オン・ザ・ロック ②
〈――もしもし?〉
〈やあやあ、ご同輩。今ちょっとええか?〉
〈黒田か。……何か用か〉
H・Bからかけた電話に出た浜田はやや陰鬱な声音で応じ、黒田の突然の連絡にいつもとは違う辛気臭さをまとっていた。
ともあれ、勤務中ならば私用の電話に出るはずはないし、取込み中なら『職務中だ』とすげなく通話を終わらせるだろうから、気兼ねなく用事を伝えて構わないだろう。
〈何ってほどの用事ゃないけどの。お前がかまんのやったぁ、一回くらいメシでもどうかと思ってよ〉
〈……ハンッ〉
穏便な誘いに、鼻で笑って嘲るような応答がありムッとしたが、そもそも黒田に向けられる浜田の悪態は今に始まったことではない。
断られたのならばそれまで。ちょっと気が向いただけの電話だ。
〈……本町四丁目の『ムーン・ストラックス』、知っているか?〉
〈洲本か?〉
〈ああ。スナックビルの半地下のバーだ。そこで飲んでる〉
〈ん。ちょっとまおってもったぁ合流しょーわ〉
嘲りとは一転、普段ではあり得ないくらい素直に居場所を明かし、黒田が同席することを了承もせずに浜田との通話は切れた。
――ムーン・ストラックス。……『月に惑わされる』か――
タクシーを手配するついでに英和辞書アプリで和訳を調べ、バーの店名としては小洒落たものだと納得しながら、浜田の様子のおかしさもそのせいか?と勘繰ってしまう。
「んなアホな」
黒田の知る浜田行雄という男は、ロマンチストでもなくそんな繊細な人物とは思えない。その日の気分に合わせて意味ありげな名前の店で飲むなど、浜田らしくない。
黒田は頭をよぎった空想を捨て去り、白無地のTシャツから紺地にライトブルーのラインの入ったポロシャツに着替え、財布とタバコをスラックスのポケットに突っ込んで寮を出た。
※
「おーきに」
時間は午後九時。
七月半ばの夏日はこの時間になっても街路に篭っており、エアコンの効いたタクシーから降りた黒田に当たるオレンジの街灯が、体感温度を狂わせて一気に汗が吹き出る。
辺りは戸建てとマンションが入り乱れる住宅街だが、自営の店舗やテナントビルも寄り集まるように並び立ち、平日の更けた時間ながら人通りはまあまあある。
電柱とマンションの住所表示を頼りに数分歩くと、五階建てのスナックビルが見つかった。
「ここやな」
外観は、縦長の白タイルが整然と貼り付けられた小綺麗なビルで、半地下に下りていく階段とエントランスは褐色のタイル張り。エントランス左手側には一階へと上がるコンクリート製の外階段が蛇行しながら五階まで張り出している。
この外階段にそれぞれの階に入居している飲み屋の看板が掛けられており、地下の店舗の看板はエントランスからの下り階段の壁に掛かっていた。
浜田の居るバー『ムーン・ストラックス』は半地下階の右手奥の一つ手前。
レトロな風合いのドアを引き開けると、癖のある低いベルが鳴り、バーテンが「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。
店内は十坪ほど。
左手には壮年のバーテンが立つカウンターと壁一面を埋める酒棚。天井からの照明はカウンター席へ緩く灯された暖色。バックバーに並べられたボトルのラベルには、棚板に貼り付けられた白色LEDライトが淡く当てられ、バーテンの人柄が分かる。
右手側は赤レンガ調の立体壁紙が奥まで続き、コートハンガーとフェイクグリーンが等間隔で配されている。
最奥に手洗いがあり、カウンター席は七席。
手前には仕事帰りであろう中年のサラリーマンが腰掛けてい、トイレに近い奥の席に半袖シャツに綿パン姿の浜田が居た。
「おう。急にすまんな」
「……別に」
片手をあげて合流の挨拶を告げると、浜田はさして興味も抱かずに、手持ちのグラスのお代わりを頼む。
浜田が酒に強いという話は聞いたことがなかったが、バーテンに押しやったグラスは角の取れた氷の塊が斜めに転がっており、底に残った琥珀色の液体が照明に反射してロックグラスと氷の輪郭に黄色い輪郭線を作っていた。
「俺も同じのをもらおかな」
「ハーパーのロックだぞ」
「品評会に来たんちゃうし」
どうやら長期醸造の洋酒を割らずに飲んでいるという意味らしかったが、黒田が洋酒に詳しくないのだなと諦めたらしい浜田はバーテンに「やってくれ」と二人分の注文をしてくれた。
壮年のバーテンは聞こえるか聞こえないかの返事をして新しいグラスを取り出し、足元のアイスクーラーから子供の拳ほどの氷をトングで掴み上げてグラスに落とした。
透明の塊が透明な器に跳ねて踊る音がし、バックバーから抜き出されたボトルから琥珀色の液体が氷に浴びせられる。
音もなくコースターに置かれたグラスは、しかし氷の塊を惰性で滑らせ、グラスに当たって気泡の弾ける音を立てた。
その頃になって控え目に店内に流れるサクソフォンのバラードに気付く。
「ええ店、知っとるな」
「普段は飲まない。ここしか知らんよ」
「……ほうか」
やはりいつもと雰囲気の違う浜田の様子を確かめつつ、黒田はグラスを取り上げて無言で浜田のグラスに打ち合わせ、洋酒を口へ運ぶ。
唇に当たった氷塊の下をまだ冷え切っていない酒が潜り抜け、舌の上を濡らす頃に七月の暑気に火照った唇がキンッと冷えた。
フルーティな香りが口内に広がり、甘みと苦みが分離すると強いアルコールの香りが全体を覆す。
喉から胃へと流れていく頃にカッとした熱が胸から首へと這い上がってきた。




