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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第九章 光のレイライン
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混濁 ①

〈オッサン、今どこや?〉


 再三にわたる着信にようやく答えられる状態になって出てみると、時候の挨拶もなくそう切り出された。


〈君はヤクザか取り立て屋なんかの。ご機嫌伺いくらいしてから居場所を聞いたらどうかね〉


 こちらの状況を汲もうとしない一方的な態度にうんざりしながら答えると、脳内に響く受話音声でありながらため息まで聞こえてきた。


〈はぁ……。

 いよいよ夏の日差しも厳しくなり始めて熱中症への注意も高まってまいりましたが、お体は大丈夫ですか? さて、件の調査や取材の途中とは思いますが、事態が急変致しておりますので貴殿の所在を伺いたいのですが。

 オッサン今どこにおんねん?〉

〈結局オッサンかいな〉


 相変わらずの捻くれた黒田刑事の挨拶に思わず笑いながら言い返したが、鯨井にしてみれば久々に笑えたやり取りかもしれない。


〈雄馬君からのメールは見たやろ? 政府と自衛隊はこの前よりも本腰入れて来よる。ほれに合わせて俺らも動かなあかんやろ〉


 確かに鯨井の元にも『政府からの報道規制がかかった』という高田雄馬からの連絡は届いている。

 しかし鯨井にしてみれば、恩師野々村穂積(ののむらほづみ)から門外不出の議事録を入手し、その内容の一部と怪しげな参画企業を情報として提供した事で自分の役目は終わったと思っている。


 無論、高橋智明(たかはしともあき)の遺伝情報の解析はまだまだ途中であるし、播磨玲美(はりまれみ)が採取したという鬼頭優里(きとうゆり)の遺伝情報も解析しなければならないが、黒田に居所を教えなければならないほど鯨井が現場に居る必要を感じていない。


〈俺も動かなあかんのかの。医者の俺に出来ることは、もうアワジにはないと思うが〉

〈そんなこたぁない〉


 即座に否定した黒田だが、これまでとは違って鯨井を丸め込む言葉はすぐには継ぎ足されない。


〈そんなことは、ないぞ〉

〈はは。今回ばかりはこっちの言い分を通させてもらうぞ。こっちにはこっちの仕事と本分があるからな〉


 なんとか鯨井を引っ張りだそうとする黒田の時間稼ぎを切り捨てた鯨井だが、こんなことで勝ち誇っても子供の喧嘩だと思い直し、補足だけはしておくことにした。


〈どのみちな、例の解析を終わらさんことには俺の仕事が進まん。君も当初の目的はそっちだったろう? 柏木センセからも『手伝え』と言われとるんだ。

 有給を使い切るまでは神戸に居るから、大きな進展があったら声をかけてくれればいい〉


 高橋智明の遺伝子解析は完結までに二年は必要だとあらかじめ告げてはいる。

 だから鯨井が有給休暇を数日使って手伝った程度では、解析そのものの進展なぞ微々たるものでしかない。


 しかし黒田が鯨井とつるむようになった原因であり、事あるごとに黒田が鯨井を引っ張りだそうとするのはこの一事が黒田と鯨井の人質になり得るからだ。

 ならば今は鯨井が黒田の誘いを断る方に使わせてもらう。


〈……分かったよぅ〉

〈すまんな。また連絡するよ〉


 仕方なく諦めた声を残して黒田からの通話は途絶えた。


「……言ってないから分からんだろうが、こっちにはこっちの悩みがあるんだわ」


 思わず飛び出た愚痴に慌てながら、辺りに自分を注視している人目がないことを確かめ、鯨井はJR山陽本線元町駅の東口の柱にもたれさせていた体を起こして北側ロータリーへと回り込んでタクシーに乗り込む。


「ポートアイランドの遺伝子科学解析室まで頼む」


 鯨井のぶっきらぼうな指示に運転手も控え目な返事をしてタクシーが発車すると、自ずと鯨井の意識は昨夜からわだかまっている疑問へと向く。


 野々村穂積を問い詰めて彼の持つ膨大な情報を手に入れたまでは良かった。そこから『有限会社ヴァイス』を深掘りして、黒田刑事や高田姉弟にさらなる調査を委ねられたのは我ながら上出来だと思う。


 続けて茨城県のつくば市に飛び、野々村穂積以外の当事者から言質を取ろうとした行動力は、近年の鯨井にしては情熱的であったろうとさえ思う。


 しかし、たった一本の電話で自負や情熱の全てがポッキリとへし折られた。


 ――『無駄なことはするな』 ……そんなことを言う人やないんだがの――


 柏木珠江(かしわぎたまえ)という人物は、ドライで偏屈で合理的で客観視を重視する、いかにも学者という変人であることに違いはない。

 だが論理的な理由付けもなく他者の行動を『無駄』と断じたり命令する人ではない。


 過去に鯨井が不完全な推察で研究を進めていた時も、『期待できないがやりたいようにやってみるといい』と結果を見通していても言下に断じるということはなかった。

 それはつまり珠江が常に研究者であり探求者であり続けている証であろうし、可能性や期待というものを捨て去っていない挑戦者でもあるからだろうと鯨井は思っている。

 なればこそ、昨夜の珠江の言い様が引っかかる。


「……深掘りするな、か」

「お客さん、着きましたよ?」

「おお、ありがとさん」


 とっくに停車していたタクシーに気付かなかったことに慌てつつ、急いで意識を現実世界に戻して精算を済ませてタクシーを降りる。


 一気に七月の炎天下にさらされてタクシーで浴びていた冷気は吹き出た汗で洗われてしまう。

 それでも開け放たれている正門から敷地内へと足を踏み入れ、相変わらず人気を感じさせない見慣れた研究施設へと入る。


 よくよく考えればこの国立遺伝子科学解析室という研究施設はおかしな所で、柏木珠江や受け付けの男性とは親しくあるが、その他の職員と顔を合わせた事がない。


 もちろん鯨井が珠江と面会する以外の用事がなく、珠江の籠もっている地下深い研究室しか訪れない事が原因なのだろうが、ポートアイランドの一画を占める国立の施設にしては人の出入りを感じないのは変だ。


「……それこそ深掘り禁物やわ」


 地下深くへと下りていくエレベーターの中で一人ごちて軽く自身の頬を張る。

 一つの疑問に別種の疑問を重ねても解決するはずはない。


 殺人事件のアリバイトリックではないかと疑うから謎が解き明かせるのであって、別の日に無関係な他人が取った行動を無闇に重ねても繋がろうはずがない。

 エレベーターを降り認証式の自動ドアを潜ると、数日ぶりの地下司令室だ。

 入室したばかりの鯨井の左手から早速声がかかる。


「なんて顔してんだい」

「はあ。……絆を取るか、友情を取るかで悩んだらこんな顔になるんですわ」

「あの刑事がお前の友達だと言うのかい? こんな時だけ友達扱いされたんじゃ、相手もたまったもんじゃないだろうに」


 鯨井と珠江の関係を疑うことなく『絆』と取るのは珠江らしい部分ではあったが、鯨井と黒田の関係を『友達ではない』と断じたことにはムッとした。


 確かに共通の事件に関わり利害が一致しているだけの関係ではあるが、知り合いと遠ざけるほど浅いわけではなく、戦友や親友と呼べるほど何もかもを知り尽くしているわけではない。

 それでももっと関わりの薄い珠江に『友達ではない』と決めつけられたことは心外だ。


「じゃあ、『仲間』ってことにしときましょう。そしたらセンセも黒田君も俺の中では横並びだ」

「フン! 好きにしな」


 毛嫌いする刑事と同列でまとめられたことに苛立ったのか、珠江は手元のカップを雑にソーサーに置き嫌悪の表情でチェアーから立ち上がる。


「私にはね、穂積からあんたのことを頼まれたという責任がある。しばらくはここに籠って私の手伝いをしてもらうよ」


 白衣のポケットに両手を突っ込んで歩み寄った珠江は、有無を言わさぬ調子で鯨井を睨めあげてくる。

 鯨井としては、『高橋智明の遺伝情報解析』と『HD開発の経緯の調査』は等しく興味があり取り組まねばならない問題であると捉えている。

 なので珠江の命令に従って遺伝情報解析に助力することは苦ではない。しかし、はいそうですかと即座に身が入るかと言うとそうもいかない。


「……一つだけ教えてもらえんかの」

「……何だい」

「なんでHDの研究や開発が行われたのかを探ることが『無駄』なのか? なぜ『深掘りする意味がない』のか? そこは納得しておきたい」


 一晩悩み抜いたがやはり珠江の意図は測りきれなかった。ならば本人に問うしかない。

 真剣な眼差しで問うた鯨井に、しかし珠江は即答せず、きびすを返して巨大壁面モニターの方へと数歩進んでから口を開く。


「……日本の稲作がいつ頃始まったか知っているかい?」

「んあ? 確か、弥生時代からだと習ったが」

「ハズレ。近年の研究では縄文時代には狩猟や採集に頼らず、一部では稲作が行われていた。では、その稲作はどうやって日本に伝わった?」

「んん? 中国から朝鮮半島を経由して、海を渡って持ち込まれたんじゃなかったか?」

「ハズレ。これも近年の調査では、中国北東部や朝鮮半島北部では寒すぎて水稲栽培に不向きで、半島南部の遺跡は日本のそれよりも年代が若い。そのため伝播経路としては中国から直接渡ってきたか、もっと南方の島々から島伝いに渡ってきたのではないかとされている」

「そうなのか? で、それがどう関係するんかの」


 急な歴史の質問に苛立ちを覚え話題を変えるように問い返すと、背を向けていた珠江が鯨井の方を向いて続ける。


「では、H・Bは誰が作ったか知っているか?」

「フランク=ホフマン博士だろ」


 今更な問いに感じてしかめ面で答えた鯨井。

 しかし珠江は「ハズレ」と真面目な顔で応じる。


「そいつは論文の提唱者だ」


 あっとなった鯨井は己の失敗に気付き、慌てて記憶の隅にある正解を探る。


「そうか。……確か、米・仏・伊の企業と大学の共同研究チームが試作と商品化を成功させたんだったか……」


 研究と実験に取り掛かる発表こそ科学誌の小さな記事でしかなかったが、そこには製薬やナノマシン医療機器の有名数社が参画し、世界各国の学者や大学教授らの名前が列挙されていた。

 珠江の『誰が』の問の意味はそういうことだと分かる。


「……つまり、HDも複数の企業や博士が研究や開発に取り組み、『誰が』という主導者や首謀者を特定する意味はない、と言うんか?」


 なんとか珠江の問いに正解らしきものをぶつけたが、鯨井の気持ちを裏切るように珠江は背を向けて答える。


「そうじゃない。 出来上がってばら撒かれてから真相を追っても意味はないという話さね。

 いつからが縄文時代と弥生時代の境い目で、いつ頃にどうやって稲作が日本に伝わったのか、お前が調べてどうなるのだ?という話だ。

 歴史や成り立ちが明らかになる、それはその分野を知りたいと望む者たちには素晴らしいことだろう。

 だがね、お前がH・BやHDの成り立ちを知ったところで何になるんだい? お前はお前の仕事をすればいい。ここに居ればそれが分かるはずだ。だからここに呼んだんだ」


 珠江の言わんとすることはなんとなく鯨井には分かる。

 納得はできないが理解ができるという程度で。


 その理由は単純で、HDを研究し認可を受けぬうちからはみ出し者のバイカーらで人体実験を行っている連中を突き止めようというのは、決して鯨井の正義感や本心でやっていたことではないからだ。

 ある意味、珠江を理由にして黒田らとのしがらみを断ち切れる、とも言える。


「……師匠の意向もあるのなら、もう少し悩まずに済んだんだがの」

「なら、子供たちに埋め合わせるためだとでも思えばいい」

「……そうですね」


 珠江に従う言葉を返した鯨井だったが、それこそ鯨井がすっぱりと割り切れる話題や契機とはいかない。

 珠江に精子を提供したのは鯨井自身であることには間違いないが、二十年近く触れ合ってこなかった子供たちに今更どの立場で接すればいいのか、HDの出処よりも悩ましい。

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