虚構 ①
「――さて、そろそろ俺も帰ろうかな」
鯨井孝一郎が非認可ナノマシンHDの関連情報を調べるために帰宅すると言い出し、高田雄馬の車で送られていったのは一時間ほど前のことだ。
鯨井が帰ってしまうタイミングで黒田も立ち去れば良かったものを、雄馬の姉舞彩にやんわりと引き止められ、高田家のリビングに居残りになってしまっていた。
そこから舞彩が有無を言わさずに夕食の準備に取り掛かり、出来上がった回鍋肉を食したタイミングでようやく黒田は帰宅の意思を示すことができた。
「そうなの? ダーリン、どこに住んでるんだっけ?」
洗い物が片付いたのか、水道を止めてから舞彩の声がキッチンから飛んできた。
「賀集やけど?」
「じゃあ何で帰っても三十分じゃん。急がなくていいじゃない」
黒田の気持ちに関わらず舞彩はあっさりと切り捨てて、キッチンで何やら支度を初めているようだ。
「そうもいかんやろ。未婚の男女が二人きりとか間違いがあったらあかん。新婚ごっこみたいなノリでなんか、尚更あかんやろ」
グラスを用意しているような音や冷蔵庫を開け閉めする音が黒田の想像をかき立て、舞彩が晩酌を始めてしまう危険性を先に封じておこうとする。
「そこはやっぱり刑事さんなんだね」
舞彩は黒田の制止を受け入れる発言をするが、食器や乾き物であろう包装を開封する音は止まらない。
「当たり前や。聖職とまでは言わんが人道に反することは出来ん」
ことごとく否定の言葉を並べていく黒田だが、さっさと腰を上げて玄関へ向かえばいいのにソファーに座したまま動かない。
舞彩の許しを得てから退去するという姿勢こそ、刑事という職に蝕まれているのだとは黒田自身把握していないのかもしれない。
「じゃあ少しだけなら相手してもらってもバチは当たらないよね」
なぜそうなる?と抗議しようと顔を上げた黒田の視界には、すでにグラスや食器をトレイに載せて運んでくる舞彩の姿があった。
「な、おい、ちょう待て。変なことになったぁあかんって言うたん、聞っきょったけ?」
それまで一般的に認知されている関西弁で通していた黒田だったが、動揺しすぎて全て淡路弁で舞彩の行動を非難した。
「べっちゃあらへん。ほぉないに尻軽くないよってんに」
「はあ?」
舞彩はソファーまで歩んできて黒田に応えたが、なんとも珍妙なアクセントと訛りだったので黒田の口が間抜けなほど開けっ放しになった。
「あれ? 間違ってた?」
「ああ、淡路弁のつもりやったんか。それやったら間違ってるな」
「『大丈夫。サセコじゃないよ』って何ていうの?」
「『べっちゃない。ほないケツ軽ない』やな。いや、ケツは男言葉やな。女が言うんやっら『お尻』やな。まあ、それ言い出したら地域によって『ほない』やったり『そない』やったりすっさかい、きっちり淡路弁ていうんは難しいな」
「そうなんだ。難しいね。はい、どうぞ」
「う、うん……」
黒田が淡路弁の解説をしている間に舞彩は缶ビールを開け、グラスに注いで黒田の前へと差し出した。
完全に舞彩のペースに飲まれている黒田を更に惑わすように、舞彩も自分のグラスにビールを注ぐ。
「はい、カンパーイ」
「おお、おつかれ……」
戸惑いながらもグラスを手にした黒田とグラスを打ち合わせ、そのまま舞彩は一気にグラス半分ほどを飲み下して息を吐いた。
「――ひあ。幸せ」
「結構、飲むのか?」
「家ではね。でも五〇〇の缶を三本とかだよ。雄馬は家で飲まないから、だいたい一人で飲んでる」
「なるほど」
他愛ない話をしながら塩味の付いた豆やアラレを口に運び、ビールを飲む。
「ダーリンは?」
「俺か? 俺も外じゃ飲まんな。乱れたら最後、失職してまうからな」
「やっぱり真面目だね」
「そもそも酒はそんなに好きじゃない。酔って楽しい事よりも騒ぎや喧嘩ばっかり見てきたからな。家でも寝る前に小さいのを一本飲むくらいや」
黒田にも警察学校時代に宴会や飲み会に参加する機会があったが、その頃の浮かれた記憶よりも交番勤務だった頃の通報で見た喧嘩や修羅場の記憶の方が鮮明だ。
友達や仲間、会社の同僚や恋人という関係の人々が、酒をキッカケに罵り合ったり暴力を振るう。たまたま店に居合わせた者同士や道ですれ違った者同士が下らない理由で騒ぎを起こす。
そうしたものを見てしまえば自然とアルコールを遠くに置くようになった。
「自制心すごいね。酔った勢いで失敗とかしたの? 女の子襲っちゃったとか?」
「ないない。そもそも女と飲まん」
「じゃあ安心だ」
「逆や。酒で自制が効かんくらい女関係に耐性ないから避けとるんや」
口に含んだビールを吹き出しそうになり、慌てて口を押さえる舞彩。
「んぶっ。……そっちか!」
「どんなに感情が荒ぶっても人を殴ったりはせんけど、そっちの欲はタガが外れたら止められんからな。酒と一緒でそもそも近付けないんが一番や」
「あらら。ダーリン男前なのにもったいないな」
急に容姿を褒められ今度は黒田がオカキを吹き出しそうになる。
「それはマアヤサンの方やろ。さっきみたいな言葉尻を拾わんでもイケメンやボンボンなんか、なんぼでも落とせるやろ」
黒田は口元を気にしながらティッシュペーパーを拝借しつつ舞彩に水を向けると、舞彩は「呼び捨てでいいよ」と答えながらグラスにビールを注ぐ。
「見た目だけで寄ってくる男なんか興味ないなぁ。何より仕事が楽しいし、頭の中に男の事を考える余白がないから」
「それこそもったいない。料理も上手いし話も上手い。頭もいいし男と女を分かっとる。これで顔もスタイルも良いんだからモテるだろうに」
「褒めても簡単には抱かせないよ?」
黒田の意図とは全く外れた答えが出てきたので、右肩をガクリと下げてコケて見せる。
「そんなつもりで言ってないんやが」
「あはは。分かってるよ。でもそういう流れからシンドイ恋愛をしたことがあるから、私のお尻は軽くないよって話だよ」
「……その割りには『ダーリン』とか呼ばれてるんやが?」
黒田が飲み干したグラスにビールを注いでくれる舞彩へ、ここ数時間の疑問を改めてぶつけてみる。
まさか舞彩も本気で黒田とどうにかなろうと思っていないであろうと思いつつも、黒田が動揺して発した『舞彩がタイプだ』という発言からの婚約者ごっこの意図は明らかにしておきたい。
「あん、だって父娘ほどは歳が離れてないでしょ? 友達にしても少し不自然だし。取材や調査を進めていくなら演技をしなきゃいけないじゃない?」
「婚約者か恋人なら自然だと?」
「ダーリンって呼び慣れておかないとね」
そんなことのためか、と黒田はバカバカしく思いながらも、少し……いやかなり残念に思ってしまう。
今後の展開を見据えた演技であったとしても、舞彩からダーリンと呼ばれて喜んだり浮かれたりしていた自分の本心を知り、黒田は気持ちの整理に困ってしまう。
「まあ、おかげで呼ばれるのには慣れたけどな」
「ダーリンも呼んでよ。婚約者に『マアヤサン』は変だから」
「おいおい。そういう無茶振りはやめてくれ。ま、マーヤの良くないとこやぞ」
酒の勢いと照れ隠しで思い切って口にしてみたが、おかしなイントネーションになって舞彩が頭を少し左に傾けた。
「おかしいな。……まあや。まアヤ、マーヤ、ま〜や〜? まはや??」
「いやいや」
「マーヤー、まあぁやぁ、まあぃや。まあいいや?」
「それは無理があるよ。マ・ア・ヤ! マ・ア・ヤ! はい、マアヤ!」
「ま、マーヤ!」
なかなか照れの抜けない黒田を導くように、舞彩が手拍子をしながら一音ずつ区切って発音してみせたが、黒田のイントネーションやアクセントは直らなかった。
「もうそれでいいや。変わった呼び方も彼氏だけの特権みたいなものだし」
「すまん」
何度か繰り返して諦めがついた舞彩は、申し訳なさそうにする黒田に構わずに話を終わらせ、泡のなくなったビールを飲む。
「マーヤ、すまん」
「ん、いいよ」
ソファーに腰掛けたまま膝に手を付き頭を下げた黒田に、舞彩はそっけない返事を返してくる。
唯一の救いは舞彩が怒ったりつまらなそうにしていないことだけか。
なんとなく立場をなくした黒田はオツマミを口に入れビールで流し込んで間を繋ぐ。
「……あ、そうだ。明日からなんだけど」
「明日?」
「そう。明日」
黒田と同じ様に無言でオツマミを口に運びビールを飲んでいた舞彩が切り出す。
「鯨井先生からの連絡次第なんだけど、私達だけでも動いてみようと思うの」
黒田は怪訝な顔になって聞き返した。
「動くっちゅーてもな。アテがあるんか?」
「あんまりないかな。でもジッとここに居座ってても情報は入らないでしょ?」
グラスを持ったままソファーにもたれた舞彩に合わせるように、黒田もソファーにもたれて腕組みをする。
「まあな。ネタがネタだけに、勝手に情報が入ってくるわけないし、そんな噂レベルのもんにいちいち振り回されたくもない」
「ふふ、そこは記者も一緒。よほど美味しそうな匂いがしたり、鼻をつまむくらいの悪臭じゃなきゃ見に行ったりしないな」
「なるほど、鼻が効くタイプなんやな」
ハーフパンツから伸びている傷や怪我のない脚を優雅に組んだ舞彩を眺めながら、黒田は舞彩に高田雄馬以上の記者の素養を見た。
「ダーリンはそういうの匂わないの?」
「ああ。俺は閃きと感情と根性で探し当てる方やからな。その分、俺にしか理解できん動きやから周りが付いてきてくれないけどな」
格好をつけたわけではないが、黒田が勘働きを大事にしているのは本当だ。
捜査の手順やセオリーを度外視して独自捜査に走るのも、そうした予感や閃きが何度も正答であったからだ。
「へえ。じゃあ、そんなダーリンなら明日はどこに行くのが正解か分かるんじゃない?」
「いや、そこは俺も高田さん……雄馬君から話があった時からずっと考えとるんやが、パッと核心に踏み込む取っ掛かりが見つからんのや」
「ふーん?」
黒田の苦慮する姿を楽しむように舞彩はビールを飲みつつ、組んだ脚をフラフラと揺らす。
「ただそうやな……。鯨井のオッサンにナノマシンに関わってそうな医者を探させるアイデアを真似るなら、バイクチームを操ってる連中とか、『どぶろくH・B』をばら撒いてる奴らの取っ掛かりはあるかもしれん」
煩悩に傾いていく思考を必死に振り払い、黒田はなるべく舞彩の顔を見るようにして考えを口にしていく。
そんな黒田の内なる戦いを知ってか知らずか、舞彩は組んでいた足を解きソファーの上であぐらをかく。
「それはどんなの?」
「簡単に言えばバイクチームに聞くのが一番早いんやが――」
「それはハードルが高いなぁ。記者や刑事に本当の事を話すはずがないし。というか、皇居にバイクが何十台も集まってるって話も聞いたよ?」
「――だよな」
舞彩には噂程度の情報として耳に入っているようだが、黒田は実際に二つのバイクチームが諭鶴羽山に集まる様子を見ているし、ある種世間からはみ出している集団は警察や雑誌記者を煙たがる傾向も把握している。
「実際、私らも取材の申込みとまではいかないけど、話を聞こうとしただけで追い払われたり逃げられたりしたことがあるから。あん、ごめんなさい」
ソファーにあぐらをかいたままビールを注ごうとした舞彩だったが、手が届かずに黒田が代わりに注いでやった。
一瞬だけ前屈みになった舞彩の胸元に目が行ったのは内緒にしておく。
「あいよ。そうなるよな」
「じゃあ、どうするの?」
すぐさま問い返してきた舞彩を待たせ、黒田は自分のグラスにビールを注いでから答える。
「壁に耳あり障子に目ありってやつさ。一枚隔たりがあるだけで、実は関わりを持ってる人間てのはたくさん居るもんだ」
「ふーん?」
「……ガソリンスタンドにバイク屋、バイクチームに憧れてる子供に、苦情の受け皿にされてしまっている町内会とかな。役所や交番勤務の警官でもいいな」
黒田の思惑を聞いた舞彩は、ビールを飲みながら少し考えを巡らせたようで、間を開けてから応えた。
「とても真相に近付きそうには思えないけど?」
「聞いて回るだけじゃぁな。そこからは鼻を効かせて閃きを待つんや」
「そりゃそうか」
ニヤリと悪戯な笑みを浮かべた黒田に対し、舞彩はあぐらをかいていた脚を床に下ろして黒田にグラスを差し向ける。
「よろしく、ダーリン。頼りにしてるわよ」
「……マーヤこそ」
黒田は躊躇いがちに舞彩の名前を呼び、グラスを打ち合わせた。




