料亭『四つ葉』 ③
部屋内は八畳。青々とした畳に黒檀の座卓が真ん中にどっしりと構え、向かいの四枚の襖はそれぞれ季節ごとの木の枝葉と鳥が描かれており、床の間にはまだ葉の青い楓の下を鮎が泳いでいる夏の掛け軸が掛かっている。
上座には禿頭の痩せた男性が和装で座していた。
「この度は、なんと申し上げてよいか……」
廊下に膝を付き、頭を下げようとした公章を老人が制する。
「まずはお入りなさい。謝らせたいわけじゃぁないんだ」
棘のない優しい声音だが、老人は笑うでもなく表情は平らで、心情や機嫌が読めない。
入室を促された公章は、恐縮しきりで中腰のまま部屋内へ進んで老人の向かいに膝を落とすも、用意された座布団の後ろに控えた。貴美も続いて、公章と同じように座布団の後ろに外れて正座し、老人に向けて一礼する。
使いの者は仲居に「お願いします」と告げて、料理やら飲み物の支度にかかるよう促し、廊下に膝を落とし一礼し障子を閉じた。
「……貴美さんは大きくなったねぇ。いくつになったかね」
「十七になりました」
「そうかい。直接会うのは三年ぶりくらいか。今までの頼み事もよくやってくれた。感謝しているよ」
老人は両手を袂に入れたまま何気なく語りかけ、本題を悟らせない言い回しで、感謝の言葉が本物であるように軽く顎を引いた。
貴美は「滅相もありません」と返した。
老人の名は氏松一蔵。
野党議員で、衆院選を幾度も通過し党代表を務めたこともある古参議員だが、齢七十を数えて党運営からは退き、引退や後継者探しも囁かれるほど表舞台からは身を引いている。
しかし、貴美らの一派とは付き合いが長く、公章の兄であり貴美の伯父にあたる法章が守人を務める以前より関わりがあったのだそう。
貴美が守人を引き継いで約十年。氏松とは三度ほど顔を合わせているが、うち二度は公務で淡路島に立ち寄ったために背広姿で、残りの一度は選挙に落選しカジュアルな服装での来訪だった。
今日のような和装は初めて目にしたが、貴美の記憶の中ではすでに氏松は年老いた姿であり、印象は改められなかった。
顔を合わせた回数こそ三度目だが、氏松からの依頼は二年に一度は寄せられ、多い時には同年中に数度、使いの者や電話での依頼があった。
貴美が守人となった近年でさえこの頻度なのだから、表舞台で現役の働きをこなしていた時期はもっと頻繁であったろうと想像できる。
ただし、互いに素性を教え合っていても、公章や貴美が氏松の名を口にすることは慎むように約束しており、公章から連絡を取ることも限られた場合に決められた手段でと厳格であった。
そこまでしなければならない極秘の繋がりだからだ。
「……先生。それは、我々を――」
本題に入らない氏松に、焦燥にかられたか公章が切り出した。が、氏松はこれを黙殺した。
そこへ障子の向こうから「失礼します」と使いの者の声が割り込み、飲み物と食事が運ばれてきたことを教えた。
氏松は、「お出ししておくれ」と応じて、障子が開かれ仲居二人が入ってきて、一人が茶の支度を始めもう一人がお通しの小鉢と箸休めの小皿を配して退室した。
「根菜の炒め煮と、青菜の和え物にございます」
残った仲居も茶を煎れて配ると、湯と急須を端へ寄せて料理の紹介をし、退室していった。
障子が閉じられてからふた呼吸開けて、氏松は湯呑みの茶をすすり、言った。
「僕ぁね、一度の失敗で関係を切ってしまうほど手前勝手な人間のつもりはないよ。今まで守人の助言には何度も助けられてきたからね。今回のことも、今までのような簡単な頼み事と侮っていたのかもしれない……」
言葉を切って、氏松はもう一口茶をすすり、湯呑みを置いてから続けた。
「……僕と君たちの関係を絶つつもりはない。しかし、今、淡路島で何が起こっているのか、何が起こったのか、知らなければいけない。そのために足を運んでもらったんだよ」
言い終えて袂に手を入れた氏松に、公章が「恐れ入ります」と頭を下げた。
貴美も追って頭を下げたが、さて、と考えを巡らせる。
今、淡路島で起こっていることを説明しようとするに至り、貴美が見聞きしたことは多くある。
智明と優里の人智を超えた能力の覚醒しかり、真らバイクチームが非認可のナノマシン技術で機械化を図ったことしかり、法章や占い師らが力を結集して智明に抗ったことなど、この二週間ほどで怒涛の体験をしたといえる。
しかしこの全てを氏松に伝え明かすとなると、それで良いのだろうか?と躊躇う自分がいる。
この身で体験したこと全てを包み隠さず伝えたとき、何が起こるだろうか、と。
智明がしたこととしようとしていること。
優里がどんな気持ちで智明に寄り添っているのか。
真が手を付けてしまった未知の技術と、貴美との関わり。
テツオやサヤカや、智明の傘下に加えられたバイクチームのこと。
氏松とは別に、刑事や記者も智明とその一派を追っていること。
そして、氏松はどんな行動や対応を考えるのか。
――踏み入ってはならぬ領域に踏み込む覚悟――
ふと、貴美の脳裏を言葉がよぎった。
これは数日前に、雑誌記者高田雄馬に声をかけられて大阪へと同道し、立ち寄った作家の事務所で耳にした一節だ。
貴美に向けられた言葉ではなかったからさほど意識して留め置いていなかったが、現在の様々な事案が『踏み入ってはならぬ領域』なのでは、と想像すると、『踏み込む覚悟』とは大きな意味になると感じた。
少なくとも、貴美はそれに触れている。
智明の淡路島独立の意志を知る貴美は、今何をしなければならないかを見極め、そのうえでどこに進むかを決めなければならず、そのためには氏松にどこまで話してよいかを見定めなければならない。
そして、貴美の向かおうとする先が氏松と違う道ならば、これまでの関係が変化してしまうことを覚悟しなければならない。
――私が願うのはこの国の平和。……人々の安寧。……真の幸せ――
胸の内で大事にしているものを大切にしたい順に並べ、貴美は向かうべき先を決めた。




