仄暗い部屋の中で ③
「あ! ……すいません」
玲美の問いかけに恭子は必要以上に恐縮して頭を下げた。
これはよほどのことだと感じて玲美は組んでいた足を下ろし、なるべく体を恭子の方へ寄せて小声で聞き直す。
「一人で溜め込んではダメよ? どうしようもないことでも口に出すことで和らぐことだってあるのだからね?」
ある意味で婦人科の診察でも使っている手法だが、足を組んでふんぞり返って質問するより、顔や体を寄せることで親身になっているように見せられる。看護師たちはこのやり方を『商業的』と批判するが、婦人科を受診する女性は身体面でも精神面でも余裕がないため、こうした見え見えの近さは必要なのだ。
ただ玲美に関しては、これを私生活で男に対して活用するので『あざとい』と言われてしまう。
玲美からすれば姦しく男を囃し立てる方があざといのだが、年齢と経験と武器の違いを比べられない相手に対抗してもしょうがない。
「……ありがとうございます。ですが、ちょっと、話しにくいです」
「あら。私の悪口なのかしら」
「そうじゃないです。そこまで悪意や根暗な話じゃないです」
「そうよね。安心したわ」
微笑みを絶やさず冗談めかす玲美に、ようやく恭子は目を合わせてくれる。
「ほんと、つまんない話なんです。ただの恋愛相談になっちゃうから」
「いいじゃない。私なんてそんなチャンスもないのに。……ああ、そんな顔しないで。茶化してるわけじゃないのよ?」
眉をひそめた恭子に弁解しつつ、玲美の心には嫉妬とも羨望ともつかない気持ちがよぎる。恋の悩みで何も手につかなくなるなど、久しく体感していない。
鯨井との関係はすでにそういったステージでもない。
「……分かってます。
本当に、自分でも高校生みたいな悩み方をしているなって思うんですけど、続けるか別れるかの踏ん切りがつかなくて……」
「一応は交際中なのね?」
「…………正確には会ったその日に付き合おうよってなって、そのつもりで何度か会ったりはしたんですけど、途中からなんか噛み合わなくなっちゃったんです」
少し体を丸めるようにして話す恭子は、また顔をうつむかせる。
よくある話ね、と言ってしまうのは簡単なのだが、それでは恭子は納得できないだろうと玲美は黙る。
若い男女が出会い、瞬間的に心が動き、一気に高まった熱で一つに溶け合おうとする。
玲美にも経験のあることだ。
しかしそういった急激な熱は冷めるのも早く、ドロリと流れてうねる粘質の熱が一気に冷え固まって音を立てて割れてしまう。
特に肉欲と愛情が区別できないうちは、そうした温度変化に苦しみ悩むものだ。
「……そうね。私にも経験あるわ。『この人の全てを受け入れよう』なんて思った瞬間に、些細な食い違いが許せなくなってしまったりね」
周囲の評判など気にしない玲美だが、この時ばかりは目の前の恭子の顔色を見ながら探っていく。わずかに自分の背中が針でつつかれているような錯覚は我慢しておく。
「そんな感じです」
「そっかぁ。……セックスは満足できたんでしょう?」
「んな、にゃあん!?」
ダイレクトな質問に恭子は飛び上がるように腰を浮かせ、言葉にならない声を出して両手をバタつかせる。
「若いもの。つきものよね」
「センセ! あの、ちょ、先生! いきなり聞きます、それ? ヤリましたけど、そっち優先とかじゃなくて、いや、やめてくださいね? やめてくださいね? 私のキャラじゃないんでバラさないでくださいね?」
意外に純なところを見せ、腰を浮かせたり落ち着けたりを繰り返しながら、手を胸や顔やソファーやテーブルを触ったりと慌てふためく恭子に、玲美は微笑を作る。
医療関係者は世間一般に比べ命や性に近しいゆえか、性別の垣根は低く性表現が露骨であけすけな傾向がある。私的な会話でも隠語や比喩は用いられず、ダイレクトな表現やありのままの呼称を用いてしまうのだが、職場で常用する単語なのだから仕方ない部分もある。
ただ赤坂恭子はまだ若く玲美のように周囲を切り離せる年齢ではないためか、間違った印象を持たれることは避けたいようだ。
「言わないわよ。それこそ私はそこまで悪意持ってないわよ」
「そ、そうですよね。すみません」
「でもね、性交が原因じゃなければ残った理由って限られてくるじゃない? 噛み合わなくなるって、そういう原因しかないもの」
微笑みを消し、恭子のガードを解かせるように問いかけてみる。
「……真剣だって、言ってはくれるんです。でも、それが行動と合ってないように思っちゃうんです。今日だってそのことで言い合いになって……」
玲美は小首を傾げ、恭子からの連絡を思い返してみる。
「ああ、そうか。今日、優里ちゃんを運び込んでくれた男の子の中に彼氏がいるわけね。ええっと……ノリクンだっけ?」
『今日も言い合いになった』という一言からそこまでの想像は出来た。
午後二時に病院の関係者用駐車場に現れたワゴン車は、近隣のバイクショップの物だったが、恭子以外に四人の少年が同行していた。
ワゴン車を運転していた作業服姿の少年は初対面だったが、他の三人は高橋智明が暴れた直後に駐車場で恭子と一緒にいた少年たちで、同じ日の夕方に湊里の爆発騒ぎの現場でも遭遇している。
「なんか、微妙に恥ずかしいですね……」
「そお? ヤンチャしてそうだけど、友達思いっていいことじゃない」
金髪の少年ノリクンの風貌を思い返しながら、玲美は恭子に話の続きを促す。
「そうなんですけど、でもあれって彼の入ってるバイクチームの繋がりなんですよね。なんていうか、子供っぽいナントカ団みたいなノリがあって、仲間だけの秘密を守るみたいなのがあるんですよ?」
「あはは。まあ、そうね」
恭子の言い様に玲美は小さく笑う。俗に言う『秘密基地仲間』は少年期の男の子には多い関係性で、玲美も恭子のように、ごっこ遊びの延長のような男の子のコミュニティを理解できない集まりに見ていた時期はあった。
しかし結婚して子供を授かり、我が子が友達や仲間と関係性を築いていく姿を見て、感じ方や考え方は少し変わってきた。
男の子には、目標や夢の共有が強い関係性を築く増強剤であり、思い出やドラマの共有が何十年も続く強い結束を生む。
これに対して女子は、共闘や共謀のための派閥を作ったり、共通項でのみ集って協力し合う互助グループを持ちたがる。
こうしたグループからはみ出していた玲美には、和気あいあいとした集まりもそんなふうに見えてしまっていた。
しかし男子の『秘密』と女子の『秘密』とで、扱いの違いや関係性の変化を生んでしまう理由は、こうしたコミュニティの成り立ち方の違いからであろうとも思ってしまう。
だから恭子に問う。
「男同士の秘密がケンカの原因なのね?」
「いや、秘密って別にあっていいんですよ。
私だって彼に言ってないことや、言っちゃいけないことあるし、逆に聞きたくないことだってありますもん。
それで振り回されたら『何なん?』ってなりますけど、そっちのことは『好きにしてよ』なんです。
私だって付き合うなら真剣だし、そうじゃなきゃ抱かれないし、夜勤明けにデートなんかできないですよ。
でもノリクンが私にしてくれることって、男同士の秘密を分ける感じで、そんな共犯増やすみたいな愛情見せられたって、ハア?だし、なんにも楽しくないんです。
私は彼のことを好きだって思うし、付き合うんなら楽しくしたいし、秘密を分け合うより将来の事やこれからの時間をどう過ごすかを考えたいんです」
普段の太陽のように明るい恭子からは考えられないほど切なげな顔に、玲美はやはり羨ましさを覚える。
自分が彼女ほどに男のことで頭を一色にしていたことがあったろうかと考えてしまう。
「……真剣なのね」
「そりゃそうですよ。頭の中がノリクンのことでいっぱいになるくらい好きになったんですもん。なのに、ウキウキしてたいのに、なんか後ろ暗いことばっか言われるから楽しくないんです」
「そういうことね。赤坂さんはその気持ちをノリクンに伝えたのかしら?」
ようやく恭子の本音にたどり着けた気がしたので、玲美は相談を終わらせるように舵を切る。
「……秘密を共有するのが真剣さじゃないっていうのは言いましたけど」
目を泳がせて口ごもる恭子だが、玲美の言わんとすることは察したようで、手元は服のしわを直したり髪の毛を整えたりとせわしない。
「じゃあ、さっきみたいに伝えてみるといいと思うわ。男ってね、主導権とか決定権がいつも自分にあるって思ってて、恋人や女房を従わせて連れ歩いてるような勘違いをしてるものよ。女性の権利や立場が認められて一世紀が経とうとしてるのに、まだまだボス根性を捨てきれていない生き物なの。話がそれちゃうけど、トランスジェンダーで男性として暮らす人にもその傾向はあるし、欧米諸国の紳士にもそういう主義のようなものがあるわ。でもね、そこはもう人間にインプットされた基礎構造だって割り切ってしまって、個人と個人の交渉と契約ですよって訴えないといけないと思うの」
「個人の契約、ですか……」
恭子の恋愛観からかけ離れた言葉だったからか、理解し難い表情で恭子は玲美を見た。
「そうよ。人間の行動パターンや思考回路なんてある程度決まりきっているのに、千差万別の性格や個性があるでしょう? そこに自分の気持ちがあって、ぶつかったりすれ違ったり、好きとか嫌いとかってなるわけ。そういう違いを埋めたり縮めるってなったら、じゃあ、『私はこういう人です。こんなこと考えてます。こういうことがしたいです』って主張しちゃう方が伝わりやすいと思うの。それを相手が了解してくれるなら、契約成立でしょう?」
持論を展開して言い切ってしまうと、玲美はお役御免とばかりにお茶を飲みソファーに背を預けた。
玲美の恋愛遍歴と結婚と離婚から形作られた持論は、恭子にはある種ドライでビジネス的なものに聞こえるかもしれないが、玲美にとっては感情の省かれた最も合理的な愛情表現だ。
迷いや悩みを生まず、自分と相手の欲するものを与え合い、そこから逸脱すれば別れにつながるだけ。感情が削がれているように見えて真剣な恋愛に見られないが、感情だけで盲信して失敗するよりは格段に幸福な時間を過ごせた経験がある。
――言葉選びが良くないのはご愛嬌、とはいかないかしら――
明らかな嫌悪を浮かべる恭子の顔を見て、玲美と恭子との経験の差や年齢の差に自嘲してしまう。
「……通じ合うとか、感じ合うっていうのではだめのんですか?」
絞り出すようにした恭子の問いに、玲美はなるほどと納得した。
「もちろん、それが一番良いと思うわ。けれど、そうではなかったから悩んでるんじゃない? だったら伝わらなかったことを伝えるしかないと思うわ。私に言えて彼に言えないなんてこともないでしょう? だったら言うべきだと私は思う」
玲美の言い様を拒絶しているのか、それともいくらか感じ入る部分があって納得しようとしているのか、恭子は視線を外して黙り込む。
「それに、彼の言い分を聞くためには赤坂さんの言い分を伝えなきゃって思う」
「…………分かりました。とにかく一度ゆっくり話してみます」
ようやく玲美の方へ向き直った恭子は、決して晴れやかとは言えないが笑顔を浮かべてくれた。
「それがいいわね。さて、それじゃぁ私は諸々の仕事を片付けて来るから、二時間ほどここに居てもらえるかしら?」
「あ! はい!」
玲美が足組みを解いて立ち上がり作り笑いを向けると、恭子も真面目な看護師の顔になってソファーから腰を上げた。
「何かあったら連絡をちょうだいね」
「はい、お疲れ様です! ……あ、あの!」
デスクに歩み寄りフォイルを取ってから入り口へと向かった玲美を、恭子が呼び止める。
「なあに?」
「相談に乗っていただいて、ありがとうございました。少し、楽になりました」
「あん、気にしないで。誰にだってある悩みだもの。他人に頼るのも生き方の一つよ」
玲美は、軽く頭を下げる恭子に笑顔を向けてやり、「また後でね」と声をかけてオフィスを出る。
――どんなに羨んでも、私は赤坂さんみたいにはなれないなぁ――
後悔とも失意ともつかない気持ちを呟き、男のことを一日中気にしたことのない半生を思い返す。純粋で情熱的な恋など、これまでなかったようにも思えて少し寂しくなる。
――今更宗旨替えとはいかないものね――
恭子の恋煩いを目の前で見てなお、鯨井にメールを送る自分を笑いつつ、播磨玲美は打ち合わせが行われる会議室へと歩き出した。




