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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第三章 広がる波紋
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予感 ②

   ※


 ポートアイランドからポートライナーで三ノ宮まで出て、北野坂を北に上っていったイタリアンレストランに、鯨井孝一郎(くじらいこういちろう)播磨玲美(はりまれみ)の姿があった。

 ポートアイランドに設立された国立遺伝子科学研究所に篭りきりだった二人には、久しぶりの外食となる。

 もともと神戸市中央区北野界隈は異国情緒が観光の売りの一つだが、二人の訪れたレストランは十九世紀頃の洋館を改修し、内装や調度品や絵画などにも拘った落ち着いた雰囲気のレストランで、ランチタイムを過ぎて客入りが少ないことがなお二人をリラックスさせる。


「このラム肉のソテー、絶品ね」

「んまいっ!」

 優雅にフォークを動かす玲美とは対象的に、鯨井はマナー度外視で食欲優先で口を動かす。

「もう。雰囲気が台無しだわ」

「そう言うなよ。デートじゃなきゃ牛丼特盛ってくらい久々の肉なんだ。ガッツキもするさ」

 デートという単語に玲美の機嫌は持ち直すが、ワインをガブ飲みする鯨井を見て小さく溜め息を漏らす。

 柏木珠江(かしわぎたまえ)教授の指示のもと高橋智明の遺伝子解析を手伝っていた二人だが、当初三日で概略を示す予定は難航し、結局一週間近い期間を使って昨晩その作業を終えたところだ。

 二人は雑用程度の手伝いしか出来なかったが、珠江をはじめ孝子(たかこ)一美(かずみ)・一美の双子の弟の一郎(いちろう)の四人は、連日長時間にわたる解析と分析を行ってくれた。

 無論、あくまで概略がまとめられたというだけで、本格的な分析はこれから何年もの月日をかけて読み解き考察を加えていかねばならないのだが、そうなってしまっては専門外の鯨井と玲美には手伝えることがない。


「でも意外と柏木先生もお優しいのね。私達にこんな時間を与えてくださるなんて」

 ワイングラスを傾け雰囲気にあった言い回しをする玲美だが、鯨井を見る視線は少し厳しい。

「そうでもなかろう。センセのどこを切り取っても『気遣い』とか『優しさ』なんて心情はないな。人間の性格や人格や感情なんぞ、脳内の電気信号の反応程度にしか思ってないからの」

 玲美の視線を気にしたのか、柏木珠江から受けた過去の仕打ちを思い出したのか、鯨井は微妙な表情でラム肉のソテーを頬張る。

「……刑事さんに連絡は?」

「ん? ああ、済ませたよ。時間がかかったことを散々に愚痴られたが、あっちはあっちで立て込んでるらしくてな。三日ほど経たんと神戸には出てこれんそうだ」

「そうなの」

 ウエイターが次の料理を運んできたので、しばらく黙る。


「だがね、それはそれでこっちも他のことを調べる時間が作れるからの。空き時間が出来ちまうと文句を言い返しておいたが、ま、おあいこだな」

 運ばれてきた夏野菜と鶏ハムのパスタをフォークに絡め取りながら鯨井は気分良さそうに笑う。

 玲美もボンゴレビアンコを口に運び、口内に広がる白ワインとハマグリの風味に目を細める。

「意外と気が合うみたいね」

「たまたま利害が一致しただけやろ」

 心外だと言わんばかりに口を尖らせる鯨井だが、この一件に関しては黒田刑事でなければ鯨井の思い通りにならなかったろうと玲美は思う。

 黒田のように柔軟で不真面目な部分を持ち合わせた刑事でなければ、あのタイミングで淡路島を出ることは叶わなかっただろうし、柏木教授の元で高橋智明の細胞を調べるなどということも許されなかっただろう。

 粗野で横暴な振る舞いはとても理知的とはいえないが、長身で凛々しい面相は男らしく思うし、鯨井とは違う野性的な魅力は玲美があまり接してこなかったタイプだ。


「またそんな言い方をして……。ということは、また誰かに会いに行くんですか?」

 黒田と鯨井の仲をつついても楽しそうな話ではないと感じ、話を戻してみる。

「いや、どうかな。文献や論文を漁るだけで終わりそうだが、会って話すべき人に行き着いたら移動することになるかもしれん」

 パスタをまた一口食べてからワイングラスをもたげて伏し目がちに答えた鯨井は、どこかに迷いがあるように動きを止める。

 パスタを食べ進めながら玲美はそんな鯨井の様子を観察していたが、鯨井の頭の中が予想できなかったので尋ねてみることにした。

「何か、気になることでもありましたか?」

「いや、そういうわけじゃない。ただまあ、変なことに首を突っ込んじまったなぁって思っただけさ」

 玲美の問いに笑顔で答えた鯨井だが、頭の中では別のことを考えているのだなと分かってしまう。

 ただでさえ婚約者の野々村美保を淡路島に残し、一週間以上神戸に留まっているのだから、余計なことを考えない方がおかしい。むしろ鯨井は美保の所へ戻ることが正道であって、玲美と睦んでいることがおかしいくらいだ。

 この上さらに何日も滞在が延びると分かっていれば、戻るべき女のことを考えてしまうのが男性というものだろう。少なくとも玲美が関係を持った男性はそうだった。


「そうですね。やむを得ずとはいえ、医者の仕事ではないものね」

「ああ」

 ボンゴレビアンコを食べ終えた玲美は、ナプキンで口元を清めながら、仕事をほっぽり出して鯨井と行動している自分を棚に上げつつ、こんな機会を利用した自分を自嘲した。

 それでも鯨井に固執した玲美には、どうしても聞いておかなければならないことがあった。

「このタイミングで聞くことではないのかもしれないけれど、聞いてもいいかしら」

「何だい」

「孝一郎さんと柏木教授の関係、公表してないですよね。なぜ?」

「気になるか?」

「それなりに……」

 この一週間、解析作業に関わる傍らでずっとこの問題が二人の間に横たわっていた。


 鯨井から玲美に率先して話すようなことではないし、玲美にしても強く鯨井から聞き出さなくてはならない話でも関係性でもない。婚約者のいる元彼に非公表の家族がいたとしても、今の玲美が説明を求める権限もないし、鯨井に説明する責任もない。

「拒否もできるんやが、居心地悪いし、話さなしゃあないかの」

「私なんかでごめんなさい」

 鯨井の婚約者である美保ではないことを詫びたが、鯨井は手を振って不問にする。

「美保ちゃんには彼女らの存在すら匂わせられんよ。まあ、やましい事は一切ないんだがの」

 そこまで前置きしてから鯨井はパスタを食べきり、ワインを一口含んでから口元を清めて姿勢を正した。


「どこから話せばいいか分からんから出会いまで遡るんやが、まだ俺が野々村教授の下で脳外科の何たるかを学んどる時に、何かの会合に出席した野々村教授に付き添ったのがキッカケやった。

 そん時は、俺は運転手みたいなもんやから柏木センセと会話することもなかったんやが、センセとはその会合が初対面やったな。それから野々村教授の元を離れて専門医育成プログラムで赴任した病院でセンセと再会した。

 もちろん、最初の会合の時に会話もろくに交わしてなかったから、センセは俺のことなんか覚えてもいなかったが、顔を合わせるのが二度目だと伝えたら気安く接してくれてな。師匠と同等の権威であり異端児が口を聞いてくれるってのが嬉しくて、調子に乗っちまったのかもしれん」

 鯨井は一旦言葉を切ってデザートのアイスクリームを口へ運ぶ。

「柏木センセはああいう人だから、周囲から浮いていても気にしないし、むしろ余人を寄せ付けないように振る舞うような人だから、センセにすり寄る奴なんか居なかった」

「孝一郎さんは違った?」

「可愛がられていた、と言っていいか分からんが、若気の至りで柏木センセにじゃれていった俺を、センセはなぜだか構ってくれていたよ」

 昔を懐かしんで不器用にはにかむ鯨井を、デザートを食べ終えた玲美はテーブルに両肘を付いて組んだ手の上に顎をのせて聞いている。

「気に入られたのね」

「かもしれん。柏木センセに打算も野望もなく尻尾振ってじゃれつくなんて、普通なら恐れ多くて出来ないからな。センセからしても変な奴がまとわりついてきたと思ってたかもしれんの」

 冗談めかしつつ、コーヒーを一口すすって続ける。

「そんなこんなしてたある日。俺の専門医育成プログラムが終わろうって時に、柏木センセに食事に誘われた。そんな事をする人じゃないから、指定された店にすっごい緊張して向かったのを覚えてる。……結果、話の内容なんてのは柏木センセが病院を辞めるってだけの話だったんだが、手伝って欲しいことがあるから、連絡先を教えろと言われた」

 話が長くなってきたのでタバコを吸おうと取り出したが、禁煙なのを思い出して手持ち無沙汰でコーヒーをすする。

「それで?」

「うん。それから二年後に、突然電話がかかってきて、遺伝子解析の研究所の責任者になったから神戸まで来いと言われたよ。まあ、その頃の俺はまだお気楽に地方の病院で脳外科医をやってたから、誘われるままに研究所を訪れた。菓子折りなんか持っていってな。……そうしたら、研究課題のために精子を提供しろと言われた」

「柏木先生らしいわね」

「今だから話せるが、当時は焦ったよ。花も盛りを過ぎた年上の女性から『精子を提供しろ』なんて言われたら、何事かと思うわな」


 さすがに玲美も手を解いて不安顔になる。

「……セックスを求められたということ?」

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