医者と刑事と ③
「……こんにちは」
突然聞こえた女の声に、黒田と鯨井は室内を振り返る。
黒田たちから見てリビングの反対側、ダイニングの奥のカウンターキッチンに女の姿があった。
肩より少し長い茶髪は少し乱れており、七月にしてはかなり薄着で上は黒のタンクトップに下は緑のショートパンツ姿。手には注ぎたてのミルクが入ったグラスを持っている。
美人と評していい面立ちだが、すっぴんで寝ぼけ眼の顔は誰かに似ている。
「……こんにちは」
「ああ、お邪魔してます。高田君の仕事の関係者で、私は黒田と言います。こっちは鯨井です」
警戒した色が挨拶に表れた鯨井をフォローする形で、黒田は丁寧に挨拶と自己紹介を済ませる。状況的に嫌悪や誤解を生まない選択をしなければならない。
キッチンに立つ女性は小さく頭を下げ、ミルクを一口飲み下してから何かを思い出したように一声上げて黒田らを指差した。
「雄馬のお友達ね! わけ分かんないメール来てたからスルーしちゃってましたよ」
先程の挨拶とは打って変わった明るい声に動揺しつつ、黒田と鯨井はベランダから室内へと入る。
「いやいや。同居人が居るとは聞いてましたが、まさかこんな美人さんとは思いませんでしたよ。あ、私は休職中ですが刑事をしてますんで、誤解の無いように願います」
「私しゃ医者をやっとります」
先程よりも警戒を解いた鯨井が身分を明かし、アルミサッシを閉じてソファーへ歩み寄る。
「刑事さんとお医者さんですか? 雄馬ったらもう少し詳しく連絡くれればいいのに。あ、どうぞ座ってください。何か飲みますか? おもてなしもしてないなんて、帰ってきたら叱っておきますね!」
ソファー付近に立つ黒田たちに向けて手を伸べて着席を促しつつ、口は高田の対応への文句と謝罪が矢継ぎ早に放たれている。
「いや、お構いなく」
「買い出しを済ませてるんでもてなしは結構ですよ。それより雄馬くんの彼女さん? お休みだったようで、こちらこそお邪魔して申し訳ない」
「そんなそんな」
女性は、黒田と鯨井の遠慮をものともせず、グラスに作り置きの保冷ポットのお茶を注いでソファーまで運んできた。
「手前味噌ですみません。雄馬の姉の舞彩と言います」
「ああ、お姉さんでしたか」
「いやホント、お気遣いなく」
センターテーブル脇に屈んだ高田舞彩は、お茶をテーブルに置き軽く頭を下げて名乗った。
なるほど、言われてみれば既視感があるはずで、高田と目元や雰囲気がそっくりだ。
しかしそれ以上に部屋着と思われる軽装から顕になっている肢体に目が行ってしまう。高田雄馬が二十代半ばを過ぎているから、舞彩は三十あたりというところか。
それにしては日焼けのない白い肌とスレンダーな手足は若々しく、黒のタンクトップを持ち上げる膨らみは男の目を引く。
「ええっと、高田さん――雄馬くんが会社に戻っている間だけここに居るようにと言われてるんで、雄馬くんが戻ったらお暇しますから」
「それなら尚更もてなしをしないと……。そんな手前勝手な理由で待たせるなんて、社会人として間違ってますから」
「いや、お姉さん。本当にお気遣いなく頼みます」
「ですが……」
しどろもどろな黒田に対して、弟の不出来をフォローしようとする舞彩の問答は途切れない。
「あのぉ、マアヤさん。失礼だが着替えてきてもらってよろしいかの。オジサン達にはあなたの服装は少々刺激が強い。私しゃ相方がいるし、この人は刑事さんだ。間違いや誤解があっちゃいかん。お願いしていいかな」
黒田の狼狽ぶりを見るに見兼ねてか、少し芝居がかった言い回しで鯨井が舞彩の軽装を指摘し、着替えを促した。
この助け舟に黒田は感謝を感じつつ、少し残念にも思った。
「すまんが、そういう事情です。お願いします」
「……分かりました」
了承の返事をした舞彩だが、納得して席を立ったというよりはしぶしぶといった風だった。
「ふう、助かった。……恩に着るよ」
黒田は緊張を解き、ポロシャツの胸元を扇いでタバコを吸うためにベランダへ出た。
「意外な弱点だな」
「ほっといてくれ」
ソファーから鯨井のからかう声がし、黒田は精一杯の虚勢で言い返した。
「俺は仕事一筋でやってきて遊び慣れてないだっきゃ。タイプやったから動揺しただけで、仕事じゃこうはならんど」
淡路弁で強くまくし立てたが、弱点や好みのタイプを晒した弱みは消えてくれない。
「はっは! よくそれで美保ちゃんや玲美ちゃんにちょっかいかけんで済んだもんだの」
鯨井は楽しそうにからかい続け、黒田はタバコを吸うふりをして黙ったが、内心ではギョッとするほど動揺してしまう。
――なんでここで女の名前が二つ出てくるねん!――
黒田が二度目にポートアイランドを訪れた際、鯨井と一緒に播磨玲美も同席していて、その後に玲美と連れ立って淡路島に戻ったことが伝わっているのは分かる。
しかし野々村美保と黒田に何かあったような口ぶりは理解できない。
「どういう意味や? 俺をなんやと思とんねん」
実際に犯してしまった二人との秘め事を悟られるわけにはいかず、黒田は動揺を隠すように不機嫌に言い放つ。
「ポートアイランドに来る前に美保ちゃんと会ったんだろ? アワジ離れたのならしばらく戻らないほうがいいって話をしたって聞いとるぞ。玲美ちゃんは狙った男はしっかり落とすタイプだしな」
「アホか」
今度は演技ではなく、鯨井がどの立場でそんな台詞を吐いたのかに腹が立って罵倒した。
散々播磨玲美との逢瀬を匂わせたり、野々村美保とのものであろう指輪の跡をひけらかしておいて、そんな言い方をされる覚えは黒田にはない。
「美保ちゃんはアンタの婚約者やろ。播磨先生もアンタと昔色々あったと言うとった。どっちも素敵な女やが、アンタの顔がチラついてそんな気にならんわ」
腹立ち紛れにまくし立ててタバコを消した黒田を見、鯨井は意地悪く笑って答える。
「意外に潔癖なんだな。それよりもオクテなのか? 玲美ちゃんとは似合いやと思ったがの。あの子、いい子だぞ」
謎のお節介を焼かれた上に、急な玲美推しに怒りを通り越して呆れてしまう。
播磨玲美の魅力なぞ数時間で感じ取れたし、一晩じっくり堪能したので分かりきっているが、鯨井が黒田にすすめる意図が分からない。
ベランダから室内に戻りながら問い返す。
「あのな、なんでいきなりアンタから女の世話されるんかが意味不明なんやが?」
「失礼だな。君のためじゃなくて、玲美ちゃんのためなんだぞ」
「はぁ?」
「君が遺伝子科学解析室に来ると分かって、彼女がおめかししだしたらそういうことなんだなって思うだろ。俺は彼女から離婚の相談や、仕事の相談をされたりして、親か兄貴みたいな感情が少しある。彼女もまだ三十半ばなんだから、恋愛や結婚をしてもいいはずだ」
鯨井の言葉で、二度目にポートアイランドに訪れた際の播磨玲美の立ち姿が思い起こされ、黒田は少なからずショックを受けた。
あの時の玲美のメイクやオシャレは鯨井のためのものだと思っていたが、まさかの自分へ向けたものだと知った上に、自分でも意識していなかったが、玲美をお尻の軽い女として見てしまっていたことに気付かされたからだ。
今にして思えば、一宮での別れ際の玲美の涙は、黒田の一方的な別れに本心から泣いたのだと思い至る。
――一番アホなんはやっぱり俺か。刑事は俺の信じる正義を押し通せたけど、恋愛で俺の都合を押し通すんは、やっぱり間違うてるみたいやな――
一人きりならば自身の太ももを殴りつけてやりたい衝動に駆られたが、目の前に鯨井がいる状況でそれは思いとどまった。
だからせめて負け惜しみを浴びせてやる。
「そんな話をベッドでしてるんか思ったら、尚更その話には乗れんな」
「そんなわけないだろ」
さすがに機嫌を損ねた鯨井が眉をひそめたが、黒田は追い打ちを打っておく。鯨井と二度とこんな話をしないためだ。
「アンタと穴兄弟なんぞ、お断りだ。俺は舞彩さんみたいな嫁さんを自力で見つけるから、もうほっといてくれ」
鯨井に指を突きつけて言い切り、黒田はお茶を飲むためにグラスを持ち上げた。
「やあん。急にプロポーズされた」
「ぶほぁっ!?」
少し困ったような舞彩の声がして、黒田は口の中のお茶を吹き出した。
「汚いな、おい。……タオルかティッシュをもらえますかな?」
「ああ、ハイハイ」
咳き込みバッグの中のハンカチを探る黒田をよそに、鯨井に促されて舞彩は再びリビングから離れる。
「大丈夫か? まったく、奥手なんだか大胆なんだか……」
「おま、ゲホッ。……ああ、びっくりした。あ、すんません」
まだ咳き込みながらハンカチで綿パンにかかったお茶を拭いていると、舞彩がタオルを手渡してくれた。
「大丈夫ですか? もしよければ雄馬の服を貸しましょうか?」
「いや、平気です。すぐ乾くでしょうから。それに、多分彼の服は着れませんよ」
黒田はやんわりと舞彩の申し出を断った。黒田の方が高田より身長が高いし、細身の高田に対して黒田は筋肉質でがっしりしている方だ。丈は合ってもウエストがきつくては適わない。
「そうですか。……なんか、お話の邪魔をしてしまったみたいだし、申し訳なくて」
黒田の足元に座り込んでしまっている舞彩は、先程の軽装よりも若干露出を控え、白地のプリントTシャツと紺のハーフパンツ姿。髪の毛もヘアゴムで一つに束ねている。
「いやあ、大した話じゃないですから」
「でもお身内のお話だったんでしょう? ご兄弟がどうのと……」
「いやいやいや。下世話な雑談ですから気にしないで下さい」
顔が赤らむのを自覚しながら、黒田は話題を変えようと慌てふためいて舞彩を制する。鯨井に助けを請おうと視線を向けると、舞彩の天真爛漫さを笑っているのか、慌てふためく黒田の様を楽しんでいるのか、五十オヤジはニヤニヤしていた。
「そうですか。じゃあ、その前にしていたお話を聞かせて下さいよ」
「その前の? 何の事です?」
トーンを変えずに一気に話を切り替えた舞彩に、黒田と鯨井は身を固くする。
「ナノマシンによるトランスヒューマニズム。ホフマン博士とモリシャン博士。そして今、淡路島で起こっている事。……とても興味があります」
柔和な印象だった舞彩の目が細められ、声も幾分低く鋭くなり、黒田の警戒レベルが一気に危険値に達する。
「君は、何モンや?」
自然と取り調べで用いるドスの聞いた声で問い詰める黒田に合わせ、鯨井も身構えるようにソファーに座り直した。
だが舞彩も臆することなく二人を見回し、答える。
「月刊『テイクアウト』の記者をしている高田舞彩と申します。中島病院の鯨井先生と、国生警察捜査一課の黒田さんですよね? 少しだけお時間をいただきたいです」
舞彩は堅い口調で断りを入れ、ハーフパンツのポケットからボイスレコーダーを取り出してセンターテーブルに置いた。
黒田はここに来て高田の真意を悟り、仕事用であろうキリッとした舞彩の顔から、対面に座る鯨井へと視線を移した。
黒田と目が合うなり、鯨井は『致し方なし』と肩をすくめたのでまた視線を舞彩に戻す。
「先程のプロポーズはオフレコにしますけど、一応保存しておきますね」
「……好きにしてくれ」
照れを含んだような舞彩のニコニコ顔を見つめながら、黒田はそう言うのが精一杯だった。




