国立遺伝子科学解析室 ⑤
警察としてモヤモヤの残る議論は黒田を疲れさせただけだが、玲美が空気の循環を与えるように微笑を浮かべて、黒田と増井をいざなってくれたので黒田は一時的に頭を白紙に戻せた。
『口』の字の上座に珠江が座り、その右側に鯨井が座ったので、黒田と増井は鯨井の正面に座る。
一番最後に玲美が鯨井の隣に座ったところで、先程の年長の女性・孝子がコーヒーを配り、年少の女性・一美がお茶受けを配した。
各々がカップに口を付ける中、珠江はクーラーボックスを開いて中身を観察する。
「…………なんのつもりだい?」
「そのままだ。その体細胞と血液から分かることを全部調べて欲しい」
温度管理されたシャーレをとっかえひっかえ眺めてから、珠江はクーラーボックスを閉じて鯨井を睨む。
「私も仕事だからね、目の前の物をあれやこれやと解析する手段は頭の中に浮かびはする。だけどね、一個の検体だけ渡されて調べろというのは、パズルの一ピースだけを与えて全体の絵を当てろというようなものだよ」
珠江の比喩に鯨井と玲美は苦笑したが、黒田と増井はキョトンとしている。
「DNA鑑定とかってそういうもんじゃないのか?」
「全然違うね。鑑定というのは、複数の細胞や体液が同一人物か別人かを比較する作業のことを言うんだよ。『どんぐりころころ』の歌詞を『水戸黄門』のメロディーで歌えたからといって、二つは同じ曲ではないだろう? メロディも歌詞も同じだから二つは同じ曲の譜面ですと証明するのがDNA鑑定なのさ」
珠江は初めて機嫌を損ねずに黒田の問いに答えた。
そして今度も初めて鯨井に厳しい視線を向ける。
「こんなものを調べあげてなんになるんだい? 何を知りたい?」
「そのものズバリ、全部知りたい」
一旦間を開けてカップをおろして鯨井は続ける。
「この生物が何者かを知らなきゃいけない。今のうちに調べ始めておかないと、間に合わない気がしてんだわ。たぶん、果てしなく時間がかかる作業のはずだから……」
「……そうだね。概略は三日で出せるがね、『全部』となるとフル稼働で一週間から二週間。そこから整理して見取り図に置き換えて、詳細まで調べ上げるとなると一ヶ月。一つ一つに解説をつけるなら二年だね」
「そんなに?」
「そんなにだよ。むしろ二年なら早いくらいだ」
珠江の示したスピード感と黒田が思い描いていたスピード感の違いに思わず声が出てしまったが、鯨井はそれでも早い方だと言う。
「学者が何人も集まって最先端の技術も導入して行った最初のヒトゲノム解読は二十年近くかかった。まあ、大きな規模で大人数が関わったのもあるし、精査に精査を重ねて発表したからそれだけの年月がかかった側面もあるんだが、二年で答えが一つ明確になるのならここに来ないわけに行かないだろ?」
事を急いだ自分の判断は正しかったと言いたげな鯨井の表情に、黒田は納得しつつも腹立ちを覚えた。
「じゃあ、俺がここに来る必要はなかったやないか。二年後には事件は終わっとるぞ」
「だが真相は闇の中だ。もう一つ言えば事件は終わっていても、あの現象が解き明かされないまま幕が引かれるだけだ。謎の事件が謎のまま終わって、また似たような事が起こった時にゼロからやり直さなきゃならん。終わったから調べなくていいという話じゃない」
「つまらん話は外でやっとくれ。ここは科学と医学の話をする施設だよ」
今にも立ち上がって鯨井に詰め寄っていきそうな黒田に、珠江はキッパリと告げた。
「……もう一つだけ言わせてくれ。……黒田君。今日ここへ君が来ていなかったら、君は俺をどうしたと思う? ここに来てここまでの話を聞くことは必要だったと思わないか? 君らが同席しなかった場合、俺は君らにこの後に得られる情報や事実を伝えることはないはずだ。そこを考えてくれないか」
鯨井がそこまで言わなくても黒田はハッキリと自覚していた。
黒田が担当した事件で、未解決になるような複雑な事件や証拠や証言のない事件はなかった。必ずどこかに手がかりは見出せたし、人手を使って地道な聞き込みから真犯人へと辿り着いたこともある。
だからこそ、もしそれらの事件も重要な証拠や証言がなかったならどうなっていただろう?と想像することは容易くできた。
もしも、鑑識班が1ミリ以下の塗装片を見落としていたら?
DNA鑑定や繊維片の照合などで確証が得られなかったなら?
いくつかの事案が脳裏をよぎり黒田は小さく震えた。
「……きっと、納得のいかない捜査中止に腹を立てて、解決に近付けなかった不甲斐なさでモヤモヤして過ごすやろうな」
うつむき加減に答えた黒田に、優しい声がかけられる。
「医者も同じですよ。考えられる限りの手を尽くしても、患者さんを救えない時があるし、後から学んだ理論や手法に自分の不勉強や判断ミスを浮き彫りにされることもあります。……多分、科学者にもあるはずです」
人を慈しむ微笑をたたえながら玲美は黒田に語りかけ、珠江へと顔を向ける。
「そりゃそうさね。スポンサーがつかずに研究が進まない科学者は五万といる。金の切れ目が原因で研究を諦めた奴は何人もいる」
意外なところから慰めの言葉がかけられ、黒田は純粋に頭を下げ、素直な気持ちを口にする。
「……こういう機会を持てて救われた部分があるのかもしれない。色々口を挟んだが、やっぱり真相が気にかかる。手間をかけるけども、結果を教えてもらえると嬉しい」
「もちろんだ。その約束で来たからの」
上司の姿に追従する形で増井も頭を下げ、鯨井も了解の旨を示した。
その後、黒田と鯨井は連絡先を交換し合い、鯨井は三日後には判明するであろう概略を聞くために神戸に留まる意思を示したため、淡路島へ戻る黒田と増井を見送りに出た。
「じゃ、気をつけてな」
「そっちこそ気を付けてな」
「なんのこっちゃ?」
黒田の意味有り気な言葉の真意が分からず問い返した鯨井だが、黒田の視線の先に玲美が立っていることで察するものがあった。
「……余計なお世話だ」
「そうか? 民事には介入できんからな」
「それこそ余計だわ」
鯨井は思わず握手に力を込めたが、年下の刑事の方が力は強く、振り払うように握手を離した。
増井とも軽く握手を交わすと、二人は乗用車へ乗り込み施設から走り去った
。
「さて、柏木センセのお手伝いだな」
「そうですね。聞きたいことは沢山ありますけど、それはまた夜にでも伺いますね」
振り向いた鯨井にそっと寄り添った玲美のささやきは、先程の黒田の言葉の到達点だと悟り、鯨井は冷や汗を一筋流した。
「お、お、おう」
ギブスよりも重い足枷が嵌ってしまった気がして、鯨井は今のうちから言い訳や説明を考え始めた。