医者と刑事と ①
淡路島の南東部にある旧洲本市市街地は、淡路島内では最も人口密度が高く大型の商業施設が複数集まり、遷都以前から比較的都市化された土地だ。
岩屋港・津名港と並んで、洲本港は阪神・和歌山方面の海の玄関口であり、島都と呼ばれたほどの要衝地である。
遷都を目前に控えた現在もその存在感はあせることはなく、リニアモーターカーの駅舎こそ南あわじ市に奪われたものの、島内を環状に巡る鉄道や島南部の東西を貫く地下鉄は洲本市街地を基点に計画されている。
その旧洲本市の中心部にある栄町は、大型商業施設と旧洲本市役所に挟まれた区画で、マンションやテナントビルの合間にチラホラと瓦屋根の日本家屋が残る現在の淡路島の縮図とも言える街並みだ。
その中の真新しいワンフロア一戸タイプのマンションの駐車場に、一台の乗用車が滑り込む。
「さあ、どうぞ」
「へえ、さすが新興の雑誌記者さんやな。新築のファミリータイプに住んどるんやなんて、儲かっとるのぅ」
八階建てマンションの半地下の駐車場からエレベーターで五階まで上がり、玄関前でワンフロア一戸という居住スペースに気付いて黒田が高田をからかった。
「賃貸だし同居人がいますからね。いうほどじゃありませんよ」
高田は玄関ドアを開け放って黒田と鯨井を招き入れ、玄関から素通しのリビングへ誘う。
「なるほど、同居人ね」
玄関ドアをくぐりながら、黒田は女物の靴や下駄箱にのせられた女物のキーケースやバッグを見つけ、同居人の目星を付けた。
玄関から見通せるリビングや廊下の片付き具合や清潔感からも、高田の同居人は恋人か配偶者であろうという想像がつく。
「何かもてなしでもと思うんですけど、不躾ですけどこっちの処理を手伝って欲しいですね」
「おいおい。遠足やお泊り会じゃないんだがの」
センターテーブルに置かれたコンビニ袋を見て鯨井が毒付くが、黒田は苦笑いするしかない。諭鶴羽山山頂での張り込みのためにパンやコーヒーを買い込んだのは高田と黒田だからだ。
「まあまあ。腐らせたり捨てるのも勿体ない。食える分だけ食えばええやろ」
「それでお願いします。経費とはいえ食べ物は粗末にできませんから」
「……なんだかなぁ」
黒田と高田に諭され、鯨井は不満顔ながらビニール袋から缶コーヒーを取った。それに追随して高田も缶コーヒーを一本抜き取り、玄関に向かいながら二人に声をかける。
「じゃ、僕は会社に戻らなきゃなんで、ここでゆっくりしてて下さい。同居人は寝てるか出掛けてるかしてるんで、僕が帰るまでに顔を合わせたらよろしくお願いします」
「ああ、おい! タバコはどうすんねや? というか、彼女に連絡しといてくれよ」
さっさと靴を履いて出ていこうとする高田の背中に、最低限の予防線を要求しておく。刑事が不法侵入の冤罪など喰らうわけにはいかない。
「彼女じゃなくて同居人です。ちゃんとメールは送っときます。タバコは換気扇の下かベランダでお願いします」
玄関ドアを閉じながら言ったものだから、高田の「それじゃ!」という挨拶はドアが閉じてから聞こえた。
黒田は雑誌記者の本分など知る気にもならないが、あんなに急いで職場に戻らなければならない仕事は、窮屈で仕方なかろうと嘆息を漏らした。
超超高速大容量通信に加えH・Bを備えた現代人なのだから、会議や報告など暗号通信で保守された専用回線さえ用意すれば、いちいち会社に戻る手間など不要なはずだ。現に黒田が所属している国生警察は暗号通信による会議を行っている。
「ったく! ……すまんな、センセ。しばらくここでご歓談や」
「構わんよ。高橋智明にこだわって淡路島に戻ってきたが、自衛隊が包囲してて近寄れんのなら、顔を合わせる機会は当分失われたからの。そればかりか、あの記者さんの記事のお陰で明日以降はマスコミも詰めかけるだろう。俺にできることはしばらくないわ」
鯨井はゆっくりと立ち上がり、つまらなそうに缶コーヒーをぶら下げてベランダのアルミサッシを開く。
もうすぐ夕刻だというのに熱気が室内に入り込んできた。
「ほんなら作戦会議パート2と行こうか」
黒田も鯨井に続いてベランダへ出ると、午前中の雨のせいか、まとわりつくような湿気に一瞬顔をしかめた。
デッキチェアーなどのないベランダのため、床にしゃがみこんだ鯨井に合わせて黒田も身を屈める。
「俺は医者だぞ。記者でも刑事でもない」
「だから作戦会議するんやないか」
黒田はタバコと一緒に携帯灰皿を取り出し、鯨井に差し向ける。タバコに火を着けて聞く姿勢になった鯨井を見、黒田もタバコに火を着け紫煙を吐き出して続ける。
「これは全くの偶然やから怒るなよ? 高田はな、というか高田の雑誌社は中島病院の黒い噂を追ってるんや」
真面目な顔で切り出した黒田だったが、鯨井は呆けた顔をしている。
「黒い噂ってなんのことだ?」
「知らないのか?」
「いや、ちょっと小耳に挟むくらいはあったが、俺は関係ないからな」
「そうなのか?」
紫煙を吐きコーヒーを飲む鯨井の姿に動揺や嘘は感じない。
「……そもそも俺は病院側とは交渉とか契約をしてないからな。ただただ師匠に呼ばれて条件を説明されて、『はい、行きます』で転院しただけだ」
「そうなのか」
鯨井の明かした真相も拍子抜けで馬鹿馬鹿しいものだったが、それに対して芸のない聞き返し方をした自分が情けなくなった。
「給料や待遇が他より良かったとかは感じなかったのか?」
「いや、あんなもんだろ。大学の医学部助教授相当の立場と総合病院の専門医職。病院と大学が共同出資した研究室は、師匠に与えられたものを使い放題ってオマケが付いてたのは最高だったけどな。おっと、そもそも俺は金で動くつもりはないから、尚更黒い噂なんか屁とも思わんよ」
鯨井の無頓着ぶりに黒田は呆れてしまう。
知り合った時から誠実さよりも不真面目さや偏屈な印象が勝っていたが、給料や待遇に固執せずに職場を移るなど、なかなかないことだろう。
「ある意味、それができるだけの条件が揃ってたというべきか……」
「まあ、そうだな。前の病院よりは給料上がったからな」
あっけらかんと言い放った鯨井にため息混じりの紫煙を吹きかけ、黒田はやはりこの男とは付き合いにくいと思いつつ話をすすめる。
「……とにかく、そこまで言い切ってもらえるなら、それを条件にこっちの無理を聞いてもらおうって算段なんや」
「なんで俺をダシにするんだ。この件に関してはそっちの方が深く関わってるだろう」
黒田の手にしている携帯灰皿にタバコの灰を落としながら、鯨井はしかめ面を向けてくる。もっともな話だが、黒田の予定から外れたことをするわけにはいかない。
「それはもう高田さんと手を組む時に使っちまってる。それに俺の持ってる情報を全部雑誌に載せるわけにはいかんのや。分かるやろ」
黒田もタバコの灰を落とし、携帯灰皿を床に置いて缶コーヒーを取る。
「ここに来て保身か?」
予想通りの言葉を持ち出した鯨井に、黒田はムッとしながら缶コーヒーを示す。
「保身と捉えられてもしゃぁないけど、守りたいんは俺やなくて警察の威信の方や。
機動隊の惨敗は彼らの力不足ではないし、俺の口から情報漏えいっちゅう事態も避けたい。
それにな? 世間がまだ高橋智明の存在を知らないっちゅうのが肝なんや。
この缶カンはコーヒーの絵が付いとる。中身は恐らくコーヒーだろう。しかしコーヒーにも色々ある。ブラックだったり、微糖だったり、低糖だったり、カフェオレやったりする。そして飲んでみるまで好みの味かどうか分からん。
今日の自衛隊の行動と高田の記事でプルタブに手はかかった。けど、まだ開いてへん。
まだ高橋智明は『少年A』っちゅう未知の飲み物や。
俺とセンセはこの缶の中身を知っとる。コーヒーとは名ばかりの刺激物が入っとる。とんでもない味と匂いや。けど、この味を世間に伝えられるほど分析できてないし、この飲み物がどんなもので、美味いか不味いかも判断できとらん。
そうやろ?」
「……面倒くさい例え話だの。すべて理解してから公にしたいということか」
「そうや。高橋智明の存在や所業が世間に晒された時に、真っ先に口を開くのは俺とあんたであるべきやと思っとる。なんやったらこのフタを開けるんも俺らであるべきやとも思っとる」
言い様にプルタブを起こして缶を開けたので、指に挟んでいたタバコから灰が落ちた。
黒田は綿パンに付いた灰を払い、床に落ちた灰を呼気で吹き飛ばして溝に追いやる。
「君がそんな責任を背負う意味が分からないんだがな」
子供のような雑な後始末をする黒田を横目に見つつ、タバコの灰を携帯灰皿に落として鯨井が疑問を呈した。
その鯨井から携帯灰皿を取り上げ、黒田はタバコを消しながら答える。
「言わなかったか? 俺があの二人を気に入ったからだよ。会って話せば普通の中学生やからな」
「そういえば本人に会ってるんだったな。相方の女の子も超能力を使えるとかも言ってたな。どちらかといえばそっちの方が興味はあるんだがの」
互いに言葉を切って缶コーヒーを傾ける。
黒田は、ゆったりとソファーにもたれて座る少年とその隣でしゃんと背筋を伸ばして美しく腰掛ける少女を思い出していた。
――次は、いつ、どこで、どんな会い方ができるか分からんけどな――
今後の展開が読みにくいが、それでも顔を合わせればまた肩の力を抜いて話せる予感だけはある。
と、鯨井がタバコを消して黒田をまっすぐに見ながら声をかける。
「それで? 俺の個人情報と引き換えに、雑誌記者に何をさせるつもりなんだ?」




