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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第十章 独立戦線/防衛派遣
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覚悟の夜/決意の夜 ①

「ああ……、ええぞ……」


 オフィス棟の使っていない一室に小さな衣擦れの音と、男の野太い囁きだけが聞こえる。


「もっとよぉ見して」

「……もぅ。早くしてよ、恥ずかしいから」


 天井近くの小窓から差し込む廊下からの照明の中で、真新しいデスクを軋ませて男の要望に答えて態勢を変えると、徐々に息を荒げていった男が短く呻いて静かになった。


「……すまんな。こんなことさせて」

「もういいの? 服、着るけど?」


 デスクの上で股を開いた格好の三輪和美(みわかずみ)からは川崎実(かわさきみのる)は薄暗がりにいて影のようにしか見えず、ごそつく物音と仕草から何をしているか想像はついてもはっきり見たいとは思わない。


「約束やろ。ただでさえキモイ事に付き合わせとんねやから、一回スッキリしたぁほんでええんじゃ」


 立ち上がってファスナーを上げながら「ヤれんねやったぁまたちゃうけどの」と付け足され、カチンときた三輪はさっさとはだけた服を整えにかかる。


「私は慰安婦でも風俗でもないの。オカズにされるくらいは仕方ないとは思うけど、目の前でってどうかしてる。二度とこんなことしないわよ」


 ほんの十分前の川崎の誘い方にも腹が立ってきたが、それもこれも差し迫った状況のせいだからと我慢して付き合ってやったが、心底後悔した。


 学生時代から容姿を褒められ、ハメを外したりそれなりの数の逢瀬を経験してきたが、それでも無節操な男女関係は拒んできたし、交際する相手も見た目ではなく相性重視で厳選して付き合ってきた。

 見た目や振る舞いのせいでヤンキーや尻軽のように思われたり性に対して敷居が低いと思われがちだが、話は合わせても三輪から下ネタを話すことはなかった。どちらかといえば嫌っていたくらいだ。


 大学には進まず、親戚のコネで就職した量販店で旦那と出会い二十二で結婚したが、それでも三輪は周囲の男共の性の対象であったようで、不用意に触れられたり夜の生活を尋ねられたり怪しげな視線を感じては言いようのない不快感に苛まれた。


 川崎らチームの仲間から子供を授からないことを期待半分で心配されたりもしたが、むしろこうした性の対象にされていることで愛する旦那との営みが遠のいているのだとは想像すらしてもらえない。


 そのくせ今日の川崎のように自慰の手伝いをされるのだからたまったものではない。隠れていたしている分には知らぬふりもできるが、面と向かってというのは想像以上に不快だった。


「これはほれ、本能や。昂ぶっていこってまうもなぁしゃないやないか」

「バカじゃないの。覚悟は認めるけど、言っていいことと悪いことくらい気遣いなさいよ」


 川崎という男が容易く目の前の重大事に命を賭けて取り組むことは知っている。

 だからといって気安い者を捌け口にされては、その者の負荷はどこにぶちまければよいのか。


『触らない・見るだけ』との約束は守ってくれたが、足を広げ上半身を晒した事が虚しくなり、三輪はデスクから下りて川崎を睨め上げた。


「なんやねん? ほないに怒らんでええやないか」

「嘘でも惚れてるくらい言ってくれたら我慢のしようもあるでしょ! 覚えたてのガキじゃないんだから、自分がスッキリして『もうええねん』なんてサルかよ!って話をしてるの。バカ!」


 女性にしては背が高めの三輪よりもさらに上背のある川崎をひっぱたいてやろうと思ったが届きそうになく、振りかぶった平手を固く握って川崎の腹へ打ち込んだ。


「あ、ごめん……」


 怒りに我を忘れてしまったからか、通常の人間の力加減ではなくHDに強化された全力で拳を繰り出してしまい、川崎が声にならないくぐもった音を発して『く』の字に体を窄ませ、崩れて片膝を着いた。

 加減を忘れたことを謝りはしたが、そこはさすが喧嘩慣れした川崎だけあって、三輪の拳が内臓を押しつぶす前に腹筋を固めていた。


「これはこれで――ゲホッ! 癖になるプレイやな」


 腹を押さえて咳き込みながら宣う川崎に今度こそ三輪は呆れた。


「そんなこと言ってないで、早く結婚しなさいよ。ちゃんと真面目に向き合えば女の子の一人くらい振り向いてくれるわよ」

「ほない言うなや。こんな図体でモジモジしながら告白なんぞできっかいな」

「オナニーしたいから裸を見せてっていう方がよっぽど気持ち悪くて恥ずかしいことしてると思うけど」


 暗がりの中でも泣きそうな顔をしているであろうチームリーダーに情けなさを感じて目眩がしてくる。


「ワミには三回振られとる」


『だからもう何も恥ずかしくない』という理論に『もう一発殴ってやろうか』と思ってしまう。


 確かに、川崎からはバイクチームへの誘いと、自分の秘書に就けという誘いと、そして旦那の存在を知らずに愛の告白を受けた。

 バイクチーム『淡路暴走団』には加入したが、これは川崎の誘いを断ったあとに旦那からの勧めで加入を決めたので三輪の中でも川崎の誘いに応えたことにはなっていない。


「三回断られたら四回目は挑まないの? 仕事ならそんな社員に『もっぺん行てこい』って言うんでしょ? 同じことじゃない」


 三輪は屈み込んだ川崎に対しデスクに腰を引っ掛けて腕組みで語りかけ、すっかりお説教の絵面になっていて笑えてきた。


「確かに。ワミはオカズにすんのは受けてくれたな。ほな、頼み込んだらヤレんのけ?」

「死ねっ!」


 デリカシーのない発言を聞き終わる前に瞬間的にデスクから離れ、ワンステップ踏み込んで川崎の太ましい鼻っ柱に膝蹴りを見舞う。

 今度も手加減なしのHDでの全力だったが、首と上半身を反らせて威力を削いだ川崎の体は小さく跳ねて壁にぶつかって止まった。


「じょ、冗談やんけ」

「笑えない。せめて好意を示してくれないとそんな気にはなれないわよ」

「ほな、祝勝会の後にちゃんと申し込むわ。ほれでええやろ」


 壁にもたれたまま少し熱のある低い声で宣言され、三輪は答えに困ってしまって出入り口の方へと逃げるように歩む。


 ふと十分前に腰を折って合掌してきた川崎の情けない姿がよぎり、普段の重要事に立ち向かう勇ましい川崎ではなかった理由を考えてしまった。


 ――そっか。この人なりに不安はあったんだ――


 そう思うと暗がりに立ち上がってきた川崎の影はある種覚悟の決まった真剣さが漂って見える。

 これを今の三輪が折ってしまうわけにはいかない。それは明里新宮全体の話ではなく三輪の進退にも影響しかねない。


「……考えておくわ。でも人妻だから本番は期待しちゃダメよ」

「上等や!」


 人目を避けた意味がなくなるような川崎の大声を背中に聞きながら、こんなことで男が奮起するならもう少しだけチームの姐御でいてやってもいいと思えた。

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