦那の元で暮らす二人の我が子と重ねてしまったからだ。

 鯨井のケースと自分のケースでは、考え方や捉え方の出発点が違いすぎる。


「ごめんなさい。うちの子のことを思い出してしまって、感情的になってしまったわ。……でもこれだけは改めて欲しいのだけれど、いくら人工授精でも仮腹となる母体がなければなし得ない。それが柏木先生本人が受胎したのか、別の代理母を設けたのかは分からないけれど、彼らは痛みを超える慈しみがあってこそ、産まれ出たはずよ。そこだけは意識の隅に置いておいて下さい」

「……そういうことか」

 決して失念していたわけではないが、普段から玲美は旦那の元に引き取られた子供の話はしないし、そのことに悔いや未練がある雰囲気も匂わせない。そのために鯨井も玲美を独身女性として扱いセックスにも応じたのだが、こうして医者としての観点ではなく、母親としての感情で訴えられてしまうと、無下には扱えない。

 先程は軽薄な物言いをしたが、鯨井にも自らの分身たる遺伝子が存在しているという感慨は持っているし、長女孝子がハイティーンになるまでは心配もしたし支援もしたのだ。

 実際に手を取り会話をし抱擁を交わすような愛情表現はしていないが、彼らを子供と認め、また父と思ってくれる彼らとの間に、親子とまでは言えなくとも遠い親戚のような繋がりはしっかりと持っているつもりだ。

「分かった。改めよう。……ちょっと話が込み入ってしもうたの。そのへんをブラブラして気分でも変えようか」

 飲み干してしまったコーヒーカップを示し、なるべく自然な表情を作って玲美を促す。

 玲美もカップを空にし、鯨井に合わせるように軽く微笑み返す。

「そうしましょう。やっと二人きりになれましたもんね」

「お、うん」

 先程の母としての激高は何だったのかと思うほどに、玲美はあっさりと女の顔をのぞかせ、鯨井は戸惑いながらも受け入れてしまう。


 店員に長居した詫びと感謝を伝えて会計を済ませ、北野坂を三ノ宮方面へ下っていく。

「……そういえば、例の刑事が言っとったが、アワジはちときな臭いことになっとるから、しばらく戻らない方がいいらしい」

「どういうことです?」

 小洒落たカフェや輸入ハム専門店の前を通り過ぎながら続ける。

「うん。なんでも高橋智明が新皇居を占領しとるらしくてな。近々警官隊を大量に投入して力づくの解決を図るらしい」

 周囲の通行人を気にして鯨井が小声になったので、玲美は鯨井の腕を取って体を寄せる。

「大胆ね」

「高橋も、黒田君もな」

 平気で胸を押し当ててくる玲美に気後れしながら鯨井はさらに続ける。

「何人突っ込むのかは知らんが、恐らくその作戦は失敗するらしくて、そうなったら自衛隊を要請するらしい。まあ、警察でどうにもならんかったら当然の運びかなとは思うけどな」

 正面から歩いてきた女性が美保と似た背格好と服装だったので、気まずくなって鯨井は視線をそらした。

「智明くんは、もうそんな状態になっているの?」

「らしいな。幸い死人は出ていないようだが、ろくに近付けもしないのに負傷者は山のように出てるそうだ」

「ちょっと、予想できなくなってきたわね」

「……ああ」

 玲美が不安を押し殺すように鯨井の右腕を強く抱いた。

 丁度、北野坂から三ノ宮方面を向くと神戸のビル群の隙間に播磨灘が望め、その遠くに薄っすらと淡路島の輪郭が揺れている。

 空は久々に晴れ間の見えた清々しい青だが、鯨井と玲美には不安ばかりが大きくなる景色だった

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