聴き取り ①
月曜日のJR京都駅もやはり通勤ラッシュで、構内を行き来する人々の足は早く表情も険しい。
解いたばかりのボストンバッグに旅支度を詰め直す気にはなれず、キャリーバッグに変えたことが仇となってしまった。
周囲の迷惑そうな視線をくぐり抜け、京都駅から山陽本線に乗り継ぎ丹波口駅の改札を出て、ようやく鯨井孝一郎は息をついた。
七月の快晴は午前八時ですでに気温も高く、久々に味わったすし詰めの満員電車は鯨井から体力も気力も奪ってい、駅近くの喫茶店へと飛び込む。
「アイスコーヒーを」
鯨井はアルバイトらしき女性店員に注文を告げ、おしぼりで顔と首の汗を拭いながらH・B化された脳内でアプリを開く。
仕事に関わりのある医療系コンテンツと、その下にある美保にせがまれて検索した国内外の結婚プランの履歴は飛ばして、三番目にあるニュース・まとめサイト一覧を開く。
新聞のネット移行が完了して数十年が経ち一時期の営業メール問題も収まって、新聞から始まったペーパーレス化は雑誌週刊誌にも及んで、この手の情報商売は月極の定期購読者サービス合戦へと進展し賑々しい広告が溢れている。
鯨井はそれら広告をスクロールして定期購読している時事ニュースまとめサイトを開く。
元より仕事関係の時事ニュースと医療系新書や論文の特集記事を読むついでに世情に目をやる程度なので、時事ニュースはまとめサイトで事足りるのだ。
「……なるほどの。あの兄さん、してやったりだの」
一覧には昨日の『陸自攻撃速報』関連の記事ばかりが並び、諭鶴羽山近辺の状況と御手洗首相の会見の記事で占められていると言っても過言ではない。
その中でもとりわけ『自衛隊の防衛軍改編は審議会を正式に通す』という首相の意向が多く取り上げられており、正しく高田雄馬記者の狙い通りの運びとなっていた。
「……ああ、あんがと」
運ばれてきたアイスコーヒーにフレッシュミルクとシュガーシロップを加えて一口すする。
ようやく体の汗が引き、体の中が潤された気分になって鯨井の集中力が戻ってくる。
時事ニュース一覧をざっとスクロールしていき、自衛隊や高橋智明が即座に動かないであろう気配を見通すと、鯨井は時事ニュースを閉じて仕事関係の項目を開く。
――今更こんなコピーを引っ張り出さにゃならんとはな――
高田舞彩への言い逃れで口にしたH・B及びナノマシンによる人体の機械化研究の論文のコピーと、それらの審議会議事録のコピーを並べて表示し、ため息混じりに考えを巡らせる。
そもそも仕事関係のフォルダには、専属で行っている脳外科・脳神経外科の文献や論文や新しい理論などの懇親会の議事録などを収めていて、そのついでに病院や医師会からのメールを転送保管する目的にしか活用していない。
件の審議会議事録も本来ならば鯨井の専門外であり、手元に回ってくるはずのない代物だ。
白無地の背景に太字の題字が大仰に主張し、スクロールすると審議会の要諦と議事録の目次が現れる。
その末尾にある出席者一覧をタップし、鯨井は店内が喫煙可であることを確かめてタバコに火を着ける。
その間に脳内のモニターが更新され、ビッシリと埋められた文面をまたスクロールしていく。
ど頭に並んだ論文提唱者の名前はさておき、経済産業省や厚生労働省の担当者の名前を上へ送り、大手電子機器メーカー数社の担当者の名前もスクロールして、大学教授や学会や医師会の名前も通り過ぎてスクロールを止める。
「ナノマシン医療推進機構 代表 野々村穂積」
そこにある名前を口にし、コーヒーをすする。
よりによって――とは鯨井は思わない。
先駆者にして師匠であり婚約者である美保の祖父は、H・B開発導入審議会にもナノマシンによる人体の機械化開発導入審議会にも名を連ね、導入推進派の中心人物として扱われている。
しかもこの議事録は、鯨井が野々村穂積から国生大学助教授と中島病院脳外科医として呼び付けられた時に転送コピーされたもので、脳外科・脳神経外科・学会資料などの膨大なデータの中に紛れ込んでいたものだ。
表題だけで不要なものと分かったが、穂積に削除や返還を申し出たところ『無関係に見えて真理は隠れているものだ。目を通す意味はある』と宣われ、保存と目通しを命じられ消せなくなった。
確かにH・B導入に関する議論は脳外科医にとって研究や治療に役立てられる大前提の基礎が語られており、鯨井の研究対象にも一部関与する議題があるために、興味をもって熱心に読みすすめることができた。
だが、硬骨や筋肉や神経・血管を金属や樹脂にすげ変えるという研究に至っては、さして興味が湧かなかった。
唯一、ナノマシンによるH・B化の理論を提唱したフランツ=ホフマン博士の論文の中に、鯨井の追い求める研究の骨子が触れられていたが、このコピーの価値はそれだけともいえる。
「……気が進まんが、行くか」
野々村穂積が入院している病院の開院時間までコーヒー一杯でねばり、出処不明の義務感で重い腰を上げた。




