諭鶴羽の森 ③
「おっと、そうだった。失礼」
智明はすぐに貴美の体から手をどけ二歩下がって照れ隠しで紳士ぶって謝ったが、貴美は何度か視線を向けただけで何も言わない。
そんな貴美を眺めながら、智明は心の中で『真の関係者だぞ』と繰り返して、どぎまぎする心を落ち着けにかかる。
「少し開けた所に移る」
「あ、はいはい」
辺りを見回していた貴美が呟き、智明の返事に取り合わず下草を避けるように歩き出す。
そこからは一定の歩調で進んでいく貴美を、智明が二メートル開けて追従する形で山の中を進んだ。
「……む! っと、ダメだな」
七月の、人の分け入っていない山中なので植物の繁茂だけではなく、羽虫の活動も活発だ。
貴美を追っている智明の顔や腕まくりした腕に蚊や蠅がひっきりなしに向かってくるが、貴美の手前駆除するわけにいかず、追い払うに留める。
貴美の方にも羽虫は向かうが、修験道の教義か何かで貴美も羽虫を殺生することなく、やんわりと追いやっている。それを見ては頬に取り付いた蚊を叩けない。
「トモアキ。何をしている?」
「んん? いやちょっと、虫がね」
「障壁を張ればよかろう?」
「そうなんだけどね。細かな制御は練習中なんだよ」
貴美の言う通り空気の層を壁のように厚くして障壁にしてしまうのは簡単なのだが、その範囲は智明を中心に半径二メートル以上の球形に展開する形になる。
これでは展開と同時に貴美を弾き飛ばしてしまうし、範囲内に入り込んでいる昆虫たちは障壁の内側に閉じ込めることにもなる。
「キミさんはどうやってるんだ?」
歩みを止めずに逆質問をしてみる。
見る限り昆虫たちは貴美に群がることはなく、近寄った虫たちも貴美の小さな動作で別の方へ飛び去っているように見えた。
「私はこの環境に慣れているし、虫刺されに耐えたり気に止めないことも修行の一つゆえ、あえて追いはしない。それでも執拗な羽虫には嫌がる気を浴びせて避けてもらっている」
「『気』かぁ……。そういうのも存在するんだね」
「もちろんだ。
もっとも、父様からは『概念や考え方に過ぎない』とも教わった。
生物のみならず、物質や存在や時間の流れや世界や宇宙の法則など、『存在』と等価値で『内包されたエネルギー』の事を『気』と呼ぶのだそう。
言い換えれば、『気』は『生命力』であり『エネルギー』であり『存在』や『価値』や『法則』でもある。
もっと言えば『意志』や『知性』や『体力』といった測りようのない根源的な『力』も『気』を形成したり感知させる要因とも言える、というのは私の考えではあるがな」
貴美は智明のぼんやりとした問いかけに答えつつ、時折身を屈めたり手近な草の葉を摘んだりしながら言葉を紡いでいく。
「先程の虫除けも同じで、相手が羽虫だから手で追い払うという手段もあれば、『近寄るな』という思考をぶつけることも手段として、ある。
そういった『意思』をエネルギーとして当てたものを私は『気を浴びせる・当てる』と表現したのだ」
いつの間にか貴美の手の中には摘まれた野草や山菜が溢れ、智明に自然の恵みを思い知らせるように貴美の手の中の青葉が日差しを跳ね返してくる。
「意志とか体力、か……」
貴美の説いた内容とその手の中の野草や山菜の青さの対比に、智明は抵抗なく納得するとともに小さな疑問も思い浮かぶ。
「じゃあ、俺の『力』も『気』のように感じ取れるってことだ」
「そうではある。けれど、そうでもない」
曖昧な返事をしてまた貴美は木々と雑草の中を歩んでいく。
「どういうこと?」
「……うん。
私の中でも整理しきれていないことなので言葉にしにくいのだが、『気』を言い換えればそれは『存在』や『価値』になるわけで、言ってしまえば『命』ということ。
私は人々の救済を行う上で沢山の人々の『命』というものを目にして感じてきた。
そして『命』にはそれぞれ固有の色や、輝きや、波長というものがあると知る。
それに照らしてみると、トモアキはとても異質だ」
歩みながら智明の問いに答える貴美は、また時折屈み込んで野草を摘む。
食べられる野草や山菜を見極められない智明は、一定の距離で貴美を追う。
「異質?」
予想外の表現に思わず智明はオウム返しにし、それに貴美が足を止めて振り返る。
「そうだ。
『命』はその時々で揺らぎ、瞬き、輝いたり潜んだりする。
それは星の瞬きに似て波打って感知できる。
人の『命』は体調や感情や気分で常に波打っているのだが、その差分はそれほどに違いが出るものではないのだ。
けれど、トモアキは、違う」
まっすぐに智明を見つめていた眼差しを外し、躊躇うように貴美は続ける。
「なんというか、風船に空気を吹き込んでいるように大きく膨らんで縮み、元の大きさに戻っては輝きを増し、また膨らむ。
そうかと思えば消えてしまいそうなほど暗くなって、色合いも変わったりする……」
ハッキリと表現しきれないのか、貴美は尻すぼみに声を小さくしてうつむき加減になっていく。
「つまり、安定していない? まだ定まっていない、ということかな?」
智明なりに貴美の言葉尻から想像できるまとめ方をしてみたが、しかし貴美はゆっくりとかぶりを振る。
「……分からない。良く言えば変容する道程にあるか、悪く言えば谷間に張られた綱渡りなのやもしれぬ」
智明は言葉を返すことができなくなり黙り込む。
貴美の言う『真理』という精神世界へ飛び立つことのできる専門家をして、『命』が波打ち、その行く末は『綱渡りである』と言われてしまえば何も言えなくなっても仕方あるまい。
人生経験を積んだ四十代・五十代であればそれなりの目測で当たり障りないことも言えようが、十五歳の智明にはその余裕や下積みはまだない。
「結局、何者であって何者になるかは成ってみなきゃ分からないってことかな」
どこかの誰かが宣ったような言葉を吐き、智明は肩をすくめてみせる。
ここで『未来』や『大人』などといった言葉を用いなかった自分への呆れではあるのだが、それは貴美には伝わらないだろう。
「……それは私にも言えることだ。人の道は何者かに決定されているわけではなく、始まりから終わりまでをどのように過ごすかが大事なのだ。せっかくの『才能』なのだから、それを役立つ方向で使って欲しい」
命じるでもなく頼むわけでもなく、貴美は無表情に呟きながら振り返って歩き始めた。
智明は一瞬だけ説教を受けた気がしてムッと顔をしかめたが、貴美の立ち場を思い出してすぐに表情を消した。
修験者として教義を基に生きる貴美。
真への好意を抱き、智明や優里への思い込みがあった貴美。
依頼者から頼まれて智明を抑止しようとしている貴美。
それらを重ね合わせれば説教臭い言葉も出てきて当然だろうと思えた。
――悪く言えば敵。良く言えば良心を向けてくれてるってとこかな――
小柄な後ろ姿を追いながら漠然と自分と貴美の複雑な関係性を整理してみたが、あまりしっくり来なかった。
「……トモアキ。もうすぐ日が陰る。食材はこのくらいでよかろう」
少し歩んだ後に、貴美が木々の乱立からぽっかりと開けた場所に出てそう切り出した。
「ホントだね。いつの間にか暗くなってきてるな」
新宮から諭鶴羽山に出向いたのは午後四時頃だったが、頭上から差し込んでいた日差しはいつの間にか木々の幹の隙間から差し込んでいる。
「森の中は平地より早く暗くなる。戻ろう」
貴美はまっすぐに智明を向いて立っているが、傍らの低木のツヤのある木の葉が木漏れ日を浴び、貴美を引き立てるように反射している。
「そうだね。……ね、その木はなんていうんだ? なんか葉っぱが反射してるし、周りの木と雰囲気が違うけど?」
「これか? これは『ユズリハ』だ」
貴美の身長の倍ほどの高さの低木に近寄ってみると、その葉は深い緑で艶があり、細長く伸びた楕円形で中央を走る葉脈で浅い『V』字に折れて開いている。
実や花が付いているかは智明の目では分からなかったが、根本から頭頂まで重なるように繁る様に興味が湧いた。
「へえ、なんか面白いな。何枚か葉をもらっていっていいかな?」
これまで智明の生活圏では目にしたことのない姿と、名前の響きに興味が湧いて貴美にそう尋ねていた。
だが問われた貴美は微妙な表情で答える。
「私の育てている木ではないから……。私ではなく木に断りを言って、この辺りの葉を採るといい」
それでも智明の気持ちを汲んでくれたようで、貴美はやや色のあせた葉を指し示して言った。
「んじゃ、ごめんなさいねっと」
貴美の言う通りに断りを入れ、指された葉を三枚もいでスウェットのポケットに突っ込む。
「もう良いか?」
「ああ。戻ってご飯にしよう」
「あ、ちょっと――」
貴美の確認に応じてから智明は貴美に近寄って抱くようにし、手に入れたばかりの跳躍を繰り返し行って明里新宮へと飛んだ。
拙作「譲り羽 ―ゆずりは―」をお読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m
本話にて、第六章「影響」の締めくくりとなります。
次話より第七章が始まりますので、今後ともお付き合いいただけますと幸いです(^_^)
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先の長いお話なので、連載を続けていくエネルギーが欲しい!(切実)
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