女たち ①
「――すみません。失礼します」
播磨玲美は長引いてしまった雑談をやんわりと切り上げ、鬼頭優里から採取した血液と体細胞と毛髪を凍結保存し終えて自分のオフィスへと急いだ。
五分の往復で済むところを、よもや二十分も雑談に付き合わされるとは思いもよらなかったが、玲美も一応三十代半ばの大人であり病院職員の一人に過ぎない。こうした想定外に出会ったからといって自分本位にならないだけの社会経験はある。
――赤坂さん、もう戻ってきているかしら――
エレベーターに乗り込み階数ボタンを押しながら今更な危惧を思い浮かべる。
オフィスを離れる際、鬼頭優里の状態は安定していたし、玲美がオフィスを離れたタイミングで赤坂恭子が戻ってきても、何のやましさもないはずなのに、気になった。
「あら?」
心を落ち着けてオフィスのドアを開いた玲美は、自分でも驚くほど間抜けな声を出して室内の状況に硬直した。
外食から戻ったであろう恭子が応接セットのソファーに小さく丸まって座り、そのソファーの傍らに恭子を見下げるように女が一人立っていた。
服装や髪型などを見るに恐らく鬼頭優里なのだが、顔付きが先程より大人びて見え、背も高く感じた。
――さっきまでは寝顔だったから?――
起きている時と寝ている時の顔の印象が変わる人は結構いる。鬼頭優里が十代半ばということを考えると、覚醒時の表情の印象や雰囲気が違ってもさほど驚くことではないはずだ。
「鬼頭優里さん、で間違いないかしら?」
「ええ、そうです。お医者さんですか?」
確かめるように聞き返した優里の声に、警戒や不安の色はない。
「ええ、そうよ。中島病院の婦人科を担当している播磨玲美よ」
ドアを閉じながら優里と恭子に近付いた玲美だが、どことなく感じた違和感は歩を進め時間が経つほどに濃くなってくる。
――何かしら。何かがおかしい――
優里の印象が変わったことは初対面という記憶の上書きだろうとしても、何より気にかかるのは、少しでも優里から距離を取るようにソファーで縮こまっている恭子の態度だ。
ソファーの端に腰掛けて壁にへばりつく様に上半身を捻っているし、両手を胸の前に集めて防御しているようにも見える。
顔中から怯えを漂わせ、震えるように揺れて動き回る眼球は、小さな音や周りの動く物に反応してアチコチに向く。
と、あと三歩で優里の真横に立つという場所で玲美の足が止まる。
鼻腔を刺激する独特な匂いに気付いたからだ。
「……血の、匂い?」
鉄サビの様な金属の苦さが鼻の奥を刺し、脂汗の様な生き物臭さがじんわりと胸を悪くさせる。
「ごめんなさい。ベッド汚してしまって……」
無表情だった優里が申し訳なさそうに表情を曇らせながら、彼女の右後ろにある簡易ベッドを目線で示した。
玲美がそちらを向くと、ベッドどころか間仕切りのカーテンや壁まで血しぶきで赤く染まっている。
「……何があったの?」
オフィスが汚れてしまったことに動揺もするが、恭子の怯え方に合点がいく一方でまずは原因や理由を聞かねばと思った。
近付いてみて気付いたことだが、運び込まれた時は青色だった優里のジャージが黒ずんでおり、元の青色は襟元や袖口などところどころにしか残っていない。
「多分なんやけど、一回体が開いたんやと思います。私の知り合いが言ってたのと状況が似てますから」
優里の解説に玲美はなるほどと思う。
玲美も恭子も医療に携わっているのだから、血の匂いや凄惨な状況というものは多少なり経験し目にしてきた。
そうした事柄から恭子が怯えを感じる場面というものが想像できなかったが、優里の知り合いと同じく『体が開いた』という説明で全てが繋がる。
理由がわかって玲美は少しホッとした。
「そういうことね。智明君と同じことが起こったわけね」
「モアを知ってるんですか?」
「そうね。そこまで詳しく知っているわけではないけど、ここは中島病院よ? 私も彼女も、例の事件の被害者で智明君の変容した姿を見たことがあるの。……とりあえず座って話しましょうか」
玲美はあえて優しげな微笑みを作り、一瞬だけ簡易ベッド周辺の汚れを気にしてから優里の方を見て、恭子の向かいの席へ座るように勧めた。
「すいません。……あの、驚かせたみたいで、ごめんなさい。まさか私もあんな姿になるなんて思ってなかったし、人が居るなんて思わなかったから……」
玲美の勧めに従ってソファーに腰掛けた優里は、正面に座る恭子にまず詫びた。
恭子は優里に声をかけられ、ビクリと大きく体を震わせたが、視点が定められないながらも一応答える。
「いえ、大丈夫。……大丈夫、うん……」
「少し落ち着きましょう。コーヒーは飲めるかしら?」
「あ、はい。すみません」
トラウマと呼べるほど重症ではないにしても、やはりそう易々と恭子の怯えを拭えるわけはなく、玲美はソファーに座る二人に声をかけて炊事場へ向かう。
――どうしたものかしらね――
マグカップを用意し電気ケトルで湯を沸かす間、玲美の頭の中には様々な事柄がよぎる。
このあとの鬼頭優里の処遇をいかようにするか。
鬼頭優里から採取したサンプルをどのタイミングで鯨井孝一郎に渡すのか。
赤坂恭子をどうやって落ち着かせるか。
そして血まみれになったオフィスの処理はどうしよう……。
「……鬼頭さん、健康保険証って持っているかしら?」
インスタントコーヒーを湯で溶かし混ぜながら、声をかけてみる。
「いえ、持ってないんです。色々あって親元を離れてるんです」
「そうなのね」
高橋智明の関係者という時点で予想していた答えだったので、玲美に驚きはない。
作り終えたコーヒーをトレイに乗せ、ソファーへと運ぶ間に言葉を足しておく。
「それじゃあ、どうしよっか。一応、病院の規則ではカルテを作らずに診察することは許されていないのよ。もしあなたさえ良ければ、偽名でカルテだけ作らせてもらえると助かるのだけれど……」
「それをしやんかったら播磨先生が困るんですか?」
「……そうね。私も困るし、ここの看護師でもある赤坂さんも少しだけ困るかな」
マグカップを人数分配ってから玲美は恭子の隣に座り、優里の質問に答えた。
優里は改めて恭子の様子を窺い、恭子も名前が出たので顔を上げ、初めて二人の視線が交わった。
「……じゃあ、そうさせてもらいます。治療してもらったんやし、これ以上ご迷惑をかけれませんから」
「助かるわ。ちょっと用紙を持ってくるわね」
席を立った玲美はデスクから受診に必要な基本要項がまとめられた書類を取り出し、ボールペンとともに優里へと手渡した。
「――これでいいですか?」
「……本名と、これはお家の住所? 大丈夫なの?」
玲美が案ずることではないが、優里の正直さに思わず聞いてしまった。
「先生や病院から親に連絡いくんですかね? だったらちょっと気まずいですけど」
「それは大丈夫よ」
「なら、大丈夫です」
柔らかく微笑む優里に頷きかけ、玲美は残りの必要事項を書き加えてまたデスクへと向かう。
「じゃあ、この件はこれで問題ないわね。あとは、この部屋をなんとかしなくちゃいけないわね」
「すいません。私がなんとかしますから」
玲美は冗談めかして言ったつもりだったが、意外なほど真面目な答えが返ってきて慌てる。
「冗談よ。今から掃除をしようなんて、病み上がりの人に言わないわよ」
「いえ、そこまで手のかかることやないですから」
どういうこと?と聞き返そうと振り返った玲美の目に、体を淡く光らせた優里が祈るように胸の前で手を組む姿が映る。
と、簡易ベッドの方から一筋の赤い水流が中空を走り、優里の胸の前に球状にわだかまっていく。音も熱もなく、毛糸を巻き取るように集まってくる赤い筋は、簡易ベッド周辺を染めていた優里の血にほかならないだろう。
事実、カーテンは洗い清められたように白布になり、壁もペンキで塗り直したように元の純白へと戻っていく。
「あ、ああ……」
簡易ベッドを眺めていた玲美の耳に恭子の上ずった声が届き、そちらへ目をやると優里の着ているジャージもみるみるうちに元の青色へと変わっていく。
完全に思考が停止した二人の前で、優里はわだかまった血潮の球を両手で包み、自身の胸の内へ押し込むようにして取り込んだ。
「――ふう。……こんな感じでどないですか」
優里は長い深呼吸を一つしてからニッコリと笑ったが、玲美と恭子は呆然としてしまい、すぐに返事ができなかった。
優里はしばらく玲美か恭子の反応を待ったようだが、口を半開きにして硬直した二人からの返事がなく、少女らしい笑顔を消して怪訝な顔になる。
「……ダメ、でした?」
「ああ、いえ、そんなことないのよ。ありがとう。……どうやったの?」
不安げな顔を向けた優里に、引きつった顔をなんとか笑顔にして合わせて問い返してやると、優里は簡易ベッドに視線を向けて答えた。
「この部屋に飛び散った私の血を回収したんです。点滴とコーヒーで少し元気出たんで、力が使えて良かった。あ! 他の部屋には影響ないですから安心してください」
笑顔で言い放たれた優里の言葉に、玲美の心臓がドキリと跳ねた。
「……そう。スゴイのね」
当たり障りのない返事を返したが、玲美は激しく動揺する。
『この部屋の血を回収した。他の部屋には影響はない』という優里の発言には、玲美にだけ突き刺さる痛みがある。
『点滴で元気が出た』というのも文脈としておかしい。
――意識を失っていたはずなのに。まるで私のしたことを見ていたみたい――
玲美が恭子に指示して栄養剤を点滴注射したことや、意識のない優里から採血し体細胞と毛髪を冷凍保存したことは、簡易ベッドに横たわっていた優里には知覚できない行いだったはずだ。
そうして玲美の頭に採血していた時の一幕がよぎる。
――あの時、起きていたというの?――
ベッドに横たわった優里が無表情のまま玲美を眺めていたのは、錯覚や思い過ごしだと断じたはずなのに、その時の優里の虚ろな瞳が玲美をじんわりと締め上げてくる。
人智を超えた能力を惜しげもなく披露し、その効果も明らかにした優里の発言に、何か予見や企みがあるのだろうかと勘ぐってしまう。
「……それ、超能力、なの?」
「どうなんやろ? よう分からんのです。友達の、モアの真似をしてるような感じですから」
「……そうなんだ」
玲美の動揺をよそに、おずおずと問いかけた恭子に、優里は自然な口調で答えていた。
――考えすぎよね。そんなこと有り得ないわ――
優里の血液を採血した時のように、玲美は優里の先程の言葉も考え過ぎや思い過ごしだと思うことにした。
筋肉や骨や内臓を露出させていたであろう優里の凄絶な姿に怯えている恭子に、優里がこうまで自然体に振る舞うのだから、悪意や企みがあると考えてしまう玲美に悪意があるとも思えたからだ。
「でもこういうの、調べたりできるなら調べて欲しいとか思いますよ」
安堵しかけた玲美の心を狙い打ったように、優里から真っ直ぐな視線と微笑が向けられた。
「そう、ね」
十五歳と聞いていた優里の印象は目覚めてから大きく上書きされ、今、玲美を射抜く目は凛とした大人っぽさをたたえその瞳の奥にどんな意志や考えがあるのか、玲美には見通せない。
《播磨先生とゆっくりお話がしたいです。看護師さんを家に帰して、二人でご飯でもどうですか?》
玲美の視野の中で優里は口を開いていないのに、玲美の脳内に突然優里の声が響いた。
優里が玲美の電話番号を知っているわけはないし、よしんば知っていても優里はH・B化していないはずだ。付け加えるなら着信音も感知していない。
――テレパシー、というやつなのね――
玲美の脳裏にポートアイランドで交わされた鯨井と黒田の会話が思い起こされ、高橋智明同様、優里も伝心が使えることを理解した。
そこまで理解してしまえば、玲美が優里の誘いを拒むことや反故にすることはできないと感じる。
「……そろそろ日も暮れてしまうわ。赤坂さん、この後どうするの? 鬼頭さんには今晩うちに泊まってもらって容態に変化が現れないか診ようと思うのだけれど」
「え? そうなんですか? ……大丈夫、ですか?」
不安な表情で振り向いた恭子の言葉に、玲美は少し困惑する。
恭子が『体が開いた』状態の優里の姿を見てしまったとはいえ、今目の前に居る優里からは敵意や悪意は感じない。それでもなお一度感じ取った恐怖をこうまで引っ張るものかと思う。
確かに玲美に不安がないとは言えない。人間の二面性、特に女の二面性は玲美自身が熟知しているし、人当たりの良い笑顔を浮かべている優里が、突如豹変することもあり得ることではある。
それを恭子に案じられるのもどうかと思ったが、玲美はなるべく笑顔で返事を返してやる。
「この様子だもの。大丈夫よ」
「……そうですか」
「ああ、そうか。男の子たちは帰ってもらってたのよね。彼氏のこともあるでしょうし、もしよかったら送ってあげるわよ?」
旧南あわじ市八木にある中島病院から恭子が一人暮らしをしている旧南あわじ市松帆西路までは、車なら二十数分、バスならば四十分というところ。地下鉄を乗り継いでも三十分ほどかかるだろう。
帰宅の手段がなくて困っているのではないと分かっていたし、恭子とその彼氏の話し合いに立ち会ってやる気持ちもないが、こう切り出せば恭子の判断は決めやすいだろう。
「そうじゃないんですけど。すみません、お願いします」
またここに現れた時のようなしょんぼりした声だったが、玲美の画策した通りに恭子を帰宅させる算段が立った。
「それじゃあ行きましょうか。実は私、すごくお腹が空いてるの」
「あは、私もです」
笑顔で出発を促した玲美に、優里は少女らしい満面の笑みを見せた。




