タイガーリリー ②
なぜ真を選ばなかったのか?
それは、真の行動力や人間性ならば優里以上の恋人に出会うだろうし、優里がそばにいなくとも真は上手くやっていくだろうと思えたからだ。実際に真は中学入学後に髪を脱色し、兄のバイクを乗り回し、学校以外で優里の知らない交友関係を広げていったようだ。その最たるものが未成年者には禁止されているH・Bの入手と使用だ。
もう、真は優里の知らない場所まで行動範囲を広めていて、優里の知らない人達と付き合い、今の優里では手に入れられないツールを活用している。
優里が居なくても、真に不足するものなどない。
だが智明は違った。
もともと人との交流が少ない智明は、小学校時代と変わらず中学校でも深く付き合う友人を作っていない。仲の良いクラスメイトは何人か居るようだが、どれも真を通して話すようになったパターンだ。真と同様に中学入学とともに髪を伸ばした智明だったが、真のようにチャラくなることはなく、逆に少し陰気な雰囲気をまとってしまったかもしれないが、智明の本質を知る優里には外見は問題ではない。
ただ、優里と会っていない時に何を楽しみ何を興じているのかが知りたかった。
以前から智明にはプライベートを明かさない部分があり、謎が多い一面を持つ。聞けば『ゲームをしていた』『本を読んでいた』程度は答えてくれるのだが、詳細まで語ってはくれなかった。優里の把握していない領域があるという部分では真と同じなのだが、一人でなんでもこなしてしまう真よりも、一人にしておいたら心配なので何か手助けをしてあげたくなる智明にひかれてしまった。
「ごちそうさま」
会計を済ませた優里は、喫茶店に入った時より幾分足取り軽く自宅へと帰り始める。
雨足は少し強くなっていたが、学校にいた頃より気にはならない。
「タイガーリリー。懐かしいな」
智明が優里に付けたあだ名をつぶやき、一人ぼっちなのに優里は笑顔になれた。
小学校高学年の英語に触れ合う授業で、身近な名詞を英語に直すというものがあった。数人の班に分かれて先生から渡された和英辞典で色々な名詞を英語へと変換していった。
その中に花のユリがあり、真がふざけて優里のことをリリーと呼んでからかっていた。真があまりにしつこくからかってくるので優里も腹を立てたのだが、ある日、智明がノートから切り取った紙片を見せてきた。そこにはユリ科の花言葉がいくつも書かれていて、智明はその中の一つを指して『優里はタイガーリリーだよね』と微笑んだ。
智明が優里のことを『華麗』『陽気』『賢者』だと思ってくれていると感動したのだが、実際は『鬼頭のオニにユリでオニユリだろ』という理由だったので、拍子抜けしたあとに憤慨したのも良い思い出だ(もちろん、その後に『純潔』『無垢』のユリの方で呼びなさいと指導したが)
その一件から智明はずっと優里のことをリリーと呼び続けてくれているが、逆に真はリリーと呼ばなくなった。
そうこうしているうちに高い塀に囲まれた自宅へと着き、門をくぐって庭を横切り、母屋へ向かう。
どっしりとした瓦屋根の二階建ての母屋の隣りには、倉庫代わりにしている鉄筋コンクリートの離れとガレージがあり、両親が外出していることを祈ったが残念ながら母の車があった。
「……ただいま」
玄関の開き戸を静かに通って、小さな声で帰宅を告げてすぐに階段へ向かう。
階段を上りきってから階下に目を配ったが、どうやら母は作業部屋かキッチンに居るようで、顔を合わさずに済みそうだった。
自室の部屋も静かに閉じて、心の中でゆっくり三十秒を数えてから、ようやっと優里は緊張を解いた。
「…………ふう」
勉強机に鞄を置き、制服のスカートとネクタイをハンガーに吊って、シャツとソックスは洗い物かごへ入れる。
そこで一旦ベッドに腰掛けて一息つく。
「……なに、これ?」
左耳だけに突然金属質の耳鳴りが起こった。手を当てて違和感をなくそうと摘んだり押さえたりするが収まらず、少しずつ耳鳴りは大きくなって頭痛もし始める。
「モア、なん?」
何という確証はなかったが、智明の気配か声のようなものを感じた。
瞬間――――。
閉め切っていたカーテンをものともしない強烈な光が窓から差し込み、思わず優里は目を閉じた。
何秒間か目を瞑ったままにしていたが、網膜に焼き付いた残光が激しく、目を開けてもチラチラと浮かぶ残像に顔をしかめる。
「何なん? 何かあったん?」
言いようのない不安や恐怖で胸の鼓動が早まり、部屋の中に視線を彷徨わせる。
と、地震のような強い縦揺れがして壁やアルミサッシがビリビリと震え、大砲のような爆発音が優里の耳を打ったので思わずベッドにうずくまる。
「キャッ! ……なんだ、ビックリした」
何かが落ちてきて体に当たったので思わず悲鳴を発したが、どうやらベッドサイドのブックシェルフからぬいぐるみが落ちてきただけだったようだ。大きな縦揺れだったが、地震のような地鳴りや横揺れや名残りもなく、部屋の中は思いのほか乱れはない。
目の残像もなくなり、爆発音の名残も耳から取れたので、優里は窓を開けて周囲を確かめてみる。
光の正体は想像もつかなかったし、その後の爆発音は鳥よけにしては大きすぎる。
淡路島では米の生育に伴って、カラスやスズメが稲穂をついばんでしまう鳥害を避けるため、カーバイドと水を反応させたりプロパンガスに引火させたりして、空砲のような爆音を発生させる鳥よけが主流で、夏から秋にかけてあちらこちらで破裂音や爆発音が一定間隔で鳴り響く。
しかし先程優里が耳にした轟音はとても激しく、鳥よけとは比べようがないほどの大音量で、耳に残響が残るほどというのは別の異常事態が起こったのではと優里を不安にさせた。
「……なんやろ? 変な感じ……」
窓から見渡せる範囲に違和感は認められなかったが、雨は降り続いているのに北側の雲が晴れてわずかに青空が見えた。
天気雨だとしても雲と青空の境い目が明確で、優里は漠然とした気持ち悪さを感じて窓を閉める。
「うっ……。また耳鳴りが……」
立ちくらみのように急に頭を締め付けるような痛みが走り、優里はこめかみのあたりを押さえてしゃがみ込む。
「う、ううっ!」
ズキズキと脈動する頭を抱え、ついには床に倒れ込んでしまう。
「……リリー?」
「う、う、うえ?」
聞き慣れた声に名を呼ばれるのに合わせて、頭痛と耳鳴りが収まっていく。
「誰? モア、なん?」
恐る恐る体を起こすと、すぐそばに智明が立っていた。
「どこから入ったん?」
「お、おお。それは後で説明するから、とりあえずなんか着てくれ」
「ふえ?」
「パンツ丸出しだぞ」
「ふええええええええ! モアのアホォ!」
智明に指摘されたサテン地の白の下着を隠さずに、なぜか胸元を隠して手近にあったゴミ箱を投げつけてくる優里に苦笑しつつ、智明は背中を向けた。