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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第七章 水面下
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聴き取り ②

 JR丹波口駅から徒歩で十分。

 野々村穂積が入院している病院へと入った鯨井は、病室の前で深呼吸を繰り返す。

 二日前に訪れた際は美保の両親に婚約の許しを請うためだったので、野々村穂積の病室の前までは赴いたが、師匠とは顔を合わせていない。


 そもそも貴男(たかお)明美(あけみ)に話を通していないのに、先んじて祖父へ婚約を報告するなど筋違いだ。

 意を決した鯨井はドアをノックし左にスライドさせて入室する。


「誰だい?」

「ご無沙汰しとります。鯨井です」


 広々とした個室は部屋の中央に目隠しのカーテンが引かれてい、その向こうの窓際に置かれたベッドから誰何(すいか)の声がした。

 穂積が肺を患って入院したのが半年前。師弟の再開はそれぶりになる。


「おお、よく来たな。入りなさい」

「失礼します」


 今更になって手ぶらであることに気付いたが、時すでに遅し。悔やんでも仕方がないので無礼なまま師匠の前に出向く。


「元気そうじゃないか」

「それはこっちの台詞でしょ。入院が長引いてるんで、大学も病院もてんやわんやですわ」


 入院している側から体調をネタにされ、鯨井の緊張は吹き飛んでついいつもの砕けた口調になる。


「あんなもの、なんとでもなるものだ」


 かなりの条件で私立大学の教授と総合病院の専属医を引き受けたはずだが、当の穂積は辞めた気でいるらしく一笑にふした。

 事実、鯨井が代役を買って出れるものではないので大学には臨時講師が立ち、病院にも代わりが赴任している。


 鯨井は鯨井で、高橋智明が引き起こした病院襲撃事件で左足を骨折した事に乗じて有給休暇の処理をしているのだから、師匠の行いを強くは非難できないが。


「相変わらずですな」

「この歳だ。性格や生き方が治るはずがない。それより、連絡なしの手土産もなしで何の用だね」


 手厳しいツッコミに、鯨井は愛想笑いを苦笑いに変えながらベッドサイドの丸椅子に腰掛ける。


「まあ、いくつか報告がありまして……」


 用件を切りだそうとしたが、動揺したわけではないのに言葉がつっかえ傍らに置こうとしたキャリーバッグを自立させられずに耳障りな音が立った。

 その隙きにまた台詞を取られてしまう。


「孫との結婚の件だな? 息子が許したのなら私からは何も言うことはない。祝儀は張り込むつもりだから、心配しなくていい」

「いやいや。もう耳に入ってましたか。師匠のお陰で割の良い仕事に就いてるから、金の心配はしとりませんよ。これまでにも無心に来たみたいに言わんで下さい」


 鯨井と美保の婚約は恐らく貴男たちが伝えていたのだろう。

 だからといってすぐに金勘定に結びつけるあたり、『子が子なら親も親』というところか。


「そうは言っていない。頼るべき時に頼れる者が居るというだけの話だ。何十人と弟子が居るが、支援も師匠の務めみたいなものでな。闇金並みにアチコチ貸し付けているよ」


 これを笑いながら言ってのけるのだから、どこまでが冗談か分からず鯨井は笑うに笑えない。


「それでいて一度も督促や取り立てをしないのだから、良い師匠のつもりなんだがね」

「はは、まったく……」


 間に合わせの相槌を打って小さく笑い、鯨井はもう一つの報告を済ませてしまう。


「ちょうど弟子っ子の話になったんでついでで言ってしまうんやが、師匠の『後釜』は貴男さんに委ねましたので、そのつもりでお願いしますよ」

「なんだ、もういいのか?」

「いやいや。そもそも私ゃ権威とか地位なんぞを求めとりませんから。食っていける稼ぎがあればいいんですよ」


 美保との婚約の条件として師匠野々村穂積の後釜争いから辞退することを申し出た鯨井に、穂積は『もったいない』と言わんばかりに睨みつけてくる。

 それに対する鯨井の抗弁にも「相変わらず欲のない奴だな」と宣う始末だ。


「欲の向きが違うだけだから」


 苦笑いで受け流すとさすがの師匠もそれ以上の追撃はやめてくれた。

 やれやれ、と息を吐きつつ話題を変える。


「それはそうと、具合はどうなんです?」

「ああ。何年も保たんだろうな。多分、肺がんだ」


 あっさりと答えられた病状に鯨井は言葉をなくしてしまった。

 先程までの会話はおろか、顔色や目の輝きにはまだまだ活力がある。九十に近い病床の男の外見ではない。

 ただ、穂積の見立てを裏付けるのは半年に及ぶ入院生活のためか、頬がこけ入院着から出ている腕や胸が骨張って見えることくらいか。


「……それは、なんとも……」

「気にしてはいけない。医者は医者らしく、病に向き合うしかない」

「……ごもっともです」


 なんとか言葉を捻り出して受け答えを成り立たせている鯨井だが、内心は一般的な情動よりも一種変質的な動揺の方が大きい。


 恩師と慕い涙の一粒でも流すべき場面にあって、悲しみらしきものが大変に希薄で、むしろ無色で波風一つ立たない自分の気持ちに慌てているからだ。

『来たるべき時が来てしまった』と覚悟の刻を悟ったのか、それとも『見た目以上の瀬戸際に驚きすぎた』のか、その真相は今は分からない。


「慌てるな。世間の予想を裏切って、後継者争いの結末を見てから逝ってやるつもりだから、まだまだ生きてやるぞ」

「……あんたって人は」

「憎まれっ子世にはばかるというからな!」


 九十前の老人がこれほどの憎まれ口を叩くことに呆れていると、穂積は痛快そうに大口を開けて笑った。が、その哄笑の途中でむせ、咳き込み始めて口を手で覆って体を丸める。


「お、おいおい……」


 様子の変化に慌てて立ち上がり、穂積の背中をさすってやる。

 胸の奥から苦しげな咳が吹き出すたびに穂積が無理矢理閉じ込めようとするので、老人の格闘がしばらく続いた。


「……すまない。手間をかけた」

「平気なんか?」

「ああ。薬で抑えてはいるんだがな、気分が良くて調子に乗るとこの様だ」


 まだ呼吸が乱れているが表情を緩めた穂積に安心して、鯨井は穂積の背中を支えて元の態勢に戻してやる。


「……まったく。聞きたいことがあって参上したのに、これじゃあ聞きにくいじゃないか」


 穂積の具合が完全に落ち着いたことを確かめてから丸椅子に座り直し、鯨井は遠慮なく悪態をつく。


「なんだ、ここからが本題か?」

「そういうことです」

「相変わらずだな」

「師匠譲りですからな」

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