六月の雨 ②
※
「美保ちゃん、コーヒーちょうだい」
中島病院新館研究棟の野々村研究室で、点滴を傍らに置き、モニターを睨んだまま鯨井はいつもの調子でオーダーしていた。
「クジラさん、今日の今日でそれは無理でしょ」
隣のデスクで資料を整理していた美保から、緩めの叱責が飛んだ。
「やっぱりだめか? カフェインと糖分が切れかかってて作業が進まんのよ」
ふてくされた子供のようにマウスを放り出して、デスクチェアーにうなだれる鯨井。
「あらあら。医者の忠告も聞かずに勝手に分析を始めたくせに、そんな理由で投げ出されちゃ堪らないわね」
二人のやり取りを聞いて、奥のデスクで作業をしていた播磨玲美も手を止めた。
「二人がかりでイジメんでくれんか。普通の検査や分析やないんだ。脳ミソフル回転なんだからエネルギーはなんぼあっても足りんよ」
少し子供っぽく理屈をこねながら、鯨井はパソコンのモニターをつつく。
若い医師ならH・B化した脳内でデータ分析や画像解析を済ませるのだが、鯨井は師匠である野々村穂積の教えに従い、画像解析は全てモニターに映し出して肉眼で行うようにしている。
『無機物で映したものは無機質であり、我々が治療すべき有機物を生物として映さない。見るという行動を無機的に行ってはいけない』
例え脳や眼球がナノマシンによって無機物に置き換えられても、師匠より学んだ概念を捻じ曲げることはない。
実際、鯨井は脳内の画像解析で見落としてしまった患部を、目視での解析で発見したことが何度もある。
驕りや侮りや過信こそが人間の視野を狭めている良い例だと言えよう。
「……しょうがないわね。野々村さん、このブラックジャックの口にチョコレートでも放り込んでおいてちょうだい。それで少しは静かになるでしょう」
「ラジャー!」
闇医者を扱った大昔の名作の名をあげつつ、その言葉尻は駄々っ子を黙らせる母親のそれだったが、美保は冗談ぽく敬礼をして給湯室へ歩き出す。
「入院食よりマシか」
鯨井は頭をかきながら苦笑を浮かべ、一度伸びをしてから再びデスクへ向かう。
デスク上にセットされたモニターには、異形の姿へと変わり始めた高橋智明のMRIと、三人の命を奪って逃走する直前のMRIが並べて映し出されている。
ドアに挟まれた二人の医師に加え、何かのタイミングで押し倒された男性看護師も、内臓を傷付けられていて先頃息を引き取ったため、今朝の事件の死亡者は三人になってしまった。
これとは別にデスクにはもう一台ノートパソコンが開かれていて、現在入院中の患者のMRIが映し出されている。
智明と比較するために近い年齢の患者を選んでいるのだが、細部を拡大するまでもなく『異常』ばかりで、鯨井の頭を悪い意味で刺激している。
身も蓋もない話をすれば、MRIで撮影された映像を見るまでもなく、高橋智明という少年は人外の怪物のような見た目へと変貌していった。窓越しではあったが、衣服や皮膚を自らで引き裂き、筋肉や骨を露出するばかりか内臓をはみ出させても活動し、尚かつ分厚いドアを吹き飛ばして猛スピードで走り去ったのだ。
そんな事例は聞いたこともないし、あり得るはずがない。
そもそも人間の皮膚に切れ込みを入れて、内と外をペロッとひっくり返すようなことをすれば、その時点でその者の生命は絶たれてしまう。動物の骨や筋肉は強靭ではあるが、内臓や血管は繊細で脆弱な器官なのだ。
「はい、どうぞ」
「ああ、あんがと」
「そんなに精細な解析が必要なの?」
チョコレートを手渡しながら、美保は鯨井が睨みつけているモニターを覗き込んだが、学生研究員の美保にも判別できるくらい智明少年とサンプルの患者の映像には差異があった。
「……いんや。見たまんまだよ」
アルファベットが彫り込まれた一口大のチョコを口の中で転がしながら、鯨井はデスクチェアーに体を預けて腕を組んだ。
「じゃあ、どうしてそんなに難しい顔で考え込んでるの?」
「そりゃ考え込むやろ。今映してるのは頭部を横から見たとこなんやが、一般的なサンプルと比べ、形が崩れ始めた一枚目と、崩れすぎてしっちゃかめっちゃかの二枚目。これが全部人間の枠に納まるか? よしんば人間であるとして、じゃあなぜこうなったかの説明がつくか? 結果として外部からの影響なしで自発的にこんなことになる理由や意味を考えなきゃならんわけよ」
「……ふうん……」
鯨井の説明を聞いてもいまいちピンと来なかった美保は、とりあえず返事を返したが何がそんなに重要であるかは分からなかったし、今考えなければならないことなのかも疑問だった。
「野々村さん、今のこの世界に治せる病気がどのくらいあるか分かるかしら?」
「え? ほとんどの病気は治療できると思いますが……。手術や矯正や薬剤投与も含めてですよね? 違うの?」
玲美の質問の意図が分からず鯨井に助けを求めたが、鯨井は深刻な顔で首を軽く横に振っただけだった。
「半分正解だけれど、残念ながらハズレ。二十一世紀の中頃からナノマシンによる治療が本格的に開始されて、感染症やウイルス性の疾病はかなりの割合で治療に成功しているわ。骨折や裂傷などの外的要因による怪我と同じ様に、捻挫や靭帯損傷などもナノマシンで短期間のうちに回復するまでになった。でもそれは外部からの要因に対して人間の免疫や回復力をナノマシンでサポートしているにすぎないわ。じゃあ、内科に絞った疾病ではどうかしら? ガンやクモ膜下出血や脳梗塞・脳挫傷・肺気腫などなど、発見のタイミングにもよるけど手術によって助かる命というのは格段に増している。けれど、それは本当に治療と呼べるものなのかしら?」
「……患部を摘出することも治療であると思います」
「……治療という行為や手段ではある。だが、理屈では治療できるものという概念には当てはまらないんだよ」
玲美ではなく鯨井が答えたので、美保は鯨井を見る。
「どういうこと?」
「言い方を変えれば、害があったり機能していないなら取ってしまえ! 詰まっているなら取り除いて繋いでやれ! という対処をしたに過ぎないということだよ」
「かなり粗野な言い方だけれど、そういうことなの」
鯨井の表現に苦笑しながら玲美は続ける。
「薬剤投与も同じ理屈になるわね。一般の人には『ウイルスをやっつける』と説明する方が面倒な説明をしなくていいから、そう言ってしまうけれど、実際には体外に追い出すか追い出しやすいように分解しているだけなの」
「はあ……」
――分解しちゃってるんだから死滅させてるのと同じじゃない――
本音ではそう思うが、美保は曖昧な返事に留めた。
「……一番分かりやすいのは風邪ひきね」
「あ、それは分かります。風邪ひきは『風邪』という菌が引き起こしている病気ではなくて、数百種類の何らかの菌が体内に入ってしまったのを、殺すために体が対処している状態が『風邪の症状』なんですよね」
「ん。正解だ」
初歩の初歩だが、鯨井に褒められた気がして美保は少し胸を張る。しかし、わずかに引っかかりを感じた。
「あれ? じゃあ風邪薬や抗生物質の投与って、なんなの?」
「さっき播磨ちゃんが言ったじゃないか。分解して追い出すという対処だよ」
「あれ?」
「そういうことなのよ。風邪薬は、外から入り込んだウイルスを分解したり排出しようとする体の作用が一般生活の邪魔だからそれを抑えようという薬で、結局ウイルスを分解したり排出しているのは体本来の作用。抗生物質も同じで、ウイルスを分解して体から追い出しやすくするためのサポートという感じね」
「……治療しているけど、治療できているわけじゃない、ということです、ね?」
少しあやふやながら導き出された答えを口にした美保に鯨井は短い拍手を送った。
「その通り。風邪っぴき一つとっても、行動としての治療はあっても、原因が突き止められ完全な治療がなされている概念や理論にはなってないんだよ」
「付け加えるなら、なぜガンやポリープは摘出手術を行うのか? 設備や状態によってはレーザーで焼くという手段もあるけれど、簡単に言ってしまえば摘出する以外に効果的な方法がないからなの」
「そういうことなんですね」
「さて、ここからが本題だ」
やや消沈している美保に、追い打ちをかけるように鯨井が声を張った。
「治せる病気はどのくらいあるのか? その答えは、大半は対処可能だが、原因から対抗する理論まで完全に把握して対処できているものはあまりないということになる。ここでの救いは、原因が判明している病気は結構あるってことだ」
「外的要因はおいておくとして、ウイルス性、細胞の変質、器官の機能低下。……最近だと遺伝子の不全や、先天的な異常なんかも判明している部類よね?」
美保は思いつく限りの原因を列挙して、正しいかどうか鯨井の表情を伺う。
「ははは。詳しいことは後々専門家に解説してもらうことになると思うが、『遺伝的異常』は自分を『健常者』と思い込んでる人間の驕りだな。『奇形児』とか『先天的不全』とおんなじで、この世に生まれた時点で遺伝子は正常なんだぞ」
「あ! そうだった。ごめんなさい」
世の中で叫ばれる平等や公平という言葉はとても耳障りが良いし、掲げられる志は大変に立派ではある。
しかし、どんなに時代が進み、科学が発展し、国際化が当たり前になり、生活環境が良くなっても、容姿の整った者がもてはやされ平均というデータで区別や差別は生まれてしまっている。
みなが『当たり前』『普通』と信じている体の形は、あくまで大多数がそうであるというだけで、細かな部位は一人ひとり異なった形や長さなのだ。
喋り方がゆっくりであるとか、トイレにかける時間が長いとかと変わらないのだが、目に見えて自身と比べることのできてしまう容姿というものは、これまでにも沢山の人々が悩み苦しみ、傷付いてきた。
「野々村さんが謝る必要はないけれど、医療に関わるなら気を付けないといけないわね。……奇形というワードが出たから言うわけじゃないんだけれど、今回の件を考える上で、原因不明とか対処出来ない疾病としてあげられるものがあるわ」
「ああ、はい。結合双生児や小人症ですよね」
「医療関係者が『奇形』なんて言葉を使っちゃいかんのだが、差別や蔑視ではなく、治療が困難な症例という意味で他の疾病と区分けされてると思ってもらいたいが、世の中はそうじゃないから世知辛いよな。……おっと、話がそれたな。まあ、見た目が少し違うという点は疾病ではなくて、稀に併発する機能障害や不全の状態を平均寿命を全うしてもらうレベルに合わせるには病としなければならない葛藤もまた別の話で、結合双生児や小人症以外にも、多指症や長頭症なんかもある。下肢欠損で生を受けた患者さんも居るし、進行性骨化線維異形成症なんていうのもある」
「進行性骨化せん……。なんです?」
美保は聞き慣れない病名に舌を巻き、デスクチェアーの背もたれにもたれて、腕組みに足も組んで、体を左右に回して遊んでいる鯨井を見る。
「線維異形成症な。なんでも、筋肉や腱なんかが骨に変化していく奇病らしくてな、関節の可動が徐々に損なわれて呼吸を阻害することもあるそうだ」
言葉で聞くだけではその病気の深刻さや大変さは想像できなかったが、これまで大きな病気にかからなかった事を幸運に思いつつ、もしも自分と鯨井との子供が、そういった奇病や難病を持って生まれたら?と想像して美保は小さく震えた。
「えっと、それが今回のこのトモアキ君と関係あるの?」
「さあ?」
「さあって……」
ヒョイッと肩をすくめてお手上げのポーズをした鯨井に美保は呆れ返った。
「播磨先生は?」
「私もお手上げね。胎児の状態で頭部や四肢の変形が起こるというのは、少ないけれど例がないこともないわ。でも十代半ば、それも皮膚を開いて裏返すような変化は聞いたことがないもの」
普段、婦人科の医師として受診に訪れた患者達に、女性らしい細やかな気配りを怠らない玲美らしからぬ物言いに、美保はポカンと口を開けたまま玲美を見つめてしまった。
「そんな顔しないでちょうだい。内科の清水先生だってうろたえるほどの難問なのよ。鯨井先生や私の専門でもないしね」
「そうですね。すみません」
玲美の言葉を聞いてそれはそうかと納得できたので、美保は素直に頭を下げた。
冷静沈着で、冷血と陰口を言われる清水医師がうろたえるのだから、目の前の婦人科医師を安く見るような態度をとったのは美保の落ち度だ。
「……じゃあ、少しだけ専門分野の話もしてみるかねぇ」
鯨井は腕組みを解いて億劫そうに体を起こすと、デスクに転がっていたボールペンを拾い上げてモニターを指す。
「ノートパソコンの方が一般的な人間の脳の構造と配置だわな。んで、こっちの左側が午前三時過ぎのもの。右側が午前五時以降のものだ。パッと見て気付くのは、三時の時点で大脳・小脳・間脳・脳幹なんかの主だった脳ミソの肥大が見られる。これが五時の時点ではさらに肥大してる。画面上では三時の時点で約1.1倍。五時の時点で1.25倍まで大きくなってる」
鯨井がポンポンと指し示していく部位は、美保が見ても分かるくらい形や大きさの変化は顕著だ。
「……単純に各部位が肥大化しているわけじゃなくて、肥大する前提で部位と部位を切り離しているように思えるわ」
鯨井と美保に見えるようにモニターの向きを変え、玲美は映し出されている映像をそれぞれ等倍で拡大していく。
鯨井のモニターに映されている画像が人間の頭部を左側から見ているものであるのに対し、玲美が映し出している画像は正面からの画像だ。
鯨井と同様に左に午前三時のもの、右に午前五時のものが並べられている。
「本当だ……。少し隙間が出来てる……」
玲美の使っているデスクの方へ体を向け、モニターを覗き込んだ美保は玲美の指摘をなぞって驚嘆した。
「あ、でも完全に切り離してるわけじゃなくて、薄っすら神経組織で連結はしているんですね」
「うん? なかなか目がいいなぁ。俺もとうとう老眼が始まったか?」
MRIやCTの画像は青系統の濃淡で表されることがほとんどで、拡大にも限界がある。
鯨井も画像を拡大して解析を試みてはいたが、美保が指摘した部分までは気付いていなかった。むしろ繋がっているのが当然という先入観で見落としたのかもしれないが、一般的に左脳と右脳・間脳などの連結部分は細くて短い神経組織の集まりだし、その数も人によって違いがある。
美保の指摘でクローズアップされた神経組織は、通常よりも細く数も多い。
「じゃあ、そんな目の良い野々村さんに問題よ。この画像にはもう一つおかしな部分があるの。さて、何でしょう?」
「おかしな部分?」
まるでお笑い芸人への大喜利のような設問に、美保は戸惑いながらもモニターに顔を寄せる。が、眉間にシワを寄せて目を凝らすがそれらしいものは見つけられなかった。
「……すいません。分からないです」
「播磨ちゃん、それはさすがに意地悪だわ」
鯨井はチョコの包装を開きながら美保に助け船を出す。
「美保ちゃん。大きく開いた脳梁をよく見てごらん」
「あん、それはもうヒントじゃなくて答えじゃないの」
「脳梁の、奥?」
つまらなそうに口を尖らせる玲美の傍で、美保はマウスを操作して拡大や視点操作をしてモニターを注視する。
と、微妙な青の濃淡の一部に、真っ黒い球体があることに気付く。
「クジラさん。こんなところにこんなまんまるな器官、ないよね? MRIでも断面が映らないとかもあり得なくない?」
「ご明察」
怪訝な顔で振り向いた美保に、鯨井は茶化すような短い拍手を送る。これにはさすがの美保も婚約者と認める鯨井を軽く睨んだ。
「そんな顔しないでくれよ。考えられるのは三つある。一つは機器の故障か異常。二つ目は純度の高い金属の塊。三つ目は、磁力を通さないか反射してしまうような、我々の知らない組織で形成された器官、だな」
鯨井の仮設を、美保は大学の授業で習った理論や研究を思い出しながら重ねてみたが、どれも有り得ないことだと思った。
「一個目は有り得ないでしょ。故障とか不具合なら、画像全体が乱れたり写ってなかったりするもの。二個目も、人の体の中に金属の塊があるなんて聞いたこともない。三つ目なんてもはや人間じゃないじゃない」
考える仕草をやめて腕を組んだ美保は、呆れ返るように鯨井に言い放った。
だが、玲美の言葉に驚かされることになる。
「そうね。この人は人間じゃないかもしれない」
「ええ!? 播磨先生?」
「結論、そう言わざるを得ないな」
「クジラさんまで――」
困惑する美保の視界が、突然白く焼かれた。
「な、何? 何か光った!?」
「雷、か?」
「雨は降っているけど、稲光ならあんなに眩しくはないはずよ。落ちたのなら音がするはずだし……」
三人ともが近くの窓へ視線を向けたが、玲美が言うように重たげな雲から雨粒が落ちているだけで、稲妻はおろか稲光すら認められない。
落雷であれば聞き逃しようのない轟音が轟くだろうし、三人ともが聞き逃すということもないだろう。
「なんだか不吉ね」
「……もしかしたら、俺達の知らないとこでとんでもない――!」
「キャアッ!!」
鯨井が不安を言葉にしかけた瞬間に、落雷とはまた違った轟音が響き渡り、驚いた美保が悲鳴をあげながら鯨井の足元にうずくまった。
「…………本当に、不吉ね」
「ああ」
とっくに静かになっているはずなのに、耳の錯覚でかすかなこだまを感じつつも、美保が居ることで鯨井に飛びつくことができなくなった玲美は、デスクチェアーから腰を浮かせたことを誤魔化すようにもう一度不安を口にしていた。
だが鯨井はそんな玲美の心情よりも、いいしれぬ不安に心がざわつき、美保の肩に手を置きながらずっと窓の外を見つめていた。