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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第二部 第一章 異例と特例
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神の存在 ⑤

 珠江はブランデーの入ったグラスを回すようにしながら続ける。


「体っていうのは当たり前だが立体さね。xyzの三軸がある空間で立体的な器を授かる」

「そりゃそうだ。地球も宇宙も縦・横・高さに広がりがあるんだから、そこに暮らす生物も無機物も立体になるわな」


 苦笑しつつ答えた鯨井に、珠江は嘲るようにたしなめて続ける。


「立体の中でも平面や行は立体の器に存在しているんだから、その考えは陳腐だね。

 その意味では空間に影響を与える振動という要素が、体という器から発振されている。想像できるか?」


 鯨井もムカッと来たが、確かに紙面に記された二次元の絵も法則に従って綴られる一次元の文章も、紙という平面が法則に従って重ねられ立体の体をなすと捉えれば納得はできた。

 重ねて次の設問に頭を捻る。


「振動を発振かぁ……。すぐに思い付くのは声かな?」

「そうだね。声は声帯を震わせて周囲の空気に振動を与えて音となって立体に広がる」

「ん。……その理屈で言えば、熱も有りか。人間の体に当てはまるかどうかは微妙だが、物と物が擦れ合えば熱が発生する。これを振動だとすれば、立体の中で広がるものとも言えるんじゃないかの」

「上出来だ」


 珠江は満足そうに頷いてブランデーを一口煽った。


「……普通に考えてここまで出れば大したものだよ。ここからは私の飛躍した考えが入ってくる」


 鯨井はまた苦笑し、それを隠すために紙コップを一口傾けた。

 自分の理論を口にする際に『飛躍している』などと前置きするということは、『夢物語を語る』という行為と同義だからだ。

 だがこの偏屈な柏木珠江の語る『夢物語』は少し興味がある。


「……お聞かせ願いたいですな」

「人体が有している振動はあと四つある。

 それは重力・磁力・光を含んだ電波。そして物質を分解・結合させる力だ」

「……こいつは、驚いたな……」


 口元に紙コップを添えたまま硬直し鯨井はなんとかそれだけを返した。


 おおよそ人体の仕組みを語る際に出てくる言葉ではなかったし、説明されるにしても小難しい理論や聞いたこともない研究者の名前が出ると思っていたからだ。

 しかし珠江は満足そうに続ける。


「人は微弱ながら重力と磁力を有している。

 その根拠に、筋力でジャンプをしても時と場合によってその数値が変わることで証明される。飛び上がれば落ちるという行為が地球の重力で支配されているならば、飛び上がった姿のまま地面へと引かれる力に阻害され、ジャンプ中の運動は制限されるんじゃないかい?

 磁力も同様さね。

 人を引き付けたり、大きな原因もなく互いに反発し合う現象は相性や魅力などと言い換えられてしまうが、持つという運動や受ける・取るという運動が筋力だけでは説明がつかないケースは多い。

 クジラなら電波や電流の説明は不要だな?」

「お? ああ、うん。人の神経には常に電気信号が行き交っているし、体表に静電気が発生したり溜まったりすることはある」


 重力や磁力など鯨井が当たり前の知識としてあったものとは別種のものを並べられ慌てたが、脳神経科医として基礎知識を問われてそのまま答えた。


「しかし光を含むような電波となると、ちと話が違うがの」

「そんなことはない。人間の体内に電流を有していればそこには電波が起こっても不思議はないし、感じないから『無い』という断定はない。

 重力や磁力と同じで人間は無意識のうちに電波を発したり、それを感じ取ったりすることがあるのさ」

「そんなものかねぇ……」

「暗がりで人の気配を感じたり、見通せないはずの暗闇を目を凝らせば見えてしまうことがあるさね」


 ここまで珠江からは信用に足る数値や理論は語られておらず、いよいよ老人の妄言に思えてきて鯨井は聞き流すことにした。


「物質の分解と結合に関してもそうさね。

 ただ怪力で塊を崩したり壊したり、柔らかくしたものを混ぜたり固めたりが、筋力や知恵だけで行われていない。その証左は食物の消化と排便で分かるだろう」


 これはまた飛躍した妄言だなと鯨井は嘲笑を隠す。


 確かに噛み砕いた食べ物を胃と腸で分解して栄養素を取り出し、その残りカスを糞便として固めて排出するが、それらは体内の酵素や保有菌や内臓の運動によるものだ。


「そして最後の要素に、自我や意識といった精神が人間を人間たらしめて形成を保っているのだよ」

「……なるほど」


 ようやっと長い解説が終わり、お愛想を言って鯨井はまたブランデーを口に含んだ。

 珠江も説明を終えた喉の乾きを潤すためかグラスを傾ける。


「それが人間が『神を内在する』説明だと?」

「……分からなかったのかい?

 重力を操り、磁力を操り、熱を操り、光を操り、物質を操り、音を操り、それらを全て有意識でやってのけるんだよ。

 これが『神の御業』でなくてなんなんだい」


 ん?と鯨井の動きが止まった。

 もし仮りに、今珠江が並べ立てた事柄を何十倍――いや何万倍にも拡大し、一個人が自由自在に思ったままの操作を行えるのだとしたら?

 重力を操って空を飛び、磁力を操って物体を動かし、熱を操って爆発を起こし、光を操って夜を昼に変え、物質を操って物を作り、音を操って他人に声を伝える。それも思いのままに。


「それは、超能力者――いや、確かに『神』か」

「あたしゃずっとそう言ってるよ」


 酔いが回ってきたのか珠江の理論に打ちのめされたのか、頭の隅っこがピリピリと痺れる感覚に襲われる鯨井はただただ愕然とするだけ。

 対してオフィスチェアーにもたれてブランデーを飲む珠江はいつものつまらなそうな顔に戻ってしまった。


「高橋智明は、『神』なのか……?」

「そうとは言い切れないね。真実『神』であるなら立体的な器は不要さね」


 言われて初めて納得した。

 鯨井の想像や前提には、『神』は全知全能であって常に存在するという無意識的な刷り込みがある。

 人の姿で独善的な独立運動を行っている高橋智明は、到底全知全能とは言い切れず、ありとあらゆる空間に存在しているとも言い難い。


「だから言ったろう、『内在している』と。逆説的に言えば、全知全能の存在感など、人間からすれば宇宙ほどの器を内側から見上げているも同然さね」

「宇宙は神そのものと言いたいのか?」


 もう一段上の暴論に鯨井は慌て、デスクに紙コップを置いて前のめりに問うた。

 珠江は笑って答える。


「例え話だよ。しかし、そのくらい大きな物だと思わなければ崇拝などしないだろう?

 ましてや十五歳の子供を『神』だとは思えないさね」


 言い終えると珠江はグラスに残ったブランデーを飲み干し、アルコールが喉を通る刺激に耐えるように体を震わせ、細く長い息を逃してまた笑った。


「……センセ」


 珠江の様子を見、ただ酒に酔っているのではないと感じはするが、珠江の漏らしている笑いの意味が分からず鯨井は薄ら寒さを感じて震えた。

 どうにも居心地が悪くなった鯨井は紙コップに残っていたブランデーを飲み干し、静かに席を立つ。


「……もう寝るよ。センセも酒はほどほどにな」


 忍び笑いはしなくなったが、珠江からの返事はない。

 仕方なく鯨井は紙コップをゴミ箱へ捨て、スッキリしない気分のまま宿舎へと戻る。


 ――高橋智明が『神』を内在してて、その力を普通の人間以上に顕現して見せていると言うなら、もう一人の鬼頭優里って子の解析を急ぐしかないの――


 個室へ戻って寝る支度を進めながら、限られた時間の中で自分に出来る事に取り組むしかないと鯨井は強く意識した。

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