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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第二章 多忙な一日
410/485

新しい動き ⑥

   ※


「……まあまあかな」


 旅行帰りの荷ほどきも終わり播磨玲美との行き違いを清算するために、赤坂恭子は自宅マンションでクッキーの味見をして一人呟いた。

 もう少しだけ余熱を取り粉砂糖をまぶせば気分転換は成功だろうと思えた。

 クッキーを耐熱トレイからクッキングシートを敷いたまな板の上に載せ替え、砂糖と振るいを用意して、おやつのお供で見る海外ドラマを選びにリビングに向かう。


「そうか、これまだ見てなかったな」


 スプラッタやゾンビものもイケるクチとしてはホラー映画でも良かったが、クッキーのお供としてはやや過激なため、少し頭を使う刑事ものの続編を選んでおく。

 映像的な瞬間の連続に感情を動かすよりは、多少なりとも相関関係や推理などで頭を回している方が楽な気がしたからだ。

 今はまだ播磨玲美とのことも、紀夫のことも、鬼頭優里のことも考えないでおこうと思うから。

 リストの中から選んだ海外ドラマ作品をテレビ画面いっぱいに拡大し、後は再生ボタンを押せばいいだけの状態にして振り返る。


 と、恭子の意識の中に今朝の玲美の声がこだまする。


『この機会にどこかへ出掛けたり、他の所を手伝いに行ってもいいんじゃない』


 テレビの前のテーブルとクッションのそばに棒立ちになり、忘れようとしている苛立ちが噴火のように立ち昇って恭子の唇に力がこもる。


 ――そんなの、気晴らしでも気休めでもないじゃない――


 声にしてしまいかけた文句をなんとか飲み込み、落とした目線の先でエプロンを握りしめている手元を見る。

 何をそれほどに力を入れ我慢しているのか、我慢する必要があるのだろうかと、エプロンを放して掌を顔の前で開く。


「分かってる。分かってるってば」


 玲美の言葉に悪意や他意はないことは承知している。むしろ優しさや気遣いの言葉だったはずだ。

 それは、分かる。

 分からないのはそれに苛立ったり怒ったりする自分の気持の出処だ。


「もういいや。食べちゃおう」


 恭子は苛立ちを振り払うようにあえて声を出して宣言し、汚れを拭うように掌をエプロンに擦りつけてそのままエプロンをクシャクシャにして脱ぎ、キッチン脇のバースツールに投げ置く。

 そのままの足でキッチンに立ち、振るいに粉砂糖を入れ取手を握り込んでクッキーに振るう。

 吊戸棚から小皿を取り出し、少々雑にクッキーを移し替え、振るった粉砂糖が舞い散らないようにクッキングシートを丸めてゴミ箱へ。

 コーヒーを淹れるためにドリップマシンを引き出し、カフェオレをセットして電源を入れた。

 ……トッ……トッ……トッ。

 ドリップマシンの中のタンクの水が沸騰するまでの一分。

 いつの間にか流し台に掛けていた指先が時間を測るように音を立てていた。


「……鬼頭優里。……優里ちゃんか」


 真っ白なワンピースを血で汚し横たわっている少女の映像が頭の中を支配した。

 その一瞬あとには血飛沫を吹きながらベッドから半身を起き上がらせた姿。

 玲美に借りたスウェット姿で食事を摂る姿。

 そして白黒チェックのワンピース姿で雑踏に消える姿が頭に思い浮かぶ。


「気にしたくないのに気になるってことは、やっぱり会いたいのかな、私……」


 ようやく苛立ちの原因と向き合えた気がした恭子の目にドリップマシンの『お湯が沸きました』のランプが映り、注湯口にカップをセットしカフェオレを注ぐ。


《――――明日、アリスでお茶しません?》

「ああ、アリスかぁ。アリスだったらミックスサンド食べたいな」


 頭の中に響いた少女の関西弁の声に受け答えし、恭子はハッとなってリビングを振り返る。

 頭の中に呼びかけられたのは初めてではないが、今回もこの前の時も突然の誘い方に失礼を感じ、憮然とした表情になって小さくため息を逃がす。


「もう。電話だってメールだって着信音があるんだから、もうちょっとなんとかならないの」


 文句を言ってから恭子は小さく笑う。

 テレパシーに着信音を付けろと愚痴った己の発想は、どこかテレパシーをツールのように捉えていて陳腐だなと思えたからだ。


「明日ね、明日」


 それでも彼女との大雑把な約束を了承する言葉をつぶやき、カップと小皿を携えてリビングへと向かう。

 ようやく恭子は気分転換の海外ドラマに集中する気になれたような気がした。


   ※


 日曜日の余暇を友達とのショッピングで楽しんだ城ヶ崎心(じょうがさきこころ)は、玄関でスニーカーを脱いでいる時に異変を感じた。

 玄関すぐの階段の脇、リビングへと通じるガラスのはまったドアの向こうで棒立ちになっている兄(きよし)の姿が目に入ったからだ。

 階段脇に買い物袋を置き、そっとリビングのドアを開く。


「……お兄ちゃん?」


 呼びかけようとした心の声は清が何をしているのか分かって、囁きよりも小さな声になった。

 清の立ち姿は棒立ちで左手をズボンのポケットに突っ込んでいたが、右手は右耳を覆うようにして押しあてられており、H・Bでの脳内の通話状態だと教えている。

 その表情は瞑目していても真剣で、こくこくと神妙な頷きも見て取れた。


「…………。なんだ、帰ってたのか」

「うん」


 通話を終えたのか、耳から手を離した清は心を振り向き、言わずもがなの問い掛けをしてきたのですぐに応じた。


「なんの電話? 仕事?」


 不安げに問う心に、清は苦笑いを浮かべながらリビングと一続きになっているキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。


「んー、まあ、そうだな。急な召集だから、夜のうちに出る」

「そんな急に? しばらくゆっくりできるって言ってたじゃない」


 心もダイニングテーブルまで歩み寄って、不安の色が濃くなった悲しそうな目で言い寄る。

 それを軽く笑い飛ばし清はマグカップに牛乳を注いで冷蔵庫を閉じる。


「お前、彼女みたいなこと言うなよ」

「だってさぁ……」


 カップを傾け牛乳を飲む清のシャツの裾をつまみ、心はもの言いたげにしたが悲しそうに視線を落として黙ってしまった。

 それだけで清の仕事の内容だけでなく、両親や真のことまで含んで不安や悲しみを抱いているのだなと清に伝わったようで、清は仕方なさそうに心を引き寄せて軽く背中を叩いてやる。


「お前も大人になれよ。体ばっか成長しやがって」

「……エッチ」


 心の方から強く抱きついておきながら、心は鼻声で清のセクハラを叱り腰のあたりの柔らかいところをつねった。


「ててっ。……真を叱るのも甘やかしだと思ってるくらいなんだから、そろそろ俺にも泣きつくなって言ってんの」

「いいじゃん。家族なんだから」

「俺の彼女がヤキモチ焼きだったら揉めるだろバカ」

「だってさぁ――」


 言い返そうとする心を清が強引に黙らせると、数秒だけ身を委ねた心が清の背中を強く張って体を離した。


「牛乳臭いってば!」

「そっちかよ」


 しかめ面になってしきりに口元を擦る心を笑い飛ばしてマグカップを流しに置き、清は背中をさすりながらリビングの出口に歩みだす。


「まあ、そんな怪我とかする仕事じゃないから心配すんな」

「本当に?」

「当たり前だろ。ニュース見てないのか? そんな物騒なニュースなんかやってないじゃん」


 軽い調子で言い放つ清とは対象的に、最近のニュースを思い出した心は目を見開いて清の後を追おうと手を伸ばす。


「だって、爆発騒ぎとか自衛隊が演習するとか避難とかって――!」

「それとは別だよ。じゃあな」


 追いかけた心の目の前でドアが閉じられてしまい、階段を上がっていく清の足音だけが心に届いた。


「……だって、真が危ないことしてるのは、自衛隊とかと関係ないわけないじゃない……」


 唇に残った牛乳の粘り気のように、色濃い不安だけが心の胸の内に残ったが、清の口から本当のことは語られないことが分かっているのでそれ以上は聞けなかった。

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