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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第六章 影響
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仄暗い部屋の中で ②

   ※


 旧南あわじ市八木にある中島(ちゅうとう)病院は、本来日曜日の外来受診は受け付けておらず、一部の予約と救急搬送のみとなっている。

 それでも入院患者の回診や院外の一部往診などもあるため、専属医のスケジュールは平日と変わらない忙しさがある。


 中でも婦人科医播磨玲美(はりまれみ)は、担当科目の性質上あちこちの担当医と連携を取らなければならず、診察や処置の他に会議や打ち合わせが多分に組まれている。

 そのスケジュールの合間を縫って規則違反の患者を診るということは、無謀の一言に尽きた。


 それでもこのような事態に関わった玲美の真意は、高橋智明に向けられる医学的な興味などではなく、だからといって鯨井孝一郎(くじらいこういちろう)への未練や恋慕だけではないと信じたい。


「……落ち着いたわね」


 玲美は鬼頭優里の右腕に当てていた聴診器を片付けながら詰めていた息を吐き出し、傍らで点滴を掛けていた赤坂恭子を振り向いた。


「お疲れ様でした」


 ゴシック調の私服の上に白衣を着た恭子が、ゆっくりと深いお辞儀をした。


「やめてちょうだい。電話の感じだとオペも必要なのかもってくらい陰気だったから心配したけれど、大したことがなくてホッとしてるのよ。赤坂さんにそんなにかしこまられちゃ私が困っちゃうわ」


 恭子に微笑みかけながら器具を片付けていく玲美を、恭子も手伝い始めるがやはり表情は冴えない。


「でも、ご迷惑をかけているのは事実ですから」

「それは言わないで。この子の意識が戻ったら解決出来ることだって説明したじゃない。心配事をどんどん悪く考えてしまうのは、あなたの良くないところよ」


 業務は真面目にこなし、患者に対してポジティブに接する恭子だが、こと自身の不安や心配事にはとめどなくネガティブになる傾向がある。


「すいません」


 やはりトーンの低いままの恭子にもう一度微笑みかけ、玲美は片付け終わった器具をオフィスのデスクに置く。


 玲美からすれば、規則違反は失職しかねない愚かな行為という認識はあっても、規則違反だからとすげなく拒むことも愚かだと考えてもいる。そもそも医療機関が診察を行う際、保険証の提示がなければ受診者の自著による連絡先で身元を立てるしかない。

 そうであるならばこの少女に関しても、窓口を通さずに診察を行った便宜の持っていきようはあるのだ。


 正しいことではないが、偽名や実在する住所と連絡先さえあれば、トラブルや疑いに対して玲美も被害者だと言い張ることができる。

 そこに恭子の名前が出ないようにすることは不可能でも、罪というものは小さくしてやることもできるはずだ。


「こっちへいらっしゃい。一息つきましょう」


 仮眠用のベッドに立ち尽くす恭子を応接セットへと誘い、玲美はお茶の用意をしに入り口脇の炊事場へ向かう。


「このあと夜勤なんでしょう? 少しの時間でも気を緩めないともたないわよ」


 用意したグラスに氷を入れペットボトルからお茶を注ぐ玲美に、少し間を開けてから恭子の返事が届く。


「……いえ、今夜はお休みにしていただきました」

「大丈夫なの? あの子のことよりあなたの仕事も大事でしょう?」


 それほどに規則違反を気にしているのかと心配になりながら、玲美がグラスを運んでいくと、恭子はまだベッドのそばにいた。


「遠慮せずにお座りなさいな。点滴が終わるまで何も起こりはしないわ」

「はい。……ちょっと色々あって、今のメンタルでは仕事に集中できないと思って。……失礼します」


 グラスをテーブルに置きさっさとソファーに腰掛けた玲美を見て、ようやく恭子もベッドから離れてソファーに腰掛けた。


「そう。あなたも大変なのね」

「それに、彼女のそばに誰か居ないといけないなと思いますし」


 恭子の言い訳がましい言葉が気になったが、意識のない患者をこのまま玲美のオフィスに放置できないのは間違いない。

 玲美は「助かるわ」と応じつつ、恭子にお茶を勧めて続ける。


「ただ、バイタルは正常値なのに驚くほど衰弱しているのが不思議だけれどね。勉強や運動で疲労しているにしても考えられないことよ。彼女がどうしてああなったのかは知っているの?」


 うつむき加減の恭子に聞くことではないと思いつつ、目の前の問題から処理をしていく。


「いただきます。……そのあたり、実はあまりちゃんと経緯は聞けてないんです。目立った怪我もなかったし、バイタルも正常値でしたから。私もそれで戸惑っている部分はあります」


 グラスを取ってお茶を含んだ恭子は少しだけ顔を上げて話してくれた。


「なるほどね。とりあえずは点滴が終わってからの血液検査次第というところかしら。さすがに脳卒中や脳神経の障害までは考えないけれど」

「まさか」

「今のところ可能性はないけれど、数時間は目が離せないわね」

「……そうですね」


 恭子の呟くように小さな声を聞いて、玲美はふと別の可能性に思い至る。


「赤坂さん? もしかしてだけど彼女、鬼頭さんだっけ?」

「鬼頭優里です」

「ああ、優里ちゃんね。彼女、H・B(ハーヴェー)化してるの?」


 この一事の如何で玲美の取るべき行動は大きく変わってくる。


 医学的検知や症例のみならず、一般常識としてナノマシンによる脳の機械化は、未成年の発育に対して害があり異常を生じやすいとされ法律でも規制されている。そのために医療従事者が未成年者のH・B化を知った際は保健機関と警察への通報が義務付けられている。

 それは看護師である恭子も承知しているはずだ。

 またそれに伴い、H・B化による異常が認められれば、その経過や状況をレポートする義務も負うことになる。仮眠用の簡易ベッドに寄せ集めの診察器具ではなく、専門的な医療機器が必要にもなる。


「それは大丈夫です! そんなの規則違反どころじゃないじゃないですか!」

「そう。そりゃあそうよね」


 声を荒げた恭子にも驚いたが、それほど強い疑念で聞いたわけではない質問に対して、いつになく激しい恭子の反応にも驚いた。普段ならもう少し冗談めかした否定をするはずだ。

 玲美はお茶を飲んで間を置き、チラリと部屋の外の様子を伺ってから声をひそめる。


「……赤坂さん? なにか悩み事か心配事でもあるの? 規則違反どうこうで滅入っているというよりは、少し様子が変よ?」

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