六月の雨 ③
※
田尻達と別れた真は、不安と安堵の狭間を行ったり来たりしながら、自室のベッドの上であぐらをかいて座っていた。
紀夫にくっついてきた看護師・赤坂恭子の機転で、智明と連絡を取ることはできた。
しかし、それによって真の智明への心配は不安へと変わり、自室のベッドで待つしかないことでさらに不安は膨れ上がっている。
――あいつ、あんなこと言う奴だったっけな――
智明と電話で話した時の違和感は、言葉にするとこんな感じの疑問になった。
電話で話した時間はとても短く、智明の安否を確かめようとした真に対して、智明の返事はぶっきらぼうで横柄に感じた。
『ああ、大丈夫だ。なんてこたぁない。そうだ、おもしれーワザを覚えたから後で見せに行くわ。自分ちで待ってろよ』
真の印象では、智明は幼い頃から周りに気を使うタイプで、何かに怯えているのかと思うほどに周りに合わせて行動していたように思う。
だからといって流されやすいわけではなく、出来ないことややりたくないことは頑として譲らないため、周りが盛り下がってしまい顰蹙を買う場面も多々あった。
真に対しても合わせてくれている部分は多分にあるだろうし、真が智明と楽しもうと思って誘っているのに拒否されて喧嘩をしたこともあった。
だが智明は本質的に優しく他人を気遣うタイプなので、鬼頭優里も含めた三人での時間を智明が居ることで心地よく過ごせていたはずだ。
その智明が『見せに行くわ』というような積極的に自分主導で動こうとする喋り方も初めて聞いた気がする。
『待ってろよ』といった粗野な言葉を使ったことにも驚いたし、真に合わせて悪ぶることはあっても、他人に命じるような喋り方をする奴ではなかった。
「何があったんだよ……。何が起こってるんだよ……」
自宅に帰ってから何度目になるか分からない問いかけを、また真は繰り返した。
「――俺にもよく分かんねーよ」
「!? 智明!」
不意に聞こえた声に顔を上げると、ベッドのすぐそばに智明があぐらをかいて座っていた。
――いつの間に入ってきた?――
不安に苛まれ智明を案じるうちに周りが見えなくなっていた自覚はある。しかし、ドアを開く音や歩いたり座ったりする音は聞こえるはずだ。
それらが全く感じられなかったのに、いつの間にか真のすぐそばに智明が現れていた。
「よお。昨夜はすまなかったな。病院かなんかまで運んでもらったみたいだな」
「何で他人事なんだよ? もう平気なのか? 大丈夫なのか? 何があったんだよ? どうなってんだよ?」
矢継ぎ早に思い付いた質問や疑問をぶつける真を、智明はヘラヘラと笑って受け流す。
「そんなにいっぱい言うなよ。俺だってよく分かってないんだからな」
「心配させといてそれはないだろ!」
昨夜、智明が体調を悪化させてからここまでの十二時間に、真が智明にしてやったことを無下にされた気がして、思わず語気が強くなった。
それでも表情を変えない智明に、真はこれまでと違った不安を抱く。
「……お前、智明だよな? 俺の友達の高橋智明、だよな?」
「そりゃそうだ。顔も声も変わんないだろ?」
「……中身が変わってたら別人だろ」
少し体型が変わったような気もするが、どこからどう見ても外見は智明だ。
だが、独裁者が自身の権力に酔うように、成り上がって小金をバラまく経営者のように、倫理やハメを外した人間は途端に印象が悪くなる。
十年来の親友を見下してしゃべる智明がまさにそれだと真は思った。
真の辛辣な言葉に智明は嫌悪の表情を見せる。
「お前が言うのかよ」
「なんだと?」
「H・Bを手に入れて、俺の先を行ったような振る舞いをしているお前が言うのかと言ったんだ」
智明の言葉に今度は真の表情が険しくなる。
「俺は、お前もハベれば同じことが出来るようになるとちゃんと誘ったはずだ。それを断ったのはお前だし、あれやこれや俺がしてやったことも棚に上げて、今それを言うのか?」
智明が言うように、真の中に智明よりも時代の先端に居るという優越感は少なからずあった。
しかしそれはH・Bの件だけではなく、ゲームやアプリや雑誌や食べ物屋などにおいて、常に真が見つけたものを智明と優里に教えたり勧めてきた。小学生時代からずっとそうしてきたことだった。
智明が拒否したものも多少はあったかもしれないが、概ね智明は真の紹介を受け入れ、真の見つけたものや用意したもので一緒に楽しんできたはずなのだ。
「俺がそうしてくれと望んだわけじゃない」
抑揚のない声で智明が吐き捨てた言葉は、真への裏切りでしかない。
「貴様!」
「まあ、落ち着け」
激高して立ち上がった真を、慌てもせずに智明は手で制した。
「面白いワザを手に入れたと言ったろ。そのお披露目が先だ」
手指を鉄砲の形にして真に向けた智明は小さく笑っている。
「ワザ? んなもんがお前ごときに……。え!?」
喋っている途中に後頭部を殴られたような衝撃があって真は口をつぐみ、瞬間的に瞑ってしまった目を開くと、眼の前の景色は雨雲が広がる薄暗い屋外に変わっていた。
「な、なん? オワッ!」
何が起こったか分からずに周囲を見回してみると、裸足のはるか下方に屋根瓦の住宅がひしめいて並んでいるのが見え、自分が空中に居ると分かって慌てた。
「あんまり暴れるなよ。覚えたてだから操作に慣れてないんだ。落っこちても責任取れねーぞ」
智明の声に振り向くと、二メートルほど離れた位置で真の方へ手をかざした態勢で智明も浮かんでいた。
顔に当たる雨粒が煩わしいが、智明の強張った表情を見るに先程の言葉は冗談ではないようだった。
「浮いてるのか? お前がやってるのか?」
「そう言ったろ。お前んちの上空百メートルくらいだ」
足元の浮遊感が気持ち悪いが、物干し竿に吊るされた洗濯物のような気分になりながらも、真は少しだけ落ち着いてきたので周囲をしっかりと確かめてみる。
言われてみれば近所のショッピングセンターや最近建設されたデザイナーズマンションなどが認められたので、真の自宅の上空であることは確かなようだ。
「なんだこれ? 超能力とか、そういうやつか?」
「さあ? 名前とか知らないしどうでもいいんじゃね。気付いたらこういう能力が使えるようになってた」
「す、すげーな!」
智明の説明は明確な答えになっていなかったが、真は素直な感想を述べ智明を称えるように拳を握った。
が、急に体がガクンと落下したので動揺して四肢をバタつかせた。
「暴れるなってば! この高さから落ちたら死ぬぞ」
「あ、ああ、すまん」
また体を吊り下げられるような感覚が蘇ったが、ホッとしたそばから智明に叱責され真は素直に謝った。
「しかし、マジですげーな! テレポートと、レビテーションが使えるんだな! ん? 浮いてるのはサイコキネシスだったか? どっちにしてもすげーよ!」
ゲームなどで使われている似通った単語を並べながら、真は興奮を隠さない。
「そうか。んじゃあ、ちょっとお空の散歩でもするか?」
「散歩? お、お、落とすとかやめろよ? それ散歩って言わないんだからな?」
「んなことしねーってば。見せたいもんがあるって言ったろ」
冗談めかしたが、さしもの真も百メートルの高空から落とされるのは想像するだけでも恐怖で股間が縮み上がったし、智明が真の生死を握っているという畏怖をハッキリと認識した。
――見せたいものってこれじゃないのか?――
真が智明にそう聞き返そうとする前に、真の体は何者かに放り投げられたように宙空に投げ出された。
顔や体に打ち付ける雨粒と風圧に呼吸がしにくくなり、バイクでも出したことのない速度に動転しつつ、空気を吸い込もうと口をパクパクと開け閉めしてみる。
と、風圧と雨粒で細めた視界に智明の姿が滑り込んできて、途端に風が止んで打ち付けてきていた雨粒も当たらなくなった。
「空気の壁を作り忘れたよ」
淡々とした口調だったので、どうやら智明に詫びの気持ちは皆無のようで、ただ『忘れた』という事実を言っただけのようだ。
真はムッとする気持ちを押さえ、智明がどこに行こうとし、何をしようとしているのかを考えるようにした。
この高さからこんなスピードで放り出されたら、本気で真の命は終えてしまう。
「? 国青寺の北側、か?」
飛行している速度が速すぎて正確なことは分からないが、それでも木々に覆われた小高い山のシルエットは視界に入った。
真の自宅の近くでこれに合致するのは、西淡湊地区と西路地区の境にある山並みだけだ。国青寺はその中腹にある寺で、智明や優里と訪れた記憶があった。
真が何年か前の思い出に浸るのにも構わず、智明は国青寺周辺から北西に進路を変え、民家のない山中の溜池の上空で停止した。
「――っと、と! 急ブレーキが過ぎるな……」
智明は力の使い方に慣れていないと言っていたが、それでも急ブレーキを食らうと思わず愚痴が出た。
「この辺でいいかな」
「んなとこで何する気だよ」
「まあ、理科の実験だな」
真の問いに適当に答えて、智明は右手を体の前へ伸ばす。
飛んでいる時にまとっていた空気の壁を一瞬だけ緩めたのか、真の顔に細かな雨粒がザッとかかったが智明はすぐに空気の壁を張ったようで、周囲はまた雨のかからない空間に戻った。
「おっとっと。こんなにはいらないな」
智明は独り言をつぶやきながら濡れた右手を振るって手についた雨水を落とすと、手品を始めるように真に掌を見せつける。
「なんだ?」
真は智明の意図を理解しようとしたが、智明の手が軽く濡れていることしか分からなかった。
「これが、太陽になる」
空気の壁の向こうの景色と混ざって見えにくかったが、どうやら智明の掌から一粒の水滴が浮き上がっているようだ。
水滴は智明が視線を上向けるのに合わせて上昇していき、空気の壁の外へ出ても上昇しているようだ。
「雨水を? 太陽に?」
真には全く理解できない話だった。
星空や星座やギリシャ神話には興味があって図鑑や簡単な解説書を読んだことはあったが、太陽や惑星に興味をひかれたことはない。
「役不足だけど、水素原子を核分裂させて、そこに水素ぶっこみ続けて核融合反応を連続させるんだ」
……核分裂。……核融合。
どことなく危険な智明の言葉を反芻して、真は一つの解答に至った。
「おま、それ、水爆――!!」
真が言い終わるより早く、智明の遥か頭上で小さな光の粒が生まれていた。
重黒い雨雲を吹き散らすような明るい粒は、雨粒を遮断している空気の壁と似た理屈で、雨や風の影響を受けずに徐々に光量を増していき、真が目を開けていられないほど明るくなっていく。
「やめ、智明!!」
「ほら、ちゃんと見ろよ。花火だぞ」
目を瞑っていてさえ眩しくなった光の粒は、智明の楽しそうな声とともにさらに輝きを増し、爆発的に膨張してかき消えた。
何もかもが白むほどの光が唐突に消えたので、体の感覚が追いつかず、真には夜よりも濃い闇が訪れたように感じた。
「ドッカ――ンってな!」
凶暴な光は消え去ったと思い目を開けた真の耳に、智明の子供じみた擬音が聞こえた。
瞬間――。
智明の作った空気の壁を揺るがすほどの大音響が響き、真の体は強烈に弾き飛ばされていた。
どの方向にどのくらいの速さで飛ばされたのかも分からないまま、着地を待たずに真の意識は途絶えた。
唯一意識に残ったのは、けたたましい智明の哄笑だけだった。