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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第九章 光のレイライン
260/485

絡み始めた意図 ③

   ※


「入り給え」


 野元春正(のもとはるただ)一等陸佐が声をかけると、天幕の中からすぐに川口道心(かわぐちどうしん)一等陸佐の返事があった。

 垂れ下がった幕を潜ると簡易ベッドに腰掛けた川口がいた。


「早朝に申し訳ありません」

「構わんよ。出発の時間なのだろう?」

「左様であります。本部中隊より山野の小隊を同行させます。よろしいでしょうか?」


 出発時間も同行させる部隊も事前に許可を得ていたが、川口と言葉を交わすためにあえて再確認を取った。


「ん。聞いている。伊丹にも連絡させているから搬入に手間取ることはないはずだ」

「は。ありがとうございます」

「……それで、本当の用件は何だね? 君にはあと十八時間ほどしか猶予がないぞ」

「心得ております」


 敬礼から直った野元は何かを察した様子の川口を見つめる。


「ただ、この局面で私事とも言える因縁を断ち切るためのお時間を下さいました。その図らいへの感謝と、全霊で以てあたる決意をお伝えしたかったのです」


 直立不動で伝えた野元に対し、川口は「やはり」という顔で薄く笑って応えた。


「どう捉えるかは君に任せる、というのは上官としての本音だ。

 人間川口道心としては、お互いにいい歳なんだから水臭いことを言うな、と言っておくよ」


 普段ならば厳しい表情で律するであろうところだが、川口の顔は柔らかい微笑みで言葉の端々もどこか温かい。


「ありがとうございます。水臭いついでに一点よろしいでしょうか?」

「なんだい」

「は。以前にも少し申しましたが、陸佐とはこれまで私的な話はおろか、酒を飲むような機会もありませんでした」


 野元が恐縮しながら切り出すと、川口は顎に手を当てて記憶を探るように俯いた。

 野元の記憶が確かならば、川口と私的な関わりを持ったのは本作戦前に司令官執務室でオカルトな雑談をしたくらいだ。


「言われてみれば無かったな。隊舎で催しをやった時でも私はすぐに帰っていたものな」


 申し訳なさそうに笑う川口は話の要点を察したようだ。


「ですので、任務を全うして時間が出来ましたらゆっくりと酒でも飲みたいと思いまして」

「はは、なるほどな」


 俗な誘い方に笑い川口は二度三度と首を揺らした。


「そうだな。そういうのもいいかもしれん。分かった。時間を作ろう」

「ありがとうございます」


 野元は感謝の思いを素直に示して、敬礼でも首肯でもなく直立不動からしっかり腰を折って礼をした。

 直った野元が退室し出発の挨拶をしようとする前に川口が口を開く。


「重々承知していると思うが、踏み込み方とどこまで深入りするかの判断が今後の展開を左右する。今日にも明日にも作戦は動く。よろしく頼む」

「はっ! それでは出発いたします!」


 川口が司令官として重々しく締めたので、野元も命令を受けた自衛隊員らしく小気味よい敬礼をして出発を告げ、天幕から退いた。


 昨夕は厚い雲に覆われた諭鶴羽山だが、今朝はすっきりと晴れてすでに日中の猛暑を予感させている。


「準備はどうか」


 野元が天幕から一直線に向かったのは本部付帯中隊所属の山野一二三(やまのかずみ)陸尉の小隊の元で、二台の兵員輸送車の前に一小隊が集合し佇んでいた。 


「万端であります! いつでも行けます!」

「ん。まずは伊丹に戻って装備の補充を行う。その後は申し合わせている通り、山野小隊長と河野二曹には私に付き合ってもらう」

「はっ!」


 改めて任務の説明を行うと、山野陸尉と河野初美(こうのはつみ)二曹が敬礼で応じた。


「では乗車後、出発!」


 野元の号令に八名の隊員が揃った敬礼をし二台の兵員輸送車へと別れて乗り込む。


 野営地にしている円形の更地から坂を下ってダム湖の側を通り、また坂を下って一般車の通行を封鎖しているゲートを抜けて一般道を進む。


 国道28号線を東北東方向に進んで洲本IC(インターチェンジ)から神戸淡路鳴門高速道に乗り伊丹を目指す。

 トラブルなく進めば片道二時間強の行程は緊張も堅苦しさもないが、走行音と高速道路の居眠り防止の段差に揺れる車内で野元は瞑目して過ごした。


 川口から特命を受けた昨日のうちに、フランソワーズ=モリシャンと目されるDJノムラマサオにはアポイントを取ってある。

 このためにわざわざ山野小隊の隊員に麓まで下りてもらい、適当な出版社を名乗らせて健康に関する取材の形で会えることになった。

 ここから先は野元の口八丁手八丁でどうにかしてHDの実態やその後ろにある組織を暴かねばならない。


 正直なところ陸上自衛隊にこうした諜報活動や情報収集の科目はなく、無線通信課や情報課・暗号課といった兵科は存在していても普通科が担うべきものではない。巷には特殊部隊やスパイ課の存在が噂されることもあるが、自衛隊に席を置いていてもそうした実態を想像する余地は与えられないし夢想する余裕もない。


 そんな邪念を膨らませていては立ち行かない組織であり、そんな余裕がないのが実態だ。

 恐らく川口が野元にこの特命を与えたのも、『解けない謎に整理をつけて現実を見ろ』と言うことなのだろう。


「――陸佐、間もなく下道に降りて駐屯地付近になります」

「分かった」


 山野陸尉から控えめに報告を受け、野元は目を開いて頷き返す。


 小隊長の言葉通りに兵員輸送車は緩やかなカーブに入りゆっくりと坂を下り始める。

 宝塚ICを抜けて国道176号に入り宝塚大通りから地道を行けば駐屯地はすぐだ。


 西門で歩哨とのやり取りをし輸送車は手はず通りの道順を辿って停車した。

 そこにはすでに担当の者と中部方面隊司令部及び三十六普通科連隊幹部が待ち受けてい、山野小隊が備品搬出の手続きを進めている横では野元に小言が浴びせられた。


 これは川口からもそうなるであろうと予想されていた展開で、野元も正式に許可された手続きであることを盾にあしらっていく。

 この時のために川口は陸上幕僚総監部から厳しい文言を頂戴したはずであるし、その責務として定年目前であるにも関わらず早期退役も示唆されているに違いない。そこまで想像できるからこそ野元に与えられた特命は慎重かつ確実な成果を上げなければと気合も入る。


「陸尉。どうか?」

「はっ。官品の持ち出しですから、総務の助力が得られますので作業に問題ありません」

「よし。予定通り山野と河野は私と共に大阪に向かってもらう。残りの者は積み込みが終わり次第、隊舎で待機」

「はっ!」


 一通り小言を聞き終えた野元は山野小隊長に指示を下し、山野と河野を伴って隊舎へと着替えに向かう。さすがに兵装で記者だ編集者だと偽れるはずはない。


 野元は敷地外の官舎からの通いであるから、与えられたロッカーに吊ってある通勤用のスーツへと着替える。

 幸いにも地味な紺色の夏用スーツ上下に紺とイエローの縞柄ネクタイなので記者なりの身なりに見えそうだ。


「そうか。手帳やペン、カメラや小道具が必要だな」


 一昼夜の猶予があったにも関わらず偽装について何一つ準備が整っていないことに思い至って年甲斐もなく慌てる。

 バッグは野元自身の通勤用のビジネスバッグで代用できそうだが、カメラはそこいらへんのデジタルカメラというわけにはいくまい。H・Bで眼球によるアイショットがデータ保存可能となった現代、プロの写真家こそデジタル一眼カメラを使用しているが、家庭用のコンパクトデジタルカメラはH・B化していない老人かレトロカメラのコレクターくらいしか所持していない。


 思案しながら隊舎玄関へ向かうと、すでに山野と河野が待ち受けていた。

 普段は官給品のジャージで過ごす二人だが、山野はジーパン姿で柄物の半袖シャツにカーキのベストを重ね着し、河野は黒のリクルートスーツに開襟の白いブラウス姿だった。


「似合うじゃないか。陸尉はカメラを持てばカメラマン風だな」

「陸佐がスーツで通われておられるのは存じておりましたから、自分はこちらが良いと判断しました」

「二曹もスカートを持っていたか」

「入隊の折りに着てきたものであります」


 二人ともに私服で上官と接することに気恥ずかしさがあるのか、ややそわそわして見える。


「上出来だ。しかし山野、カメラがないと格好がつかん。総務か広報で借りられまいか」

「は。問い合わせてまいります」


 敬礼と返事をして山野は駆けていく。


「あの、自分はこれで大丈夫でありましょうか」

「そう、だな。少し化粧っ気があってもいいように思うが、経験はあるか?」

「……ありますが、今は手元にはありません」

「そのままでもいいが……。そうだ、作戦開始までに待機の時間がある。現場付近の百貨店に寄って装備を整えよう。河野はそこで化粧をしてもらうといい。気恥ずかしいかもしれんが任務のためだ」

「了解であります」


 はにかんだ河野二曹の姿を見て、ふと普段は意識しない女性の一面を感じてしまった。


 背丈は高い方ではないが鍛えられた肢体であっても女性の柔らかさがあり、任務に差し支えないようにと短く刈られた髪型と日焼けした顔が、不思議と黒いスーツでも浮いていない。


 年齢は確か二十代で、野元の娘が存命であれば同じくらいの年頃だ。


「似合うと思う。うん」

「き、恐縮であります」

「ああ、すまない。娘とダブらせてしまった。他意はない。気にするな」


 不用意な発言を慌てて撤回した野元だったが、河野は困ったように笑顔を見せただけだった。


 二十世紀末から高まってきた男女同権の声は二十一世紀には確固たる常識となり、自衛隊内にも女性自衛官や入隊志望者を受け入れる窓口が設けられ、防衛大学校をはじめ防衛医科大や陸・海・空の自衛官学校への入学希望は増加している。

 駐屯地や基地においても設備や制度は整えられ、産休や育休や託児所も整備され、男社会と思われがちな自衛隊もこの百年で大きな変化があった。


 先程の野元の発言は取りようによっては性差別でありセクハラとも捉えられかねない。

 軍組織と似た縦社会であってもパワハラやセクハラは紙一重で、野元の立場では神経を使わねばならない。


「陸佐、カメラ一式を借りてまいりました」

「ご苦労。では出発しよう。途中、百貨店等でもう少し装備を整え、食事をしてから作戦に臨む」

「では業務車1で移動でありますか」

「せっかくだ。3でよかろう」

「はっ!」


 普段、一般自衛官が移動や外出に用いる業務車両は1型と呼ばれるワンボックスカーやライトバンだが、3型は司令部幹部や上層部が使用するセダンタイプの乗用車で乗り心地が段違いだ。

 隊舎で寮生活を送る山野や河野がまだ自家用として手に入れられないランクの車種になる。

 ゆったりとした座席に腰を落ち着けた三人は一路大阪へと向かった。

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