医者と刑事と ②
「うん? ああ、そうだな……」
現実に引き戻された黒田は、急いで考えをまとめる。
「俺と高田さんが追ってるのは大まかに言えば三つや。
一つ目は、骨や筋肉を金属とか樹脂に変えるナノマシンの非合法なテストが行われていることを暴く。
二つ目は、そのテストに絡んで淡路島の暴走族を操ったり、情報提供や情報撹乱してる奴を暴く。
三つ目は、政府と自衛隊の動向。
どれも企業や警察や政治が絡んどるやろうから、この中で取っつきやすいとこを深堀りする感じやな」
かいつまんだ黒田の説明に、鯨井は「ふーん」と素っ気ない返事を返してきた。
この反応は黒田からしても仕方のないものだと思えたので、強く指摘したりすることはしない。鯨井の求めるものとは何一つ交わらないからだ。
しかし、鯨井は腕を組み、顎髭を触りながら考え込んでいるような仕草をするので、黒田に少しだけ期待感が生まれる。
「なんや? なんかあるんか?」
「ああ。二個目と三個目は専門外だから見当もつかないが、一個目は医療や人体に関わることだからな。どこかで聞いたことがある気がするんだが……。なんだったかな……」
記憶を辿り始めた鯨井を見て、相変わらずの曲者ぶりに頼もしさを感じつつ、やはり共通目的以外では合わないなと再認識する。
「確か、『ナノマシンによる硬骨及び筋肉の再構成で可能となる疾病の回避と老化の補助』やったかな? 高田さんから見せてもらった論文はそんな題やったわ」
「そう! それだ!」
黒田の記憶から引きずり出された論文タイトルを耳にし、鯨井は手を叩いて黒田を指差してきた。なるほどな、と一人納得しながら立ち上がった鯨井はベランダの手すりにもたれ、また顎に手を当てて思案を始める。
黒田も立ち上がり、アルミ製の建具にもたれながら腕を組んでその様を見やる。
向かいのテナントビルに反射する西日が少し眩しい。
「今度こそ何かあるんやな?」
「……その論文、実は結構昔に発表されたものでな。
H・Bの提唱者であるドイツ人科学者、フランツ=ホフマン博士の助手による論文なんだ。
どちらが先に発表されたのかまでは覚えてないが、H・Bが実用のレベルに至ったと公表された折に、類似の手段でナノマシンを活用して人類の寿命を伸ばそうという理論は話題になったものだよ」
鯨井の弁舌に黒田は素直に「ほう」と感嘆した。のんべんだらりと医者をやっていなかったことがこうした知識や解説から伺える。
「俺は知らなかったぞ」
「そりゃそうだ。
話題になったと言っても学会や大学の研究室、あとはサイエンス系の雑誌や一部のカルト教団や団体の間で、だからな。
そもそもこれは電脳化や義体化を含んだトランスヒューマニズムの派生でな。永遠の寿命とか永遠の若さとか、紀元前からあるような不老不死願望の近未来版だと断じられても仕方のない出発点なんだ。
噂によると、ホフマン教授もそうした願望を実現しようとする団体に所属していたとも言われている。
だから助手を務めたヴィヴィアンヌ=モリシャン博士もそうした団体の関係者だと推測され、論文は多分に理想や偏った思想を含んだものと評価されてしまい、H・Bの様に日の目を浴びることはなかったんだ」
ひとしきり話し終えた鯨井は言葉を切り、「電脳も大概のトンデモ理論だがの」と付け足して額の汗を拭う。
「なんか、同じナノマシンを使った話なのにずいぶん違うんやな」
「当たり前だ。
成人した人間の体細胞がどのくらいか知っているか?
三十七兆個だぞ。
それに対して脳は、大脳・小脳・間脳などを含めても一兆に満たない。
ナノマシンを体内に取り込んで、新陳代謝に紛れ込ませて金属や樹脂にすげ変えると考えると、研究や開発にはとんでもない労力と時間が必要になる。
そんなことに金や人や設備を出してくれる企業はなかったのさ」
「だが脳には企業が金を出したわけだ?」
黒田も額と頬の汗を拭う。
「ああ。なんせ通信事業が第六世代で頭打ちの酷評を受けたらしいからな。
第七世代へと時代を進めなければ、業界の市場は停滞する可能性があったんだろう。
なんにせよ、革新的な理論も、突飛な思い付きも、企業が金を出して研究させてくれなければ日の目を見ないのさ」
他人事のように断じて、鯨井は今更のように西に落ちていく夕日を眩しそうに睨んだ。




