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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第八章 嗅覚と勘
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暗雲 ⑤

   ※


 もうすぐ日も暮れようという時間に鯨井孝一郎(くじらいこういちろう)は茨城県つくば市に居た。


 京都市内のネットカフェであれやこれやと調べ物や問い合わせを行ってみたが、HD(ハーディー)開発に関わった企業には担当者への取次はおろか『問い合わせにはお答えできません』と突っぱねられた。


 ならばと会議に参加した医学会関係者や大学教授などに連絡してみるも、あえなく玉砕。

 厚生労働省や経済産業省に至っては、身元を明かせの一点張りで用件すら言わずに鯨井から電話を切らなければならなかった。


 それでも鯨井がつくばに赴いたのは、HDの導入と開発推進を議論する会議に参加した有識者がつくば市に居るはずだからだ。

 大学教授であったり企業の顧問であったりと職種や勤め先はバラバラだが、三名の関係者が関わっているほど『つくば』という土地は未だに先進技術の研究や利用に特化したところなのだ。


 しかし、ネット予約していたホテルの居室に入るなり、鯨井は長いため息をつく。


 早朝に淡路島を出て京都に向かい、師匠野々村穂積(ののむらほづみ)に面会して聞き取りを行い、その後数時間に及ぶネット検索と調査を経てリニアモーターカーで茨城県へとやって来た。その道中、有り得ない人物からの着信があった。


「なんでこのタイミングなんだか」


 さして広くない一人用の居室で呟き、鯨井は電話を掛けてきた相手にコールバックする。


〈――孝一郎かい?〉


 数回のコールで電話に出たのは、神戸ポートアイランドにある遺伝子科学解析室の責任者柏木珠江(かしわぎたまえ)


 親しい者にさえ滅多に電話などすることのない彼女からの連絡にも驚いたが、着信があってから二時間ほど過ぎているのにたった二〜三回のコールで電話に出たことにもっと驚いた。


「あー。柏木センセ、どうかしたんかの」

〈どうもこうもないよ。お前は今、何をしてるんだい?〉


 相変わらずのつっけんどんな物言いは、電話口でも変わらないらしい。


「ナニと言われても説明しづらいんだが。まあ、ちょっと昔の研究資料の裏を取りたいなと――」

〈くだらない。そんなものは放っておいて、手が空いてるなら私を手伝ったらどうだい〉


 鯨井が言い切らないうちに珠江は神戸に戻ってこいと言った。


 珠江と長い付き合いのある鯨井だが、さすがに憮然とした表情になる。ましてや鯨井は有給休暇などを駆使して一時的に仕事を休んで調べ物に傾倒しているだけなのに、まるで職を失って暇つぶしでブラブラしているように捉えられているのは心外だった。


「いやいや。わたしゃ休暇中なだけで、調べ物が終わったら職場復帰せにゃならんのですがね」


 なるべく穏便に、角が立たないように言い返したのだが、珠江は一笑にふして口悪く宣う。


〈はん! 面倒ごとを持ち込んでおいて、お前は病人に挨拶まわりしてるというわけかい? いい身分になったじゃないか。今度会う時はどんな顔で出向くつもりかねぇ〉


 百人中百人が『煽っている』と分かる口調でまくし立て、更に珠江は「そんな奴だとは思わなかったよ」と付け足した。


 鯨井はベッドから立ち上がり、左手を腰に当てて右手で頭をかきながら、なぜこんなにも珠江の機嫌が悪いのかを考えた。が、高橋智明のDNA解読を依頼した以外に鯨井が珠江に不義理を働いた覚えはない。


「……センセ、何かあったのかの? 随分と当たりが強いようだが」

〈別に何もありはしない。暇なら手伝えというだけさね〉


 理屈の通らない返事に今度こそ鯨井は『怪しい』と考える。


 そもそも高田姉弟との取り引きで調べ物をしなければならなくなったものの、鯨井はまだ師である野々村穂積としか面談していない。

 ネットカフェで何時間も検索したり、多方面に電話をかけまくったりもしたが、それらが珠江に影響や迷惑を与えるものではないはずだ。

 だいたい珠江は鯨井の動きをどこから聞きつけたのだろう?


「いやいや。暇なわけじゃないんだってば。……それよりなんでそんなに俺が暇だと思うのかの。誰かから何か聞きましたか?」


 なんとなく察しはついているのだが、鯨井から切り出せばきっと珠江はぶっきらぼうに切り捨てて素直に答えてくれないだろう。

 案の定、珠江は鯨井の問いかけに対して無言になった。


「センセ?」

〈……穂積に頼まれたんだよ。お前の行く末を見てやってくれとね〉


 やはり、と思うと同時に意外でもあった。


 午前中に穂積が入院している京都の病院を訪れた際に師弟の絆のようなものは交わしあったが、まさかその後に穂積から珠江に連絡が回った上に、師匠の口から『行く末を見てやってくれ』などと頼むなど想像すらしていなかった。


「はは。あの師匠が? ハハハ、まさかだわ」

〈誤魔化すな。分かっているくせに〉


 動揺を隠すために師弟愛を否定してみせた鯨井に対し、珠江の言葉は辛辣だ。


 もちろん鯨井が穂積との関係性を否定しようとしているのではない。珠江も二人がそこまで薄っぺらい付き合いだなどと思っているわけではない。

 鯨井が押し隠そうとしたのはそんな気恥ずかしさなどではなく、穂積と珠江の関係性や繋がり方という意外さでもない。


 珠江が鯨井のしていることをほぼ全て承知した上で強引な理屈を持ち出し、鯨井を手元に繋ぎ止めようとしていることへの動揺だ。

 それさえも見込んで『誤魔化すな』と両断するあたり、ますます鯨井は懐疑的になる。


 あの偏屈な穂積が珠江に鯨井の事を託したのは本当だろう。

 しかしあの師匠が旧知の者であれ弟子の後見を頼んだりするはずはない。

 穂積と珠江のやり取りがどのようなものであるか想像すらできないが、恐らくもっと別の理由や言い回しで鯨井の面倒を頼んだはず。


「…………敵わんなぁ、センセ」


 今このタイミング、この状況ということは高橋智明関連ではなくHDに関わる事情であろうと察せる、のだが、珠江にどう切り出していいのかが鯨井には分からない。

 ダメ元の直球で聞いてしまおうかと思いはするが、師匠以上に偏屈な珠江がすんなり正解を教えてくれるはずはない。

 かといって神戸へ舞い戻り、顔を合わせて事情を訊ねても同じ結末だろうと思える。


〈……どうするんだい。私の所に来るのか、来ないのか。ハッキリおし〉


 少しの沈黙のあとに脳内に響いた珠江の声は、幾分刺々しさのない声音だったが、容赦のない二択な事には変わりない。


 聞くべきか聞かざるべきか、戻るべきか否か。しかしそうなれば黒田や高田姉弟との取り引きを放棄することになる。そして穂積からクラウドを通じて受け取った情報が宙に浮いてしまう……。


 鯨井の頭の中を様々な事柄が駆け巡り、すぐに返事が出来ない。

 無言になってしばらく経つが珠江も黙ったまま鯨井の返事を待ってくれている。


「……柏木センセ。いや、珠江さん。明日まで考えさせてもらえんかの。俺一人の事じゃないから」


 ようやく絞り出した返事はありきたりな先延ばしで、ていの良い言い逃れ付きだったが、間を置かずに飛んでくるであろう珠江からの怒鳴り声はなかった。

 代わりに鯨井よりも長い沈黙の後に珠江の返事が返ってきた。


〈そうかい。じゃあ明日まで待ってやろう〉


 怒鳴られなかったことに違和感を感じたが、それよりも今までに聞いたことのない珠江の寂しげな声の方に驚く。


「すんません」

〈お前の人生だ。私の思い通りにすることはできないさね。

 ただし、これだけは忠告として聞いておきな。

 今、お前がしていることはとても無駄な事だ。

 あえて言おう。

 深追いするな。

 それよりも私の所に来る方がもっと意義がある。

 もう一度言う。

 深追いするな!

 それじゃ、良い返事を待っているよ〉

「なんで? 珠江?」


 またいつもとは違う重々しい声音で言い放ち、珠江はあっさりと電話を切ってしまった。


 返事を急かしもせずに沈黙を待ってくれたかと思えば、意味深な内容を言いたいだけ言って電話を切られ、鯨井は軽いパニックを起こして答える者も居ないのに呼びかけていた。


 ――なんなんだ? 深追いするなだと? この先に何があると言うんだ?――


 力なくベッドに腰を下ろしたり、また立ち上がって居室をうろついたりしながら珠江の残した言葉の意味を考えてみるが、見当がつかないばかりかわけが分からなくなってくる。


 とりあえず明日の夜まで時間はある。


 だが鯨井の取るべき行動は何一つ定まらない。


 ホテルに入った時はまだ明るかった居室は、いつの間にか暗くなっていた。

 それが日没のせいなのか、それとも午後から広がり始めた曇り空のせいなのか、今の鯨井には考える余裕すらなかった。

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