拘束 ①
国立遺伝子科学解析室を離れた播磨玲美と赤坂恭子は、神戸で一泊し、恭子の借りている西路のマンションに戻ってきたところだ。
政府主導の避難指示に際して休業を余儀なくされた中島病院の都合に合わせ、高橋智明の関係者である鬼頭優里の血液と細胞を運び込んだのだが、遺伝子科学解析室の柏木珠江から助手や雑用係としても相手にされず、鯨井からもやんわりと送り出されてしまった。
神戸から淡路島へ取って返すこともできたが、遺伝子科学解析室での恭子の扱われ方は見ていられないほど立場がなく、不憫に思った玲美は買い物や食事などで彼女の気分転換を図ったのだが、どうにも気が紛れた様子のない彼女をほうっておくことはできず神戸で一泊したのだ。
「……忘れ物はないかしら?」
「……大丈夫です」
数泊は覚悟していたせいか、玲美の車のトランクから下ろされた恭子の荷物は大仰で、たった一晩で舞い戻ったことが気の毒に思う。
「私がなにか言うのもおかしな話なんだけど……」
普段よく見るゴシック調の黒いロングスカートを翻してマンションへと向かう恭子に声をかけた玲美だったが、適当な言葉が見当たらず不自然なところで言葉が途切れてしまった。
いつの間にか足元に向いていた玲美の視界の隅で恭子のレザーブーツが玲美の方へ向き直ったのが見える。
「もう、いいじゃないですか」
「いいって、赤坂さん――」
「買い物もしたし、美味しいものもごちそうになったし、ホテルで一泊して今日になったんです。整理がついたってことにしとけばいいじゃないですか」
明るい声で捲し立てる恭子に気に病んだ様子はない――ように聞こえるが、足元から目線を上げて十歩ほど離れた位置に立つ恭子の全体を視界に入れると、そうではないことが伺える。
弾むような声に反して口角は下がり、顎を上げて視線は玲美の方には向いていない。
「いいの? それで?」
聞かずにはおれなかった。
普段の太陽のような笑顔がトレードマークの恭子とは違いすぎて、恋愛相談をした頃の恭子とも違った苦悩が見えるのだ。
と、恭子が寒さに凍えるように小さく身震いし、肩を怒らせて何かを飲み込むように顔をしかめさせた。
「い、いいわけないですよ? でもどうにもならないじゃないですか。私だって看護師なんです。こんな時の切り替えくらい自分でやれますから。
だから、もう、いいじゃないですか」
何かを放り出して捨ててしまうような言い方に恭子の葛藤や恥辱への怒りのようなものを感じた。
人命との向き合いや患者とのふれあいを日常としている医者と看護師ならば、一時間前の死の後に退院の見送りをしなければならないこともある。そうした極端な切り替えは医療現場の現実であって、ドラマのように決められたセリフを言えば乗り切れるというものではない。
恭子が直面したのはそうした生命の死活ではなかったが、玲美に付き合ったがゆえの神戸での立場のない扱われ方は、彼女のプライドや精神を大きく傷付けたのは間違いない。
院内の業務を優秀とは言わなくても周囲が求める以上にこなしていた自負がへし折られたのだろうから、恭子の怒りや失意や悔しさは玲美にもよく分かった。
だが、恭子の心情を慮るばかりに、玲美は「でも――」と言ってしまった。
「もう、ありがとうございました! ここまででいいです!」
玲美の気遣いを断ち切るように、腰を折って深く頭を下げた恭子を見て、玲美の罪悪感や申し訳無さが増してしまう。
「そうね。ここまでにしましょう」
恭子の勢いや潔さに引っ張られる形でするりと出た言葉は、玲美の気持ちとは裏腹なものだったが、恭子を肯定した言葉だったので自分にもまだ社交性が残っているのだなと意外に思う。
「まだ避難指示は解除されないみたいだし、その間は病院にも行けないもの。時間があるものね。
そうだ、どうせならこの機会にご実家に帰ったり、友達や病院の皆と旅行とかいいんじゃない?
体を動かしたいなら、短期間のアルバイトもいいだろうし、今なら移送先の病院で手伝いの仕事もあるかもしれない――」
「播磨先生!」
「――あっ」
油断だった。
恭子を気遣う言葉を並べ彼女に同調したことに緩んだ拍子に、玲美の口は勝手に動いていて、何かを取り繕うようないい加減な提案がぽろぽろと流れ出ていた。
恭子の声で我に返った時には自分が何を喋っていたのか記憶になく、振り向けた視界の中で睨みつけている恭子を見てハッとする。
眉を吊り上げ眉間には皺が寄り、引き結んだ唇は微かに震え、今にも決壊して言葉が溢れ出ようとしている。
「ごめん、なさい。今のは、忘れて」
ひどく動揺した玲美は途切れがちに謝って視線をそらし、別れの言葉も言わずに慌てて車に乗り込んだ。
震える手でなんとかシートベルトを締め、動作だけの安全確認をして車をスタートさせる。
入り組んだ細い路地を抜け、31号淡路サンセットラインを西へと進み、湊交差点から北に向き慶野松原の松林に差し掛かった頃に脳内で一人つぶやく。
――なんで、こんなことをしてしまうんだろう――
つくづく人間関係を築くことが下手であると痛感する。
わざわざ傷付いている相手に言わなくてもいいことを言ってしまい、反感を買ったり不愉快にさせてしまう。相手の好意を裏切ってしまう。
言ってしまってから『言わなければいいだけなのに』と後悔するが、今日もまた恭子を傷付けてしまった。
鯨井との関係についても同じだろう。彼が玲美の勝手に付き合ってくれていただけで、玲美が鯨井に何かを返してやれた覚えはない。
思い返せば別れた夫ともそうだった――。
「……やっぱり独りがお似合いなのかしらね」
今まさに壊れてしまった人間関係を振り返ってみたが、悲しさや寂しさが涙となって流れ出ていかない玲美は、独りきりの車中で自分をなじることしかできなかった。




