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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第七章 水面下
204/485

虚構 ④

   ※


 中島(ちゅうとう)病院を出た播磨玲美の高級外車は、国道28号線を西進し一旦は西淡(せいだん)方面へ向かったが、どこにも立ち寄らずにUターンして玲美の自宅がある旧南あわじ市広田(ひろた)へと戻ってきた。


 広田一帯は北に神戸淡路鳴門高速道が走り、南にはリニアモーターカーの高架橋が建設され、遷都以前より淡路島南部を東西に抜ける際の峠道の色合いがますます濃くなった。

 この辺りに新築されたマンションは賃貸ではなく分譲が多く、平野部とは違って静かで豊かな山の緑を売りにしており、五色(ごしき)地区の邸宅とは言わないまでも富裕層向けの高台に設定されている。


 玲美の購入したマンションもそれらの一戸で、地下駐車場には玲美の所有する外車よりも高級なセダン・クーペ・SUVが何台も停まっている。


 その間を格好も様々年齢も様々な女が三人、エレベーターへ歩いて行く様はやや不思議なものがある。


 ビジネスルックの三十代半ばの播磨玲美がエレベーターの呼び出しボタンを押し、続くゴシックスタイルの二十代の赤坂恭子が道を開け、しんがりに青いジャージ姿の十代の鬼頭優里がエレベーターの前に立った。

 エレベーターの扉が開くと優里が奥の左隅へ進み、玲美と恭子は入り口に陣取って、無言のまま十階まで上がる。


「お風呂の準備をしてくるから、リビングで休んでてちょうだい」


 優里と恭子に玄関から真っ直ぐに伸びた廊下の先を示し、玲美自身は左手側の洗面所のドアを開いた。


「はい」「すいません」と優里と恭子が続いて答えて、玲美の傍を通り抜けてリビングへと向かう二人の足音を聞く。


 ――赤坂さん、どうゆうつもりなのかしらね――


 脱衣所とバスルームを片付けながら玲美は恭子の不可解な言動を思い返す。


 病院のオフィスを出る際、優里の意向もあって恭子に帰宅するように促した。恭子もそれに同意したはずなのだが、恭子の自宅へと向かっていた車中でその意思は翻された。

 結果、優里も反対しなかったので玲美の自宅まで同行させたのだが、玲美には恭子が翻意した理由は分からない。

 同様に、伝心(テレパシー)で落ち着いて話がしたいと訴えた優里の真意も計りかねるものがある。


「どうなってしまうのかしら……」


 蛇口からバスタブへと勢いよく注がれる湯を眺めながら、改めて玲美の胸中に不安が湧いてくる。

 優里から何を話されるのか想像もつかず、淡々とお湯張りをし着替えやバスタオルを準備していても、予測不可というもやは晴れるどころか濃くなっていく。

 考えてもしようのない事に捕われながら、玲美は優里と恭子の分の着替えとバスタオルを手にリビングへと向かう。


「鬼頭さん。もうすぐお湯張りが終わるから、先にお風呂に入るといいわ。その間にご飯を作ってしまうから。これ、着替えとタオルね」


 玲美が声を掛けると、病院オフィスと同様にソファーに向かい合って座っていた優里と恭子が振り向いた。


「ありがとうございます。私が先でいいんですか?」

「構わないわよ。超能力だっけ? あの力で血液を取り払ったといってもさっぱりしたわけではないんじゃない? 服も借り物のようだし、お客様だしね」


 入浴の順番を問われて玲美は必死に言葉を継いだ。

 優里が四六時中他人の心や考えを覗き見ているとは思っていないが、自分の心を見透かされないようにという焦りが出てしまったのかもしれない。


「分かりました。じゃあ、お先いただきますぅ」


 関西弁の独特のイントネーションで語尾を伸ばした優里は、ソファーから立ち上がってリビング入り口に立つ玲美からタオルと着替えを受け取り、廊下へと出て洗面室に歩いて行った。


 玲美は洗面室の扉が閉まるのを確かめてから恭子の方を向き、安堵と不安が入り混じった顔と声でキッチンへ誘う。


「さあ、簡単に何か作らないとね。赤坂さん、手伝ってもらえるかしら?」

「あ、はい。何を作りますか?」


 作り笑いを浮かべる玲美を追ってきた恭子に、玲美はおや?となる。


「……もう怖くはないの?」

「え? ええ、まあ、その……高橋君と同じではないですから」

「……そう」


 恭子の言わんとすることはなんとなく理解できたが、短時間で何かしらの転換をして優里を受け入れた恭子に対し、玲美はむしろ普通の少女であったはずの優里に恐れを抱き始めている。


「……サラダと、ラザニアでどうかしら」

「お風呂上がりですけど?」

「ああ、そうね。そうだったわ。お素麺――もハネてしまうわね」

「播磨先生?」

「ミートソーススパもダメよねぇ……」

「あの、先生。パスタがあるのなら私がやりますよ。コレとコレと、コレだけあればパスタ作れますから」


 立派なアイランドキッチンのキャビネットを開き、レトルトや乾麺や料理の素を漁っていた玲美の背後から、見兼ねた恭子が冷蔵庫と冷凍庫から食材を取り出し主導権を握った。


「わ、悪いわね。切ったり剥いたりは出来るから」

「はい。お願いします」


 恭子は明朗に応え、流しの脇のスペースに冷凍保存されていた豚肉と開封され使いさしのままだった高菜漬けとニンニクチューブを並べる。

 玲美も気恥ずかしさを隠しながら冷蔵庫からレタスとトマトとキュウリを取り出す。


 どうしても仕事中心の忙しさから手軽に済ませられる料理が多くなってしまうため、恭子に普段の食生活が知られてしまったことが少し恥ずかしい。


 休日前の食事や晩酌のアテなどはしっかりと調理しているのだが、今更弁解しても負け惜しみや強がりになるだけなのでそれはしない。


 代わりに玲美はパスタを茹でるための鍋と湯切りに使うザル、まな板と包丁と食器を準備して、少しだけこのキッチンの主であることと自炊していることをアピールしておく。


 その間に手を洗った恭子はフライパンと調味料を探し出し、鍋に水を張って火にかけていく。


「慣れているのね」

「看護学校の寮に入ってましたから、勉強以外は時間が余っちゃうんです。その間にお料理とお菓子の基礎を覚えたんです」

「赤坂さんらしいわね」


 恭子と入れ替わりで手を洗った玲美は、自然と割り当てられたサラダの調理に取り掛かる。


「私、興味が湧いたことは何でもしようって思ってるんです。お料理もお菓子作りもお洒落も、若くて時間のあるうちにやっておいた方がいいじゃないですか」

「そうね」

「もともと看護師を目指したのも、脳ミソが元気なうちに応急処置や救命処置を覚えたかったからなんですよ」

「赤坂さんらしい。本当に」


 沸騰したお湯にパスタを投じる恭子の声音や独特の言い回しは普段の恭子と何ら変わらない。


 看護師を目指したキッカケとなる出来事もあっただろうが、玲美はあえて聞くことはしない。医療従事者がその道に就くキッカケは、大抵悲しい話や寂しくなる話が多いからだ。


 レタスを千切り終えた玲美の隣で豚肉をカットしている恭子の顔はどこか冴えない。


「……でも、やっぱり元気ないわね。そこは赤坂さんらしくないわ」


『優里の手当をして欲しい』と電話してきた時から、彼女の太陽のような弾んだ声を聞いていない。


「……播磨先生は、彼女のこと、どう思いますか?」


 豚肉を切る手を止めて恭子が問うた。

 視線は玲美には向けずに。


「……すごい力を持っている。それは感じたわね。今も覗き見したり聞き耳を立ててるんじゃないかって、ちょっと気味悪がってる。そんなところかしらね」


 玲美は努めて平坦に、冗談めかして他人事のように茶化してみたかったが、思うよりも平坦にしか答えられなかった。

 トマトとキュウリを洗い終えた玲美は、返事に反応しない恭子を見る。

 これは重症ね――そう感じた玲美は先程の答えを打ち消すようなフォローをしておく。


「とはいえね、彼女の人間性はそうした裏があったり悪意に満ちていたりというものではないと思うわ。私達をどうにかしたいのなら、私の家まで来なくても病院のオフィスでどうとでもできたはずだから」

「人間性、ですか」


 恭子は単語一つだけを拾い上げて呟き、豚肉のカットを再開する。

 変なところで会話が途切れてしまい、豚肉とトマトを切る包丁の音と沸騰し始めた鍋の音がしばらく続く。


「……テレパシーって言うやつですかね」


 フライパンをとろ火にかけその隣の沸騰した水に塩とパスタを投入してから、恭子が脈略なく呟いた。

 唐突な呟きに玲美は声を出さず、調理の手を止めて恭子を振り向くことで返事の代わりにした。


「先生の車に乗った時に、頭の中に声が聞こえたんです。電話がかかってきたのかと思うくらい鮮明だったんで、怖くはなかったですけど、あれ、変な感じですね」

「そうね。なんて言われたの?」

「怖がったり嫌ったりしないでって言われました。あんな姿を見られた自分も恥ずかしいんだからって」


 恭子を通して聞く優里の羞恥に思わず玲美は笑ってしまった。

 確かに皮膚を引き裂いて筋肉や骨や内臓を露出させた姿は、裸よりも恥じらってしまう部分と思えなくはないが、それを『恥ずかしい』とストレートに表現した様が面白かった。


「そこはちゃんと十五歳なのね」

「そうですけど、そんなこと言われたら私だって失神したとこ見られたし!ってなるじゃないですか。そしたら『出会い頭やから友達になって水に流されへん? 友達になりましょう』なんて言うんですよ?」

「随分な理屈ね。なんて答えたの?」

「私の方が歳上なんだから、先輩とかお姉さんみたいにちゃんと扱って!って言いましたよ。親しき仲にも礼儀ありですもん!」


 どこかズレたところで怒っている恭子にまた玲美は笑った。

 そんな玲美に多少ムッとした顔をしながら、恭子は熱されたフライパンにカットした豚肉を投入しニンニクチューブを垂らす。

 勢いよく音を立てたフライパンの音を聞き玲美もサラダの調理を進める。


「充分怖さとかは解消されている会話に聞こえるけど、その割に落ち込んでたわね」

「だって、私を雇うって言い出したんですもん。なんでって話ですよ」


 材料を切り終えてガラスボウルを取り上げたタイミングでおかしな単語を聞いたので、玲美の動きが停止した。


「雇う? 彼女がそう言ったの?」

「そうですよ」


 豚肉を炒めたところに高菜をぶちまけながら恭子が答えた。


「『看護師さんならそういう形もありかもしれへん』とか言われました」

「なんか、所々で飛躍するわね」

「ですね。だから真意とか本音とか分からなくて、なんか考えちゃうんですよ。そりゃあ笑えなくなるでしょ?」


 パスタを茹でていたコンロの火を止め恭子が茹で汁をフライパンに一掬い加えてまた派手な音がする。


「これはちょっと真剣な話になりそうね」

「播磨先生も『雇う』とか言われたんですか?」


 パスタの湯切りをしながら問われたが、玲美はサラダの盛り付けを終えてから答える。


「私のはちょっと違うかな」

「そうなんですか」


 恭子が湯切りしたパスタをフライパンの豚肉と絡め始めたので会話が途切れた。


――何かしら? 変な感じ――


 出来上がったサラダや取り皿をテーブルに運びながら玲美は違和感を覚えた、が、それはすぐに答えが出た。


――圧倒的だから? 私も赤坂さんもとっくに受け入れてしまっている?――


 優里が行使した血液の回収や伝心を彼女の能力として認めていることに気付き、玲美も恭子も人智を超えた能力に困惑していないことに驚いた。

 同時に、超能力ではなく鬼頭優里と高橋智明に関わることに怯えているのだということにも気付いた。


「そういうことか……」


 恭子の様子がおかしかったのは優里からの要求にどう答えるべきか思案していただけではないのだろう。恐らく玲美の感じた違和感にこそ戸惑っているのではないか。

 そこまで思い至れば玲美自身の心の靄の正体も分かってくる。


 食事の用意を進めながら、玲美の表情も覚悟を決めたものへと変じていった。

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