晴れのち曇り ①
「――マーヤ。なあ、マーヤ」
黒田幸喜はなるべく体を動かさないように気を使いながら、演技の上での妻の名前を何度も呼んだ。
「……んー。あと、五分……」
寝ぼけた甘ったるい声でささやき返され、黒田は絶望した。
黒田の右半身に重なるようにしてうつ伏せている高田舞彩は、黒田の右腕を枕代わりに頭を乗せ、黒田の体をベッドに縛り付けるように腕と脚を跨がらせている。
ほぼ全裸の肌をこのまま五分も触れ合わせたままで寝転び続けるなど、肉体的には歓喜していても精神的には地獄でしかない。
――深酒でボロボロやのに目ぇ覚めて即この苦行とは……――
舞彩の発案で取材と調査のカモフラージュとして発動した夫婦設定の演技は、酒の上での肉体関係を許さず、それ以前に軽率な交わりは両者の立場を悪くするだけだと申し合わせている。
ましてや合意なき淫行などという後味の悪い結末は、今後落ち着いて仕事など出来ないだろう。
――なんでこんなことになったんや――
確か鯨井が高田家から辞したあと、二人で夕食を摂って作戦会議と称した晩酌がスタートしたはずだ。
そこから酒が進んで舞彩の弟であり舞彩同様雑誌記者である弟雄馬の話などで盛り上がり、彼にまつわるエピソードで笑い合っているあたりで記憶が途絶えている。
「……うぅ。……あたま、いたい」
「お、おう。俺もや」
体の上でモゾモゾと動かれて、黒田の返事は少し小さい。
と、舞彩がふらりっと頭を揺らしながら上体を起こし、開けきらない目のまま不機嫌そうに頭をかいて髪の毛を乱した。
「起き、るんか?」
「ん。……トイレいく」
発声もあやしい宣言をして舞彩はのったりとベッドから下りて、ずり落ちたままの下着を直さずに部屋から出ていった。
「やれやれやな」
舞彩の部屋のベッドに一人きりとなった黒田は、目覚ましと気分転換のタバコでもと思ったが、そのためには服を着てベランダに出なければならず、抜けきらないアルコールのためにそのまま寝転んだままでいることにした。
「ん。大丈夫や」
舞彩がシーツを跳ね除けていったので黒田は顕になった自分の腹を見、キチンと下着を身に着けている事を確認して一安心する。
――モテ期やとしたら俺の人生はなかなかのもんや。やけど出来れば結婚考えてる時期に来てほしかったわ――
仕事に没頭するあまりに三十半ばになってまだ黒田に結婚願望はない。
その前に高橋智明と鬼頭優里に出会い、刑事を辞めるという選択肢を得、今はこの身の進退を優先するべき時のはずだ。
「マーヤなら願ったり叶ったりやが、不器用やからな、俺は」
不器用、まっ正直、一本槍などと自分の面倒臭い性格を呪ってみたが、何より一番厄介なのは『交際=結婚』という古風なプロセスに拘るところだろう。
学生時代から現在に至るまで適度に遊んでいれば、鯨井に隠れて野々村美保とよろしく楽しむことも出来たろうし、播磨玲美の気持ちを汲んで彼女の納得する距離感で寄り添ってやることもできたはずだ。
恐らく舞彩とも我慢比べのような駆け引きなど必要なかったろう。
アルコールとは別の要因で頭痛を感じ目を閉じた黒田だが、ドアの開く音がしてそちらを見やる。
そこにはトイレに行く前と同様に不機嫌そうな顔をした舞彩が半裸姿を隠さずに立っており、躊躇なくベッドまで歩いてくる。
「マーヤ?」
一つ違うのは、顔はおろか首から胸元まで赤色に変じていること。
ベッドまでたどり着いた舞彩はそのまま手をついて膝を乗せ、黒田の右半身に体を重ねて起きる前と同じ態勢を取った。
「うえ? なんで?」
「……慣れとかなきゃ」
「こ、これ。危険なことを、ぬ、ぬかすな」
肩口に押し当てられた舞彩の顔から熱っぽい声を吹きかけられ、慌てた黒田は強めに突き放す。
黒田の淡路弁がキツく聞こえたのか、舞彩が顔を上げる。
「そお? ああ、そうか。ゴメン」
「お、お、襲うのは簡単なんじゃ。ほやけど、マーヤとはほのつもりやないとでけへんのじゃ。おまはん、俺と結婚してくれるんけ?」
動揺が体裁や建て前の限界を木っ端微塵にしてしまい、アルコールでオブラートや駆け引きが取り払われた黒田の本音をぶつけてしまう。
「…………なるほど。うんと、そうか」
無言で体を起き上がらせた舞彩はジッと黒田の顔を眺め、手櫛で髪型を整えて脈略のない言葉を呟いた。
「なるほどってなんやねん……」
昨日のエセプロポーズよりも本意気のプロポーズをすかされ、バツが悪くて冷めたツッコミをしてしまったが、舞彩が気にした様子はない。
「全然オーケーなんだけど、この仕事が終わってからでいいかな? ほら、仕事そっちのけにするわけにいかないじゃない? 雄馬の手前、演技って言っちゃってるわけだから」
「お? おー、う、うん。ていうか、オーケーなんや……」
余裕もゆとりも失くしてどさくさ紛れにプロポーズをしてしまったのに、舞彩の即答に慌てる。
当の舞彩は黒田の慌てぶりなど関心がないのか、起こしただけの体を女の子座りに直して、仮想ディスプレイを開いて作業を始めている。
「そりゃあそうでしょ。刑事さんなんだから人格は保証されてるし、見た目やノリもタイプだからお酒飲んでこの状態なんだし。さすがに結婚とかまで飛躍するとは思ってなかったけど、記憶なくすまで飲んで襲われなかったってのはとても信頼できることじゃない?」
トイレから戻ってきた時の赤面はどこへやらで、下着一枚で平然と過ごし理路整然と答えた舞彩。
それに対して舞彩のどこに視点を定めて良いものやら分からない黒田は、舞彩が口にした『信頼』とも『安心』とも取れる言葉に縛られたことを自覚する。
「この一晩でほこまで買うてもうたら有り難い限りやな。高田さん……雄馬君は賛成してくれるやろか」
今更襲いかかることなど許されるはずはなく、話題をそらしてみた。
我ながら気の早いことだと自嘲するが、『舞彩の気が変わらないうちに……』という企みと『弟が後押ししてくれるならば……』という期待もある。
「雄馬に反対されてやめちゃうなら、はなからプロポーズなんか受けませんのよ」
仮想ディスプレイからチラリと視線を向けて笑った舞彩は、それでも「反応が面白いからネタフリはしてみるけどね」と遊び心を覗かせる。
さすがに黒田も三十半ば。これが『最後のチャンス』などとは思わないが、結婚を考えても良いと思える女性がこうした反応をしてくれることは有り難い。
野々村美保も、播磨玲美も、高田舞彩も、三者三様に美しく魅力的な女性から立て続けに好意を寄せてもらった。
思い返せば、今までにも何人かの女性からアピールを受けていたような気もするが、この三人ほどに直球なアピールをされ、即応したことはなかった。
今更ながら黒田の鈍感さと生真面目さに加え、刑事という職業がプレイボーイにさせていなかったのだと思える。
ただ仮りにスケコマシに育っていたとしたら、前述の三人と出会った時に己の行いに後悔をしただろうとも思う。
「なるほどな。けど、雄馬君から『兄さん』とか呼ばれたらこちょばいやろなぁ」
ようやく本心から笑えた黒田は体を起こし、舞彩と同じ様に仮想ディスプレイを開いてメールとニュース記事のチェックを始める。
舞彩は一瞬『抱きつかれるかも』と体を逃したようだが、黒田の動作を見て逆に黒田に寄り添うように体を寄せてきた。
婚約したようなものだがまだ付き合っていない二人は、近付いた互いの顔を見合わせて小さく笑い合う。
と、黒田の顔が急に真剣なものへと変わる。
「マーヤ。首相の会見のニュース、見たか?」
「うん。今読んでたとこ」
舞彩もすでに敏腕記者の顔で黒田に答え、手元の仮想ディスプレイを可視化して黒田へと示す。
舞彩のディスプレイに表示されている記事は黒田の目にした記事とは発信元が違うが、御手洗首相が囲み会見を行ったとあるので、発信者の違いは問題ではない。
どちらの記事も報じている内容は表現こそ異なるものの同じ物で、『自衛隊の攻撃行動は速報記事を発した者の見間違い』ということと『自衛隊の改編案は既成事実ではなく法案で通して実現する意向』の二点が強調して書かれていた。
黒田の方にはオマケで『山路元首相の容態を案じている』旨もあったが、余計な尾ヒレは捨て置く。
「これを引き出すために俺を山の上に連れて行ったんやと思うとサブイボ出るわ」
雨降りの中、早朝から乗用車に乗せられて人気のない山頂まで連れられ、自衛隊の迫撃砲を眺めたのは昨日のことだ。
高田雄馬の発した速報記事は黒田の意向を汲んで高橋智明の一連の行為を伏せ、陸上自衛隊の動向と御手洗首相の悲願に的を絞った記事だった。
黒田と雄馬の間で共闘が交わされていたとはいえ、こうも短時間でハッキリと展開したことは驚嘆の一語に尽きる。
舞彩が「なかなか優秀でしょ」と弟の実力を鼻にかけるのも納得の結果だ。
その雄馬は昨晩は帰宅していないらしく、舞彩からもその理由の言及はない。
「こりゃ負けてられんな」
「ダーリンの頑張りどころはそこじゃないでしょ。私達は暗躍してる組織とか企業の方なんだから」
昨日の打ち合わせでも黒田と舞彩でバイクチームの関連箇所を回って手がかりを探ろうという段取りは出来上がっている。
と、黒田は一通のメールを思い出した。
「そや。鯨井のオッサンは珍しくマメなメールを送って来とったわ」
「そうなの?」
「ああ。早速京都に向かっとるらしい。そこで有力な情報が手に入らんかったら名古屋・東京・筑波と順に回っていく予定みたいやな」
ニュース記事を引っ込めてメールを開き、件の文面を見直しながら舞彩へ伝える。
「じゃあ、雄馬とはすれ違いだったんだね」
「そうなんか?」
「うん。首相の会見のあと皇居付近に動きがないか張ってたらしいんだけど、朝まで動きがなかったみたい。時間潰しで取材して回るついででに鯨井先生を送っていこうとしたらしいけど、留守だったみたいね」
メールの文面を見ながら雄馬の動向を明かした舞彩に、黒田はもう少しだけ顔を寄せる。
「しゃあないな。ああ見えてあのオッサンはシャイやからな。俺にだって心を開いとる気がせんもん」
「そうなの?」
「ああ。京都行きも誰を訪ねるのか書いてないくらいや」
「やん、ダメよ」
ささやきながら舞彩の肩にかけた手を払われる。
「あかんか? キスの練習やぞ?」
「ダーメ。この仕事が終わったら何でもしてあげるから、それまではガマンですよ」
「マーヤも我慢しとんのか?」
「当たり前でしょ」
「そうか……」
「……もう!」
強引に抱き寄せた黒田に逆らわなかった舞彩は、三秒だけその身を任せ、また顔を赤らめてベッドから立ち上がった。




