誰がための拳 ①
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テツオの号令とともに門の瓦屋根に向かって飛び出した瀬名だったが、すぐ近くから無警戒に舞い上がった紀夫が、空留橘頭の奥野にあっけなく弾き飛ばされるのが見えた。
「バカ!」
喧嘩慣れしていない紀夫の失策も腹立たしかったが、テツオと川崎の大将戦が行われるならばその横では自分と奥野の副将戦が当たり前だろうと思い込んでいて、その筋道を外した奥野にも腹が立って罵った。
「こっちだろー」
「瀬名君か!?」
前後不覚になって林の中へと落ちていく紀夫を捨ておき、次の獲物を探そうとしていた奥野の気を引く。
エアジャイロで奥野の前へ躍り出てから後退する瀬名に対し、奥野は空中での方向転換が適わず、一旦着地してから瀬名を追いかけ直す。
囲いの塀の上で待ち受けた瀬名に追いつき奥野が問うた。
「こんな形で瀬名君と向き合うとはね」
「仲良しみたいに言うなよー。シュンイチ君より楽できると思ってんだからさー」
「うちの頭は不在でね。だからって瀬名君を勝たせるつもりはないけどね」
「ラッキーな計算違いだよなー」
ファイティングポーズも取らずに対峙している二人は和やかに話しているが、瀬名の『ラッキー』は本心だ。
小柄な自分が、細身だが身長のある山場俊一とやり合うのはさすがに分が悪い。体格はそのまま手足の長さの違いとなり、リーチ差は瀬名の攻撃手段を狭めて不利でしかない。
山場よりは身長差の少ない奥野の方が戦いやすい。
「騙されないよ」
余裕を見せる瀬名に、しかし奥野は小さく笑って瀬名の言葉を否定し構える。
空手や拳法のような腰を落としたものではなく、どちらかといえばボクシングなどの立ちんぼなものだが、隙きや油断を感じさせない。
「こっちの台詞だなー」
答える瀬名も半身になって軽く拳を持ち上げる程度だ。
――あれ? シュンイチ君よりやりにくいかもな……――
表情にこそ出さないが瀬名は奥野の技量を計るように目配りし、先程の『ラッキー』発言から一転して不安要素が多分にあることを自覚する。
山場も奥野も姑息で無得手ゆえの技巧派なのだが、幾分山場の方が真正直で熱血な喧嘩をする印象で、奥野はどちらかといえば完勝よりも判定勝ちを狙ってくるタイプ。
つまり瀬名と似ているスタイルだ。
「ほっ」
息を詰め軽いフットワークで飛び込んできた奥野から様子見の連撃が繰り出される。
「ほいほいっと」
慌てて後退しながら両手で外へ外へと捌く。
徐々にスピードが早くなる連撃に捌きが追いつかなくなり、とうとう瀬名は顔の前に両腕を合わせてガードせざるを得なくなった。
「フッ!」
奥野の短い呼吸の後に強烈な一撃がガードした両腕に見舞われ、瀬名の体が浮き上がってしまった。
とっさにエアジャイロで後方へと上昇し、奥野の追撃から脱する。
「やるねー」
「……飛べるんだったね」
空中で留まってわざとらしく手をブラブラさせる瀬名に奥野の悔しそうな声が掛かる。
どうやら彼らにはエアジャイロやエアバレットの様な武装はないのだと悟り、痛がるふりをやめて塀の上に降り立つ。
「不公平はここまでにするぜー」
「構わないよ。こっちはこっちで上手くやるから」
喧嘩の最中とは思えないフレンドリーなやり取りを交わしつつ、二人共に腰を落とした構えを取る。
「よっ」
こんどは瀬名が短い掛け声とともに飛び出し、左右の拳を連続で打ち込んで左足の蹴りで距離を保ち、奥野の反撃を封じながら押していく。
武道の経験がある瀬名にしてみれば『右・右・左』とリズムをズラした弱パンチは相手のミスを誘うためのものだが、武道の心得がないはずの奥野はそうした誘いに乗ってこない。
むしろ巧みな捌き方は瀬名に攻めにくさを感じさせる。
「えいあっ」
試しに逆足を踏み込んだ強パンチを放ってみたが、奥野は見事に受けきって威力を逃し、驚いたり怯んだりした様子も見せない。
「チッ!」
ここで自棄になったり感情を乱せば瀬名に隙きが生じてしまうため、連続で大振りな回し蹴りを放って距離を取る。
「拳法やってた人は違うなぁ」
「互角に渡り合っててそのセリフは嫌味だぜー」
涼しい顔でおためごかしを口にする奥野に正直な感想を突き返す。
お互いにHDで身体が強化されているのに格闘経験や技量に差がないというのは、瀬名からすれば驚くべき誤算といえる。
「でも負けられないからね。勝ちを狙わせてもらうよ」
「随分ご執心だなー。この勝負が何かの分け目ってわけでもないだろー?」
「そうでもない。個人的には意味がある」
そう言って少し口元を引き締めた奥野は、先程とは少し違った構えを取る。
ボクシング様の立ち姿から、少し前屈みになって開いた拳をもたげたレスリングのような構え。
「なるほどなー。……じゃ、俺も負けられないや」
文字通り目の色が変わった奥野に呼応するように、瀬名も足を前後に開き腰を落として構える。
瀬名の将来設計には本田鉄郎の快進撃が続いていることが前提で、瀬名の目標や到達点は常にその結果の上に据えられている。
そのためには何者に対しても己の拳を突き込むことに躊躇はない。




