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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第八章 嗅覚と勘
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本音 ①

 大阪市北区天満(てんま)

 平日の昼間は南北を貫いている天満橋筋を往来する車の列で騒々しさがあるが、オフィスビルと高層マンションと町家を改装した店舗などが集まる町並みは夜間になると落ち着きを見せる。

 それでも間もなくに迫った天神祭に備え、『桜の通り抜け』でも有名な造幣局近辺と大川河川敷周辺はイベントを待ちきれない熱気に満ちてきている。


 そんな大川に架かる天満橋から西へ外れたオフィスビルの上層階の一室。日付けも変わろうかという時間帯に作業に没頭する男が居た。


 男の名前は北野良和(きたのよしかず)

 世間に向けての肩書きは『世俗文化研究家』という取り留めのないものだが、その中身は近代日本に蔓延るオカルト・ホラー・都市伝説・映像作品・アイドル文化・スピリチュアルなどを楽しみ私見を語って稼ぎを得ており、『キタノヨシカズ』名義で多分に私情と邪推が書き連ねられた著書には一定のファンがいる。


 ここは北野のオフィスと作業場と資料室と個人的な倉庫を兼ねて借りているスペースで、デスクライトだけが灯る六畳の作業場には書架に収まらない書籍とDVDが段ボール箱に詰められて重ねられ、コレクションボードには玩具やフィギュアがギュウギュウに飾られている。


 と、ノートパソコンに文字を打ち込んでいる北野の手元でスマートフォンの着信音が鳴り始め、作業を中断させられた北野が顔をしかめてデスクの上の資料を漁ってスマートフォンを探し出す。


「……はい」

〈ああ、良かった! 北野さんやったら起きてる思ったわ!〉

「イタちゃんか。どうかした?」


 電話をかけてきた相手は北野と長年の付き合いがあるオカルト雑誌の編集者で、板井正勝(いたいまさかつ)。北野に優るとも劣らないオタクで歳が近いこともあり公私ともに付き合いがある男だ。


〈北野さん、今大阪おるん?〉

「居るよ。オフィスで君からもらった仕事の原稿書いてるとこ。せやから飲みの誘いだったらちょっと難しい」


 ややハスキーでボリュームの大きい板井の声を聞きつつ、データ保存の操作をしてデスクチェアーにもたれる。

 板井の用件を先読みした北野だったが、まだまだ原稿の締め切りまで日数があるし、板井と酒を飲む事に問題などない。かかってきた電話に出る余裕があるし、この程度のジョークや嫌味を言えるくらい板井とは関係性があるのだ。


〈あんなもんいつでも大丈夫ですわ。俺もそろそろ北野さんと飲みたいなぁとは思ってますけど、今日は別件なんすよ〉


 担当編集者として問題のある発言は横において、そもそも北野と板井は同好の友であり、二人の酒宴というのはストレス発散でもあり情報交換の場であり企画会議でもある。

 雑談の中から次の書籍や寄稿するコラムのネタを生み出したことは過去に何度もある。

 しかしそれらとは違う『別件』の一言が気になった。


「なんだいそれは。僕らはもうラジオやテレビや動画配信なんかのメディアには出れないし、イベントもさせてもらえないだろう?」

〈それは言わんといてください!〉


 実はこの二人、歯に衣着せぬ北野の発言とそれを窘めたり更に被せたりする板井の掛け合いが人気となって一時期評論家やコメンテイターとしてセットでメディアに露出していた事があった。


 しかし『邪推』と前置きして語った放談が侮辱と捉えられて告訴されたり、特定の業界のタブーに触れてしまったために追放されたり、一気にメディアから放逐されて今では細々とオタッキーな研究書や解説本を出版する事しかできなくなってしまった。


 世間には表向き『名誉毀損で訴えられて敗れた末に干された』と報じられたが、真相はそんなものではない。


「じゃあ、何?」

〈あのー、『テイクアウト』の仕事覚えてる? 新都にある月刊誌の特集かなんかで呼ばれたやつ。関西の心霊スポットの突撃レポート本を載せてもろたやつ〉


 なかなか本題に入らない板井に退屈を感じ始めていた北野だが、いくつかのキーワードで記憶が呼び起こされて「ああ」と答えた。

 売れていない本を取り上げてくれるというので数年前に取材に応じた事がある。新人丸出しの若い男の記者と梅田の喫茶店で話をした。


〈そん時の高田っちゅー記者が会いたい言うてんねん〉


 飲みの誘いと変わらぬ温度の板井の言葉に、北野はスマートフォンを耳から遠ざけて頭をかき、困惑や迷いに苛まれている演技で唸り声を上げながらチェアーから立ち上がる。


「なんか、なんだろなぁ。僕なんかに今更会いたい理由が分からない」


 やんわりと拒絶して断るニュアンスを込めて応じながら、積み上げられた荷物をかわしつつ作業場から出てオフィスの炊事場へ向かう。


「僕もそれなりにスケジュールがあるからね」


 スマートフォンを頭と首で挟みながら冷蔵庫から乳酸菌飲料を取り出し、蓋を開ける。


〈北野さんちょっと待って! 取材とかと違って教えて欲しいことがあるって言うてはんねん。いついつ会いましょうとかやなくて、今からちょこっと会って教えて欲しい言うてはんねん!〉


 北野の拒絶を感じ取ったからか、急に慌て始めた板井の言い分に、北野は口にした乳酸菌飲料を吹き出しかけた。

 面識が無いに等しい雑誌記者が日付けも変わろうかという時間に『会いたい』とは何事か。

 厚かましいことに、取材ではなく『教えて欲しい』などという目的不明の嘆願をするなど、もってのほかではないか。


 ――一円にもならない雑用じゃないか――


 板井の頼みごとや面白そうな話ならば銭金に関係なく聞く姿勢になれるのが北野の性分だが、内容が不確かで縁の薄い他人からの急なお願いなど『金でももらわなければやってられない』のが本心だ。

 板井も北野がこう言えば断ってくれるだろう。


 ――イタちゃんが真っ先に用件を言わない時は、大抵つまらない話か儲からない話だからな――


 口の中の物をしっかりと飲み干して、板井への断りの台詞を用意してから苦笑いとともに返事を返す。

 この一件を断ることになっても、板井との関係が途切れないように配慮しなければというのは北野の友情であり打算でもある。


「ははは、今からは無理だよ。イタちゃんと飲もうって話でも断るくらいなんだから」

〈ちゃうんです! 北野さん、俺らの()()にもなる話なんすよ! 電話で言われへんのがもどかしいんやけど、ものっすご!おもろいネタなんやって! 分かって北野さん!〉


 口調を強くした板井に、おや?と北野の思考が切り替わる。


 北野より十は年下の板井は公の場では北野に敬語で話すが、余人のない場では関西弁のタメ口で友達のような空気感になる。

 ただ興奮したり盛り上がってくると声が大きくなり、友達よりも踏み込んだ口調になって様々な垣根を取り払った話し方をしてくる。


 そして北野の思考を大きく切り替えさせたのは『ネタ』という一語だ。

 仕事でも雑談でも、北野と板井の間には常に共通のテーマが存在している。それはオカルトや都市伝説やアニメ・アイドル・心霊・玩具などのサブカルチャーやまことしやかな噂話に関する邪推と深読み。


 いわゆるオタクトーク。


 暗に板井は『仕事にも雑談にも酒の肴にもなる話だ』と強調してきたわけだ。

 しかも『電話で話せない』となると、かなりマニアックで()()()()()ということになる。


「……分かった。オフィスに来てもらって。どのくらいで着く?」

〈三十分で行く! ありがとっ!〉


 テンションが上がっているのか、せっかちな板井は礼を言い切らないうちに電話を切ってしまい、回線が途切れた音が北野の耳を叩いた。


 こういう話の時に子供のようにはしゃぐ板井の可愛らしさは見ていて面白いのだが、どうしても大人ぶって表面的な冷静さを見せてしまう自分自身を北野は笑ってしまう。

 いつの間にか子供のようなはしゃぎ方が出来なくなったことは、北野にとって頭でっかちを自覚させ感性が鈍ったように感じてしまうのだ。


「僕もまだまだだな」


 乳酸菌飲料のから容器をゴミ箱に捨て、スマートフォンを綿パンの尻ポケットに突っ込みながら北野は作業場に戻っていった。

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