国立遺伝子科学解析室 ①
日付が土曜日に変わった頃、鯨井と玲美は神戸淡路鳴門自動車道から明石海峡大橋を渡り3号神戸線に乗ってポートアイランドを目指していた。
国生警察での任意同行と聴取のあと、一緒に行動したがった美保をなだめすかせて自宅に帰らせ、食事と風呂・着替えと薬の補充をして玲美の高級外車に乗り換えての強行軍だ。
警察の車両で向かうことを鯨井が嫌がったし、さすがの玲美も淡路島から神戸まで軽自動車で向かう胆力はない。
国生警察仮設署の刑事・黒田と増井も別ルートで同じ目的地に向かっており、翌朝に現地で落ち合う手はずになっている。
「播磨ちゃん、疲れたらいつでも言ってくれよ。代わってやれんけど、時間はあるから何度休憩しても構わないからな」
「ええ。そこは遠慮なくとらせてもらいますよ。そのために野々村さんを残して来たんでしょ?」
「まあ、一応はの」
助手席が右側なので外の景色を眺めるふりもできず、鯨井は仕方なく進行方向を見つめる。
「優しいんですね」
「んなこたぁない。誰にだってこんな感じだ」
少しだけ玲美の態度に違和感を感じたが、鯨井は当たり障りない言葉を返した。
車が緩く長いカーブを過ぎ、また直線に戻るまで二人の間に沈黙が流れる。
「……高速を下りたら軽く何か食べて、仮眠を取りましょうか」
「んあ? ああ、それもいいかもな」
国生警察の刑事たちとは翌朝に合流すればいいので、玲美の提案になんらおかしなところはない。
ポートアイランドに設立された国立遺伝子科学解析室の柏木珠江教授も、深夜帯はさすがに就寝しているはずだ。
淡路島から神戸市内までは、明石海峡大橋を渡って高速道路を走れば三時間もかからずに向かうことができるが、平日の朝は何ヶ所か渋滞しやすい区間があるため、玲美の体力も考えて深夜のうちに出発したのだ。
だが、学業を優先しなければならない美保を残して二人きりになった途端、鯨井に対する玲美の接し方が変わってきていた。
「鯨井先生?」
「うん?」
「野々村さんとは、その、そういうおつもりなんですか?」
鯨井は道中のどこかで野々村美保の話題が出るとは思っていたが、玲美がここまで直球で聞いてくるとは思っておらず、驚いて玲美の横顔を凝視してしまった。
現れては流れていく街灯の光を受ける玲美の横顔は、三十半ばとは思えない健やかな可愛らしさがあり、玲美の人懐っこい性格も相まって以前の職場でも男性たちから人気があった。
反面、女性医師や女性看護師からはあざとく見られたようで、玲美も関係改善に努力していたがなかなかうまくいかなかった。
鯨井と玲美が出会った頃、玲美はすでに結婚して二児の母であったが、同じく医者をしている旦那とのすれ違いや同居する義両親との関係に悩み、離婚へと至ってしまった。
玲美が離婚という決断に至る少し前、鯨井は玲美からの相談にのるため何度か食事へと赴いたのだが、その時にもののはずみで二人は体を重ねてしまった。
玲美はそれが離婚の原因でも決め手でもないと明言してくれたが、以来二人の間にはじんわりとその時の記憶が想起され、気まずくもあり昂ぶるものもある。
「ああ、その、まだ交際を始めたばかりだがの。相手が相手だから、ゆくゆくは、という感じだな」
「そうなんですか」
なるべく正確に状況を伝えたつもりだが、玲美は悲しみもせず祝福もしなかった。
「……玲美ちゃんは――播磨ちゃんはそっちはどうなんだ」
「そっちとは?」
思わず昔の呼び方をしてしまったことを後悔しつつ、鯨井は言葉選びに頭をフル回転させる。
「子供さんは旦那の方が引き取ったと聞いてるし、実家から離れているだろ? 再婚――とまでは言わなくても、付き合ってる人とか付き合いたい人は居ないんか?」
チラリと視線を向けた玲美と目が合い、慌てて鯨井は進行方向へ向き直った。
また沈黙。
「……この前言いませんでしたっけ? 恨みはないけど未練はあるって」
「ウオッホン! オホン!」
予想通りの答えが返ってきたので、鯨井は聞こえなかったことにしようと大袈裟に咳払いをした。
「ん、ん! このタイミングでそういう話はやめておこうか。あんまり播磨ちゃんらしくないぞ」
「私らしくないってなんでしょう」
間をおかずに切り返した玲美の言葉に鯨井は閉口する。
「私、都合のいい女じゃありませんよ」
「そりゃあ、そうだ」
玲美の追い打ちに鯨井は降参するしかなくなり、男の弱さをさらけ出すしかなくなった。
「俺だって播磨ちゃんをそんなふうには見てないさ。ただ、男はダサイ生き物やからな。美味しいと知ってるものが目の前にあったら、手を伸ばしたくなる愚か者だ。未練に似た感情だと自分を偽って、つまみ食いとか間違いをやっちまう馬鹿者だ。俺が播磨ちゃんを抱くのは簡単やけど、一時の快楽で抱くのは失礼だし、快感を思い出して過去をリプレイするなんて俺にはできん。感情の伴わないセックスは動物として摂理から外れとると思うんだ」
堅苦しい弁論をたれながらも、鯨井は男の欲と理性を戦わせていた。
玲美が自分を切り離せないでいることは感じていたし、鯨井自身も玲美の気持ちを汲む形で収めてもいいかと考えた時期もあった。
しかし美保の存在が鯨井の興味や欲望を引き、目が離せなくなり放っておけなくさせた。
今は、玲美と一時的な官能にふける喜びよりも、美保を失う恐さに怯えているのが鯨井の本心だ。
「それでいいじゃないですか。私達は医者ですけど、その前に欲望も欲求もある男と女ですよ。むしろ動物です。神様や仏様みたいな高尚な行いばかり選んで生きれない。感情に身を任せてしまう時だってあっていいじゃないですか」
「過ちを過ちと思えばこそ、繰り返さないという選択なんだがの」
「……私は過ちだなんて思ってませんよ。結婚期間中でしたけど、痺れるようなロマンスでした」
鯨井は必死に反論の弁を練り上げようとしたが、しばらく車の走行音が響くだけになった。
「……次の生田川で下道に下ります」
「お? おお」
玲美のつぶやきに顔を上げると、京橋パーキングエリアの案内板が車窓を後ろへ流れていくところだった。
京橋PAを過ぎれば生田川までものの数分だ。鯨井に残された猶予はどんどん少なくなっていく。
「三宮なら、深夜でもソバくらいやってるよな」
「……さあ、どうかしら。あまり詳しくないんですよ。繁華街だから二十四時間営業のファストフードはあると思うけど」
「最悪牛丼か」
「あら、私は牛丼好きですよ」
「肉食だねぇ。俺はもうオッサンだから、夜中に肉は重い。検索して何もなかったら牛丼屋にしようか」
「……任せます」
つまらなそうな、疲れたような表情を装う鯨井を、玲美に笑われている気分になるが、今は堪える。
実のところ鯨井が思うほど玲美は鯨井に執着していないし、心理戦や駆け引きを仕掛けているわけではないのだ。
鯨井は美保との関係を保つために玲美を抱けないと言うが、玲美は鯨井との関係を深めたり進めたいという欲はないし、ましてや美保を交えた三角関係を形成しようというのでもない。
過去に体を許した男に一瞬もたれかかって甘やかな時間を欲したにすぎない。
玲美の表した未練とはまさにそれで、欲しているのは一時の止まり木であり、鯨井が拒もうとする恋慕のような湿ったものではない。
ウエットな感情にしているのはむしろ鯨井の方なので、玲美にはそれが可笑しい。
「……駅の北側ならなんなとありそうだ。パーキングに停めて歩こうか」
「その足で?」
「……ラブホテルなら歩いていいのか?」
鯨井のやけっぱちな言い草に思わず笑みがもれる。
「全力で支えますよ。おぶりましょうか?」
年下の女性におんぶされる自分を想像して、鯨井は勝ち目も逃げ道もないことを自覚した。
「……負けたよ。ラブホテルのルームサービスで済ませよう」
「はい」
玲美は努めて冷静に返事をし、生田川料金所から一般道へ移り、JRと阪急の高架をくぐって三宮界隈へ車を向ける。
六月の週末ということもあってか、深夜にも関わらず通りには人の行き来があり、道幅の狭さもあってホテル街まで少しかかった。
運良く駐車場のあるラブホテルを見つけて乗り入れ、エレベーターでロビーへ向かい、部屋を選んで別のエレベーターで部屋へと上がる。
「ふう。やっぱりしんどいな」
「患者さんの気分になれましたか?」
部屋に入って早々二人同時にソファーに倒れ込むように座り、玲美は悪戯っぽく問いかけた。
「言わんでくれよ。飯の後に薬があるのを思い出したよ」
医者らしくない台詞をもらす鯨井に玲美はもう一度笑いかけ、体を離してメニューが表示されたタブレットを取り出す。
「ああ、ありがとう」
鯨井は平静を装ったが、自分が以前に利用した時よりルームサービスのグレードが上がっていることに内心では舌を巻いていた。
――この十年、進歩したのは医学のみにあらず、か?――
鯨井も中年真っ盛りになり、研究や仕事に打ち込むあまりに世間からは置いてけぼりになってしまったクチで、辛うじてH・B化は行ったが、それも仕事で必要だったからだ。
世間の動きはニュースなどで見聞きしても、年相応のロートルな思考や度々思い知るカルチャーショックは仕方がない部分もある。
《――の午後に起こった国生市西部の爆発と見られる閃光と爆発音に関して、政府関係者はテロなどの可能性は否定したものの、依然原因は分かっておらず、今後も警察及び消防が調査を行い真相の究明にあたるとのことです。一部では隕石の落下や不法投棄された廃棄物から出たガスが引火したのでないかなど、憶測やデマがささやかれており、周辺住民の混乱や遷都への影響などが心配されています――》
「……強盗騒ぎに隕石か。世紀末だな」
「ごめんなさい。消しましょうか?」
玲美が何気なく点けたテレビに、鯨井が真剣に見入ったのでそう声をかけた。
鯨井の表情がプライベートな顔から仕事の顔になったことが気になったし、甘やかなセックスの雰囲気が損なわれるのを玲美が嫌ったのだ。
しかし鯨井は玲美を気遣う風でもなく、メニューを玲美に渡しながら答える。
「構わんよ。飯が終わるまで静かなのも寂しいからの。俺は親子丼とソバのセットでいいや」
「じゃあ、私も同じものを」
室内備え付けのタブレットで注文を済ませ、鯨井はまたニュースを注視する。
どうやら食事が終わるまで鯨井はくつろぐつもりのようなので、玲美はそっと立ち上がって室内の探検を始める。
ラブホテルに限らず、女としてはホテルや旅館のバスルームと洗面台周りがどの程度充実しているかは気になるところで、化粧ポーチやお泊りセットを持参していても確かめずにはおれない。
久しぶりに入ったラブホテルは劇的に進化を遂げており、鯨井同様玲美も少なからずカルチャーショックを受けた。この小さな感動やら発見やらを伝えようとソファーの鯨井を見やる。
「…………相変わらずね」
二十代の頃ならば歓声をあげつつ鯨井を呼び込むところだが、三十も半ばを過ぎてハシャぐとわざとらしいし、そもそもの鯨井がニュースに釘付けではリアクションも期待できない。
大人の女らしくやんわりと意表をついていく作戦はないものかと考え、クリーンパックに包まれたバスローブを手に取る。
「嫌な女ね」
今夜の自分の心情や行動を振り返って自己嫌悪しつつ、玲美は洋服を脱ぎバスローブに袖を通した。
すべて脱ぎ去った素肌に直接纏うか迷ったが、見せないことで見たくなる心理を活用しようと思いショーツだけは着けたままにした。
あざといと言われても気にしないし、この程度は武器でも作戦でもない。年齢とともにスタイルは緩んだかもしれないが、玲美の女としての武器はその程度ではない、と自負している。
「……んあ? 着替えた、のか?」
「ええ。仮眠もするなら服のままより楽ですから。孝一郎さんのもありますよ」
「……あ、ああ、あんがと」
玲美の差し出したバスローブを受け取りつつ、玲美の思惑通りに鯨井の視線はアチコチに動く。
久しぶりに呼んだ下の名前は、玲美の方に刺激が大きかったようだが、素直に着替えを始めた鯨井は、やはりチラチラと玲美を見てくる。
追い打ちをかけるように玲美は鯨井のベルトを外しにかかる。
「玲美ちゃん、急ぐなよ」
「怪我人は素直に医者の言うことを聞くべきよ」
「参ったな」
ナノマシンが治癒の補助をしてくれるので旧世紀ほどギブスは分厚くなくなったが、それでも一人で着替えるのは大変な作業だ。今日の出発前に鯨井は着替えに四苦八苦したばかりなので強く逆らえない。
ほぼ玲美の言いなりになりつつワイシャツのボタンを外しながら、スラックスを脱がしにかかる玲美を眺めていると、バスローブの合わせ目に見え隠れする玲美の胸元から目が離せなくなる。
こうなってくると室内の怪しいライティングが欲望をかきたて、チラチラと顕になる太ももやヒザ頭にも目がゆき、下着まで剥ぎ取られる頃には鯨井の男性が猛ってしまっていた。
「玲美ちゃん」
「……食事にしますか? それとも先に?」
やや上目遣いに問いかける玲美には答えず、鯨井は玲美の肩口に両手を差し入れてバスローブを滑らせ、玲美の豊かな乳房を顕にする。
「こりゃ、仮眠どころじゃないなぁ」
以前と変わらぬ玲美の肉感に舌を巻きつつ、鯨井は玲美の手を取って体を引き寄せる。
玲美もショーツを脱ぎ去って鯨井を跨ぐようにソファーへ上がり、雌の顔で体を預ける。
「ああ、孝一郎さん……」
耳元にかけられた玲美の艶っぽい声をキッカケに、鯨井は玲美の尻を持ち上げて二人の体を一つにする。
口付けを交わし合い、舌を絡ませ、互いの胸元を愛撫し、乳首を吸い合い、体を上下させる。
夜が明けるまでまだまだ時間はたっぷりとある。二人が快楽を貪り尽くすには充分なはずだ。