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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第二章 多忙な一日
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優里の記憶 ①

 旧南あわじ市(いち)にある南あわじ警察署。

 その一階の片隅にある喫煙所で黒田幸喜(くろだこうき)は缶コーヒー片手に、H・Bで情報の整理をしていた。


 本来なら神代(じんだい)にある国生(こくしょう)警察仮設署からデータベースを利用するべきなのだが、政府が指定した避難区域に当たるために古巣である南あわじ署からアクセスさせてもらっている。

 もちろんこれには出来ることと出来ないことの制限もあるのだが、高田舞彩や雄馬ら報道関係者が得られる情報とはまた別視点の情報が得られるであろう期待感がある。

 現に黒田の脳内には過去数十年分の全国各地の事件や、警察の出動記録などが溢れかえっている。


「黒田さん」

「おお、増井か。悪いな」


 ノックもせずに入ってきたバディに軽く応じ、前屈みだった体を起こして軽く伸びをする。背中と腰に負担がかかるほど長時間身を屈めていたからか、背骨が伸びる音と腰に血の通うような痺れが来た。


「今日も避難所とかの見回りやったんやろ? ご苦労さんやな」

「職務ですから。とはいえ、元から住んでいた住人にも言い分がありますし、最近住み始めたばかりの住民にも負担がかかってますからね。つまらない揉め事を聞いて回ってるようなものだから、うちも消防も、公務より気を遣いますよ」

「事件にならんことを祈るしかないな」


 政府が発した避難指示は諭鶴羽山の周辺五キロにおよび、該当する人口は数万人規模の避難になるため、近隣自治体の公民館や学校施設では収容しきれず、国費で旅館やホテルなども避難所としてあてがわれた。

 これらに風聞が加わり待遇や避難者同士のプライバシーなどで摩擦が起こりやすく、警察と消防は定期的に巡回して混乱や摩擦を抑え込まなければならなかった。

 もっともそれらは避難指示に従って避難してくれた真っ当な市民への対応であって、中には窮屈な避難所生活から抜け出すものや、そもそも避難指示に従わない者・避難などどこ吹く風で悪事を働く者などを警らで見回り対応もしなければならない。


 こうした二重三重の気苦労を分かってはいたが、黒田はややぞんざいに労っただけで済ました。

 政府からは公式の発表はないが、マスコミはこの避難を『一週間程度』と報じているし、黒田は目の前で自衛隊高官が高橋智明に『三日間の自由』を約束したのを見ている。

 ある程度のゴールが見えていれば心を乱す必要はなく、むしろやるべきことのために落ち着かなくてはと思う。


「それで? なんか情報あったりするんけ?」

「なくはないですが……」


 忍耐強く礼儀正しい真面目人間の増井は疲れを苦笑いに混ぜながら、一旦言葉を切って続ける。


「H・Bの一般利用と普及が根付いてから三十年経ちますからね。関連する事件となると千や万では収まりませんよ。ましてや発生地域の偏りなんて調べてどうするんです? 警察だけじゃなくて、厚労省や病院なんかに届けられてるのを含めたら、それこそもう一桁増えますよ?」

「しゃーないやんけ」


 しち面倒臭い情報収集を頼んだのは黒田だが、増井の返答に今度は黒田が苦い顔をした。

 黒田も関連事件の多さを理解した上で仕方なく調べているから。


「普通に刑事事件としても、警察の管轄に収まらんナノマシンの事案やったとしても、もう手ぇ出してもうたんや。でっかいモンに切り込むにも、打ちのめされて消されるにも、もうちょっとツッコまんと諦めもつかんやろ」

「まあ、黒田さんらしいですけどね」


 大仰に肩をすくめる黒田に、増井は『巻き込まないでくれ』と言わんばかりのため息を逃して言い返し、こちらも小さく肩をすくめた。


「けどアレですよ。新都だけでも違法なH・Bの売買や改造ダウンロード、未成年者のH・B化なんかは無数にあります。そんなの調べて何がわかるんです?」

「いや、そんなもんはデータや記録を集めてまとめとるだけや」


 少しだけ前向きになった増井の態度に合わせるように、黒田も起こしていた体を屈ませ、声のトーンを落として内緒話に移行する。


「要はな、誰かが何かしようとしたっちゅうデータがあったらいいんや。逮捕や制裁が目的やない。

 そいつらの傾向や履歴を明らかにして、何がしたいんかを追っていったら、そいつらの目的とか狙いが見えてくるやろ。

 そこまで引っ張り出すか突き止めることが大事なんや」


 手元の缶コーヒーを弄びながら黒田は小声であったが熱を込めた。


 この事案の取っ掛かりは高橋智明の暴走や独立運動だったかもしれないが、その根本である『力の覚醒』なぞは黒田の領分になく調べようがない。

 そんなものはとっくに鯨井に任せている。


 自衛隊の防衛軍化阻止も御手洗政権の暴走阻止も、高田雄馬の担当だ。


 となれば黒田が今注力すべき事案は身体を強化するナノマシン『HD』となる。

 脆弱な人体が強化され人類の寿命を伸ばしたり、非力な人類に十倍の筋力を授けると聞けばHDは大変に有用な技術に聞こえはする。

 しかしそれを得るために人体実験が行われ、強すぎる力を授けるというお題目は、黒田には過剰ではないかと思える。

 そうした目論見が(よこしま)な利益主義や商魂から来ていないか?と勘繰ってもいる。


 加えて、人類が生身の部分を損なって無機質なロボットに成り代わってしまうのではないかとも。

 それは黒田の弱気や恐怖ではなく、人類が進むべき正道ではないのではないかと思えてならない。

 そんな黒田の気持ちを察したのかどうかは分からないが、増井も前屈みになって応じる。


「でも、そうだとしたら範囲は膨大ですよ? 何せH・Bに関する事件は三十年前から起こってます。アワジだけでも三桁を超えます。これが日本中となったら――」


 到底個人で調べられるものではない――そう言いたげな増井の言葉を黒田が遮る。


「分かっとる。だからお前にはアワジに絞ってもうたやろ。俺も範囲を絞ってやっとるよ」


 黒田は力なく笑いながら答え、増井の気遣いに幾ばくかの感謝を返した。

 さすがの黒田も日本全国四十八都道府県を洗いざらいに調べ上げるような無茶はしない。

 高田雄馬が調べてきた『有限会社ヴァイス』と『光のレイライン』から、長野・三重・和歌山・島根・長崎・宮崎・兵庫に絞っている。

 ことに兵庫に関しては『ノムラマサオ』の活動拠点と思しき伊丹を含んでいるため、入念に行っている。

 と、増井の口ぶりからふとした疑問が湧いた。


 ――H・Bが世間に認められ普及したのが三十年前か。しかし昨日の優里ちゃんの話では、彼女が巻き戻したんは十五年なんとちゃうかったか?

 だとしたら、HDだけやなくてH・Bは巻き戻る前の世界にも存在したんか?――


 昨日の高橋智明とWSSウエストサイドストーリーズとの戦闘の後、優里から語られた『パラレルワールド』の話はそれなりにショッキングな内容だった。

 日本を破壊し尽くし智明が暴走して世界が終わったなどにわかには信じられなかったが、優里が命をかけて『やり直しを願った』という話も尋常ではない。

 その話のとおりであるとするならば、HDは優里によって生み出されたとも捉えられる。

 しかしH・Bは三十年前から存在していることになっている。


 ――この齟齬はなんか意味があるんやないか?――


 答えのない思い付きに表情を固くした黒田に、バディの増井は怪訝な顔を返してくるだけだった。

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