新しい動き ④
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洲本温泉郷から自宅へと戻った高田舞彩は、すぐさま別れようとする黒田刑事を引き止めるような愚策は犯さず、なるべくあっさりとしたハグとキスだけをして見送った。
これは黒田の男を立ててやったとか仕事や用事を優先したとかではなく、黒田を送り出した後には舞彩の用事や予定が出来上がっているからだ。
もちろん、予定がないからといって舞彩の気が済むまで引き止めるというわがままを言うのは簡単だけれど、それは舞彩の流儀に反するし、それをするほどウェットな女でいるつもりもない。
現に舞彩はさっさと自宅のある八階に上がって玄関を施錠し、リビングのソファーにバッグを放り出すやいなや報告書の作成に取り掛かったくらいだ。
昨日起きた事件とその後の会議を一気にまとめてしまい、大きく息を逃がして自室へ。
潔く脱ぎ去った夏物スーツをクリーニング用の籠に放り込み、旅の間に溜め込んだ洗い物を抱えて下着姿のまま洗面所へ入る。
洗濯機に洗い物をぶちこみ脱ぎ去った下着もろとも洗ってしまう。
肝心の裸体はすぐさま浴室へと入り込んで、シャワーの温度を調節している間にメイクを洗い流し、シャワーヘッドを高い位置に掛けて一気に全身に浴びる。
気持ちの切り替えにも仕事の切り替えにもシャワーは有効的で、特に暑気に当てられる七月の昼間のシャワーは舞彩の頭の中も心の中もスッキリさせてくれる。
一通りのケアを終えた舞彩は大振りのバスタオル一枚を体に巻いて自室へ。
乳液とローションでフェイスケアをし、ボディローションでスキンケアを施し、体の熱が引くまでエアコンに晒す。
「よし」
十四時きっかりまで体を休めたあと、気合いを一つ入れて立ち上がり、クローゼットを開いて紺地の下着を身に着けコバルトブルーのシャツに袖を通しグレーのスーツを着込む。
ドレッサーに腰掛け、外回り用ではなく会議用のきっちりメイクに仕上げて髪型も一つ括りにし髪留めでワンポイントを付ける。
リビングに戻った舞彩はソファーに投げたままのバッグを取り上げ、『テイクアウト』編集部にメールを送って玄関へ向かい、少しだけヒールの高いパンプスを履いて半地下の駐車場へ。
車内でもう一度メイクののりを確かめてから車を発車させ『テイクアウト』編集部へと向かう。
「ミーティングルーム、空いてますか」
「……ああ。今すぐか?」
「お願いします」
少し強めにヒールを鳴らして編集デスクに向かった舞彩は、そのままの勢いで編集長梶田にミーティングルームの使用を求めた。
記事起こしや入稿の段階ならば周りの耳目を気にする必要はないが、こと記者同士というのは互いが追っているネタに関してネタバレや外部漏れを気にする。そのため取材中の進捗などは編集長やデスクとの個人メール以外では、ミーティングルームのような遮音された空間で行われる。
ただ、完全な密室はハラスメントの危険性を生みやすく、同性であれ異性であれ行動を記録する防犯カメラが備え付けられている。
これに舞彩はICレコーダーを持ち込むことでもう一段防御を行う。
「……相変わらずだな」
「ネタがネタですから」
ミーティングルームに入るなりICレコーダーで録音を始めた舞彩に梶田は嫌そうな顔をしたが、舞彩からすればこの梶田という男は下品で下劣で油断がならない。
防犯カメラとICレコーダーだけでなく何重にも防御を張っても、その発言や論説はシモの方へと向かいたがる。
それらをかいくぐり取材続行の許可を取り付けるため、黒田との情事を勘ぐらせないための禊は済ませておいた。
有能ではあっても欠点のある人物に事前策を敷かねばならないのは、女としての戦い方の選択肢が少ないことをこの時代でも実感させられる。
「まあいい。それで? 雄馬とも連携してるネタだったろう?」
舞彩の顔と胸を往復する梶田の視線に耐えながら舞彩が答える。
「雄馬と共闘はしてますが、この事件は複数の要素を持ってます。それはメールでも言いましたよね? 雄馬は政治と自衛隊。私は超能力者と違法なナノマシンを追ってるんです」
「把握してるよ。雄馬の手の広げ方はあまり関心せんがね。東京支社はおろか大阪でもずいぶんと人を使ってる。元を取ってくれなきゃ本社の面目に影響しかねんくらいだ」
「それに関しては申し開きはしません。御手洗内閣の趨勢だけでなく、その裏にある強引な政策や金の流れまで切り込めるネタはいくつもあるんですから、真相にまでたどり着けなくてもいくらでも記事になりますからね。誰も損をしません」
追っているネタの大きさを想像できていない梶田にカチンと来た舞彩は毅然と言い返し、雄馬のしようとしていることの便宜を図っておく。
舞彩と雄馬の共闘はそれほどに絡み合いリンクしているからだ。
「ネタになればいいわけじゃないが、『テイクアウト』に『テイクアウト』らしい記事を書いてくれるなら文句はない」
「それじゃあ、私の方も認めていただきたいですね」
「ナノマシンの方は止めちゃいない。問題は眉唾な超能力者の方だ」
だらしなくチェアーにもたれて手を振った梶田に、舞彩は仕方ないかという諦めを感じる裏で自分に向けられている不信を感じて少し苛立った。
「高橋智明は独立を宣言しています。新都を丸々国土として切り取るような宣言です。そして御手洗首相と近日中に会談を持つというくらい話が進んでるんですよ? これを後回しにできないと思いますが?」
「そりゃそうだ。だがね、中学生の戯言に総理大臣がハイソウデスカと国土の切り取りを許すのかい? そんなもの、超能力以上の絵空事じゃないか。超能力もそうだが、中学生が真っ向から会談を仕掛けて現職の総理大臣から国土を奪い取る可能性があるというのかい? 君はそれを信じてるのかい?」
見下すように笑い小馬鹿にする梶田は、常識的な正論を振りかざしたつもりになってチェアーを回転させ斜に構えた。
だが舞彩はそんな梶田を視界に収め『分かっていない』と憤る。
自衛隊をはねのけ人智を超えた戦いを行った高橋智明の能力だけでなく、彼の持つ組織と統率はもはや日本国の内側に存在する脅威であり、独立の申し出はこうしている間にも進行しているのだ。
その危機感を梶田は感じ取っていない。
「私は、彼の独立は起こり得ると感じています。彼が御手洗総理と何を話し、どんな条件や脅迫をするかはわかりませんけど、彼の独立はこの目で見る限り現実味があります。それは身体を金属化したり機械化するナノマシンと同じくらい、私達の身近に迫っている脅威です」
捲し立てた舞彩だったが梶田のリアクションはそこまで大きくなかった。
チェアーを元の位置に戻し、テーブルに手をついてまとめただけ。相変わらず見下げた視線だ。
「構わんよ。ネタにはなる。ただし、笑われん記事を書いてくれればの話だ。優先度はナノマシンの下だがね」
「……ありがとうございます」
結局、梶田は舞彩の危機感や使命感を理解しないままだったが、取材続行の許可は出してくれた。
梶田にすれば『小賢しい女記者のわがままを聞いてやった』程度の許可で、舞彩がミスをすれば下劣なハラスメントで下品な要求で迫るネタにするつもりなのだろう。
そうはいかない。現時点では梶田よりも舞彩のほうが現実を見ている。
だから、腹いせにあえてプリントアウトしておいた伝票の束を突きつけてやる。
「これ、ここまでの経費です」
「お、おう」
梶田のムッとした返事まで録音してから舞彩はICレコーダーを停止させた。




