覚醒 ③
鯨井のように骨折したり頭部や内蔵を損傷した疑いのある者は、処置を受けて新館の病室に移されたが、比較的軽傷の関係者は新館の一階ロビーに集められていた。
本館の一階は破壊され、現場検証などで警察が立入禁止にしてしまったし、関係者への聞き取りは新館の一階で診察室を簡易の取調室として使い、誘導や指示をやりやすくしているからだ。
騒動が起こった時刻は、夜間の救急外来から日中の通常受診へ切り替わる時刻だったため、怪我を負ったのはほとんどが病院関係者なのだが、その他は入院患者の一部と出入り業者と外来の受診者とその家族も巻き込まれてい、状況が落ち着けば解散させるのにも手がかからない。
「うっす」
「終わったか? 真は?」
「トイレ行ってくるとさ」
「そうか」
待ち合いロビーの奥の方のベンチで、先に警察の聞き取りを終わらせて座っていた田尻を見つけ、紀夫が隣に腰掛けた。
「なんか情報あったか?」
「何もない。なんの目的でここに来て、どこに居て、なにをしたか聞かれただけだな」
「ま、そんなもんか」
紀夫の答えが予想通りだったので、田尻はつまらなそうに足を組み替えて天を仰ぐ。
「しょせん、俺らは付き添ってきただけだからな」
「アレが何か、聞かれたか?」
「聞かれても知るかよ? 向こうも聞きようがないだろ」
見て分からなかった生物を、聞いた情報をもとにどう聞き出すのか、そもそもの会話に無理がある。
「だよな……。タバコ吸いてぇ……」
「だな。真が戻ってきたらフケるか」
「未成年者の喫煙は違法のはずよ」
聞き覚えのある女の声に、紀夫は素早く体を起こす。
「恭子ちゃん! 警察の話終わったの? それ私服?」
紀夫の反応の速さにおののきながら、田尻は紀夫にはもったいない小柄で可愛らしいスレンダーな女を見る。
上半身に血をかぶったままだった看護服から着替え、ゴシックなスカートに黒白ボーダーのタイツにベルトブーツと私服まで可愛らしい。
「さっき終わって、上司からも着替えていいって言ってもらったから。さっきはノリクンのお陰で怪我を避けられたから、お礼しなくちゃと思って」
顔や首元の血も洗い落とされ、メイクも直された顔で律儀にお辞儀をする赤坂恭子に、紀夫は隣の席に座るように誘う。
「お礼なんかいいってば。たまたま目の前にいたから引っ張っただけだし。それでも膝ぶつけてたろ? 大丈夫か?」
当たり前のように恭子の手を握る紀夫に、またも田尻は唖然となる。
「いつの間にノリクン・恭子ちゃんの仲になった?」
「今はタイツでごまかしてるの。でももっとヒドイ怪我の人もいるから、こんなの怪我って言えないから平気」
田尻の疑問は爽やかにスルーされ、紀夫と恭子のトークは進む。
と、またベンチに近付いてくる人影があった。
「おつかれっす」
「おお、真か。だいぶ顔色良くなったな」
田尻はしっかりと立っている真を見て、素直にそう言った。
智明のバイクを回収して戻って来た時に見た真の様子は、今にも倒れてしまいそうなくらい顔面蒼白で意識も朦朧としていたように思う。
「こんなことになってスンマセン」
「お前がなんかしたわけじゃないだろ。謝ることじゃねーよ」
「でも……」
「それより、コレ行かないか」
申し訳なさそうな顔をする真に、田尻に代わって紀夫が手をチョキにして口元に当てて誘う。
「今、行けるんスカ?」
警察の目を気にして挙動不審に辺りを見回す真。
思わずその尻を叩く田尻。
「キョドんなよ」
「恭子ちゃん、喫煙所ってある?」
「……あるけど」
さすがに未成年者三人を連れて喫煙所に向かうことに抵抗を感じたのか、恭子は辺りを見回してから紀夫の手を放して立ち上がる。
「ちょっと待っててね」
紀夫に可愛らしい笑顔を向けて恭子は歩み出て、取調室代わりに使われている診察室の前に立つ警官に話しかける。
「おい、いいのか?」
「たぶん、平気だよ」
「あの人、口説いたんスカ? すげぇッスネ」
「バカ、そんなんじゃねーよ」
「なぜだ……」
真と田尻の揶揄に、照れたり誇ったりせず紀夫は平然としているのが、田尻には尚更解せない。
「お! 良いみたいだぞ」
「お、おう」
警官との話を終えて手招きする恭子に気付き、紀夫は席を立つ。
田尻も紀夫について立ち上がり真を伴って二人を追いかける。
恭子は紀夫と並んで歩きながら正面玄関から外に出て、病棟を回り込んで関係者用駐車場の奥まで三人を誘導していく。
「私も吸うけど、あんまり長いと捕まっちゃうよ?」
「そうなんだ? ありがと」
「あざっす」
「看護師さん、ありがと。愛してるよ」
「ああ、うん、あ、はい」
田尻としては紀夫っぽく愛想よくしたつもりだが、恭子からは微妙な返事が帰ってきただけで、紀夫と真は呆れた顔でタバコに火を着けている。
「……さっき聞いたら、このまま帰ってもいいんだって。でも後々何かあったら電話連絡するって言ってたよ」
何口か吸ったあと、恭子は話題を変えるために先程の警官との会話を伝えてきた。
「まあ、俺らは容疑者でもなんでもないからなぁ」
「…………」
「てことは、恭子ちゃんも家帰るのか?」
「そのつもりだよ?」
「送って行こうか?」
また始まったよ、と田尻はそっぽを向く。
「え? でも西淡の方だよ」
「ああ俺、津井だもん。通り道だよ。田尻は伊加利だし。真は……どこだっけ?」
「……え? ああ、湊っす」
「近いね。私、西路だよ」
「じゃあ決まりだね」
田尻の呆れ顔も気にせず、紀夫は恭子を送っていくことを決めてしまう。
しかし真が控えめに手を挙げて会話を遮る。
「一つ思うんスけど、アレが智明だったとしたら、どこに行くっスかね?」
「何だよ、急に」
「んなもん、分かるかよ。多分だけど走って逃げちまったんだし」
話の腰を折られた紀夫は冷たく突き放し、田尻も想像の域を外れたことだからぶっきらぼうに答える。
だが後ろから意外な答えが訪れた。
「まずは安心できる自宅に戻る、かもしれない?」
乗用車の後部ドアを閉じながら、女が姿を現した。
「播磨先生。いらしたんですか?」
「ちょっと書類の整理をしててね。聞くとはなしに聞いてたの」
短い茶髪のパーマに、白のサマーセーターと紺のストレッチパンツに白衣という出で立ちの女医は、恭子からタバコを一本ねだり取ると、火を着けて細く煙を吐いて言葉を足す。
「さっきの話、可能性は大きいと思うわ。どうするの?」
母親ほどの年齢の女性に見つめられ、真は少し萎縮する。
「会えるかどうかは分からないけど、会える可能性があるなら、話してみたいと思う」
「そう」
「さすがに話ができるかなぁ」
「さすがにな」
「いえ、話は出来ると思います。あんなのになる前は普通の人だったはずですし」
消極的な田尻と紀夫に対して、恭子は強い信念を持って応じた。
「恭子ちゃん?」
「赤坂さんの言うとおりね。医療関係者は信念や理念を軽んじたらそれまでだものね」
タバコを消してから播磨医師は恭子の手を取った。
残りの者もタバコを消して、成り行きを見守る。
「けれど、危険なのは間違いないし、先に警察が調べているかもしれない。無理や無茶はしてはいけない。分かるわね?」
「もちろんです」
なぜか自宅まで送ってもらうだけのはずの恭子が一番最初に腹をくくってしまったので、仕方なく紀夫も覚悟を決める。
「しゃーねーな! おい、やるぞ」
「んあ? ああ、うん。やるか」
「あざっす!」
紀夫のテンションに押され、田尻も付き合うことに同意し、真は深々と頭を垂れる。
「私はここでやるべきことがあるから、あとで結果を教えてちょうだい。一応共犯者だものね」
歳を感じさせない可愛らしいウインクをしながら灰皿をつつく播磨医師に、少年三人はバツの悪い苦笑いを浮かべるしかなかった。
※
「ご苦労さん。どない?」
中島病院本館の規制線をくぐって声をかけたのは、国生警察仮設署の捜査一課の刑事黒田幸喜巡査長だ。
現在、淡路島の警察・消防は、旧洲本市と旧南あわじ市が合併して淡路新都国生市と成ったことで、大きな改変を迎えており、指揮系統は複雑になっている。
旧東京都が東京府へと住所が置き換わってもその人口は膨大で、企業や政府が移転を進めていても未だ大都市であることに変わりはなく、そのために警察組織も消防組織も簡単に本部と総指揮所を移転できずにいる。
とはいえ、新都と成った国生市に人口は集まり始めており、東京に警視庁を置きつつ国生市に新しい統括本部を持たなければならなくなった。
辛うじて政府の移転前に仮設の本部を国道28号線沿い神代地区に置き、兵庫県警から洲本署と南あわじ署を移管し対応した形だ。
黒田は、元は南あわじ署の捜査一課に所属していたが、昨年の国生警察仮設署の設立とともに異動させられたクチで、仮設から本部にそのまま配属されるかどうかも分からない宙ぶらりんな状況にある。
「ああ、黒田さん。なんじゃ、仮設署も出張ってきたんじょ?」
答えたのは中島病院正面玄関で鑑識班の指揮を執っていた坂口謙三だ。
坂口は南あわじ署配属の鑑識官なので黒田とは親しく、黒田より十歳は上だが敬語のない淡路弁で会話できる唯一の戦友だ。
「仮設やいうても広域やったぁ俺らも顔くらい出さんとな、あかんやろ。ほのまま本部になったりしよったぁ、ほれこそお飾り言われてまわれ」
濃紺のスーツに濃紺のネクタイでオールバックにキメたダンディなマスクも台無しにするほどの淡路弁で黒田は嘆く。
「ははは。ほじゃの」
「ああ、黒田さん。ご苦労さまです。初動はだいたい終わってますよ」
朗らかに笑う坂口の脇から、真面目くさったグレイのスーツの男が黒田に捜査状況を伝えに来た。
彼は南あわじ署で黒田の後輩だった長尾勇。黒田が異動したことで現場を仕切る班長に繰り上がったそうだ。
「おお、ご苦労さん。ほんで、どういう状況なんや?」
「なんとも言い難いですね。マスコミには規制をかけて強盗なんて言ってますが、人間業じゃないですよ」
手帳も開かずに長尾はお手上げのポーズをとった。
「何があったかは分かる。ほやけど、何者がどうやったかは分からん」
どうやら坂口も長尾と同意見のようだ。
「やあやあやあ、黒田君。今頃のお着きですかな?」
「チッ」
わざとらしい言い回しに思わず黒田は舌打ちをしてしまったが、無視はできない。
白手袋を外しながらパトカーの影から現れた黒スーツの男は、洲本署に配属されている黒田の同期で、何かにつけて黒田と張り合おうとする浜田行雄だ。
実際のところはエリートコースに乗りそびれた一刑事に過ぎないが、四十前にしてまだまだ出世は諦めていないようだ。
「これはこれは、洲本署の重鎮が出張っておられるとは恐れ多い。もう手掛かりを見つけなさったので?」
明らかな黒田の嫌味に浜田は顔をしかめたが、ズボンのポケットに両手を突っ込んで腹を突き出し、尊大な態度は崩さない。
「見て分かるように、そんな簡単な事件じゃないぞ。マル疑は逃走中だ。気を抜けんよ」
「まあ、広域やよってん、連携だけはよろしゅうに。一応、仮設署が本部になると思うし」
子供じみた威張り合いに意味はないと思いつつも、黒田は再び浜田に嫌味を送っておく。
「分かってる」
一所轄と仮設ながらも本部という序列に浜田は機嫌を悪くしながら、鼻を鳴らして洲本署の警察車両の方へ去っていった。
「相変わらずですね」
「アイツだきゃあ、死んでもあのままやろ」
「おまはんもやろが」
長尾と坂口にたしなめられて黒田もムッときたが、浜田を追っ払えたので少しだけ気分はいい。
「さて本領や。坂口さん、もう中見て回ってんかぁんのけ?」
「もうええで。後で報告書は回っさかい。気になったぁ南あわじン来てくれたぁええわ」
「サンキュウ。ほな、行こぞ」
坂口に確認をしてから、馴染みの後輩と部下を連れて黒田は中島病院の本館へと入っていく。
「増井、俺と長尾の会話、撮っとけよ。必要なとこはズームな」
「了解です」
自分と長尾に続いて入って来る増井茂巡査に、眼球を通して映した映像をH・Bに記録するよう指示を出しつつ、黒田はひしゃげた玄関ドアを通り過ぎる。
「なんやこれ?」
入ってすぐに黒田は異常な光景に声を上げる。
壁も床も天井もひっかき傷だらけで、細かな血痕があちらこちらに残っている。床に関しては踏み砕かれた足跡とおぼしきくぼみが点々と奥まで続いている。
「そりゃ、規制するわな」
「はい」
返事一つで済ませた後輩を訝しく思って振り向いたが、一つ一つを確かめながら黒田は奥へ進む。
「…………ん? やたら歩幅が広いな? 短距離の世界記録保持者が犯人か?」
「それは坂口さんも不思議がってましたね」
百メートルを十秒以下で駆け抜ける短距離走の世界記録保持者の一歩の間隔は、何歩で駆けるかにもよるが平均で二メートルを超えている。
正面玄関から廊下の突き当りまで三十メートルもない所を、足跡は三メートル以上の間隔で穿たれている。
「ふうむ……。増井、坂口さんがやってくれてるとは思うが、後で歩幅と足跡のサイズ計ったのも撮っといて」
「了解です」
部下の明瞭な返事を聞きながら黒田は奥へ進む。
「この壁のへこみは?」
待ち合いロビーを通り過ぎて少し進むと、左右の壁がビルの解体作業用の鉄球を当てたようにへこんでいるのを見咎めて、黒田は長尾に問うた。
「目撃者の話では、左手側のMRIのモニター室から出てきた生物が、突進して激突したそうです」
「はあ!? 本気で言うとんか?」
「僕も目撃者も真剣ですよ」
目撃者はともかく、長尾の真面目な性格は黒田が一番知っているので、それ以上の追求はしなかったが、人間の体当たりで鉄筋コンクリートの壁がこうも変形してくぼむことはない。
ましてや、足元にひしゃげた金属製のドアが吹き飛んで転がっていることも、人間業ではない。
「こっから出てきたんか?」
「そうです」
MRIのモニター室と説明された室内を覗くと、入ってすぐの右の壁がまた破壊されていて、左側に取り付けられていたであろうドアがひん曲がった状態で、右の壁に立てかけられていた。
「これは?」
「恐らくですが、左側に設置されていたドアがぶち破られた際に、近くにいた男性医師二人共々ドアが壁にめり込んだ跡です」
「んな!」
「おいおい……」
珍しく増井が声を上げるほど、壁に残された被害者の血や肉片が生々しく壁の亀裂にこびりついている。
「他に被害者は?」
「ドアに挟まれて圧死した男性二名の他は、腹部を強打した男性がニ名と、腕を骨折した女性看護師が一名、足を骨折した男性医師が一名、破片などで顔や腕を切った者が五名、打撲などの軽傷が数名です。待ち合いロビーでも軽傷者が十数名出ています」
長尾の報告を聞きながら、黒田は合掌し、視線を隣室へと向ける。
「……こっちは?」
「MRIの検査機器がある部屋です」
この部屋もまた、壁や天井に無数のひっかき傷があり、床もところどころ足跡状にえぐられていた。
「検査台か? ここの壊れ方がヒドイな」
黒田は部屋の中央にある筒状の機器と、その中に滑り込むベッド状の検査台に近付いて観察を始める。
「モニター室に居た目撃者の証言では、MRIの撮影を行った際に、その対象をベルトで拘束していたそうです。そのベルトです」
黒田の見ていたベルトを指して長尾が説明を加えた。
「ここに寝かされていた者が自力で引きちぎったと、いう話なんですがね……」
さすがの長尾も現実味がなくて口籠ったが、黒田にも非現実的なことが理解できたので追求はしなかった。
こういった検査を行う際、薬物や疾病・疾患によって暴れたり体をコントロールできないために静止させることが出来ない患者がいる。そのために拘束せざるを得ないケースがあり得るのだが、人間に害があるほどの拘束力はないにしてもベルトを引き千切るというのは考えられないパワーだと思える。
「……濡れているな」
「は?」
ベルトを観察していた黒田は、長尾を振り返って厳しい目で問いかけた。
「ここには肉片なり血が付いていなかったか?」
「僕が見た時はその状態で……。待ってください。確か……。脳外科の医師が肉片と血液の採取を同僚に頼んでいますね」
「やるな。そいつのとこに行くぞ」
黒田はすぐさま立ち上がり、長尾を押しのけるようにして部屋を出たが、ふと立ち止まる。
「どうしました?」
不思議がる増井に、しばらく黙考してから黒田は尋ね返す。
「検査をやろうとしてたってことは、患者か何かだよな?」
「恐らく……」
「んじゃ、そいつはどこ行った? 入院患者ならカルテがあるはずだし、外来でも問診してるはずだよな? 付き添いは? 保険証は? 事情聴取した目撃者との照らし合わせは?」
矢継ぎ早にまくしたてる黒田に、長尾は警察手帳をめくって黒田の問いに合致するものを探す。
「……検査を受けていたのは、高橋智明、十五歳。住所は松帆志知川。付き添いは同年代の少年三人。……保険証は、無しですね。事情聴取の名簿には…………載ってません」
「充分だ。所轄に志知川の高橋智明の住所を調べさせて、在宅を確認させろ。俺らはベルトの肉片を採取させた医者んとこだ!」
「うっす!」
「了解です!」
意外に早く片付きそうな事案に、黒田の刑事魂に火がついた。