仄暗い部屋の中で ①
「……少し、落ち着いた?」
明里新宮三階のリビングダイニングは、北西と北東に明り取りの小窓があるだけなのでやや暗い。
七月の午後は日が長いとはいえ、夕刻前には北向きの窓からはあまり日が入らない。
「……うん」
『l』字に組まれたソファーにもたれるようにして抱き合っていた智明の腕の中で、藤島貴美は小さく答える。
「良かった」
ようやく泣き止んだ貴美に安堵し、貴美にソファーに座り直すように促すため、智明は先に立ち上がってソファーへと腰掛ける。
貴美も智明の意図を察して立ち上がり、智明のすぐ隣に腰掛け寄り添う。
「あ、ちょ、ええ?」
「なにか、おかしいか?」
「いや、まあ、うん。大丈夫だよ」
あどけない表情で見上げてくる貴美に動揺したが、ことさらに突き放す必要はないのでそのままにしておく。
さっきまで真への好意と、真から優里への好意や貴美への好意のアンバランスさに泣いていたとは思えず、そちらへの戸惑いも生まれる。
「実を言うとさ。リリーとままごとみたいな恋人ごっこみたいに暮らしてるけど、俺もリリーも初恋なんだよね」
「そうなのか?」
「うん、そう。だから、俺が女の子慣れしてないって意味なんだけどね」
それでも寄り添った体を離さない貴美を見て、智明は自制せねばと思う。
――この人が本当に純白なんだから、あとはこっちの問題だよな――
智明にはまだ真ほどのチャラさは持てそうにない。
「……私は、マコトに会って、初めて恋というものを知った。他者と肌を合わせるということが、これほどに人々の心を震わせるものかと驚いたけれど、血を繋ぐ、命を繋ぐという営みは、抱き合った目の前の存在へ全て差し出すことであって、全てを与えられることでもあると知った。その出来事は私にとって大きなことであったと思う」
どこかしっとりと艶のある声音でささやく貴美に、智明は「ああ」と返した。
優里を誘ってこの地へと降り立った時、本宮玄関ホールの大柱の前での、優里との会話が思い起こされた。
――イザナギとイザナミやね――
照れたような恥ずかしがるような笑顔で二柱神のの御名を口にした優里。その優里と国産み神話の真似事をしたのはまだ十日ほど前のことだが、何度も交わりを持っている裏で組織を作り束ねなければならなくなって新鮮さを忘れてしまっていた。
今の貴美の純白さは、その時の優里と重なる部分があるように思う。
「そうだな。俺も優里と一つになった時はそんな感覚だったかもしれない」
「……やだ」
「んえ?」
寄り添っていた体を離した貴美の勢いに驚き、智明の思考が現実に引き戻される。
「ど、どうかした?」
「わ、私はマコトが好き、なのだ。だからといってみだりに求めあったことを口にしてしまったのが、恥ずかしい。今のは聞かなかったことにして欲しい……」
そこまで言われてようやく智明も気付く。
貴美の語った『血の繋がり命の繋がり』が男女の交わりを指していた、と。
「おお、おお。うん。それはお互い様じゃん。だって昨夜は貴美さんが俺らのことを見てたんだし――」
言ってしまってから智明も慌ててしまう。
さんざん貴美のことを『純白』だと尊びながら、貴美の女性的な部分を思い出してしまったから。
雨に濡れた白衣から透けた体は、女の子ではなく女性だった。
「あれは、事故なのだ」
「そ、そうだよね。ゴメン」
優里とともに上昇した満天の星空の中で、その世界のことを貴美は『真理』と説明していた。そこから戻った智明も『意識の混信』と捉え、複数人の意識や精神が同じ空間や世界へ集まってしまったのは正しく『事故』なのだろうと納得する。
「……ユリ殿を怒らせるつもりは、なかったのだ」
「うん?」
背筋を伸ばして座っていた貴美の頭が、うなだれるように下を向いたので智明も体を起こした。
「どういうこと?」
「……うん。
先程、トモアキ殿が言われたように、私はユリ殿にマコトから連れ戻すように頼まれたことを伝え申した。
だが、すげなく断られてしまった。
その時に私の中にどす黒いものが沸き立った気がした。マコトのことも、私のことも拒まれた気がして、怒りとも憎しみとも知れぬものが溢れたように思う。
マコトがユリ殿のことをどのように思っているか、ユリ殿は分かっているであろうに、『今更だ』と拒まれてはマコトが可哀そうに思えて……。
気が付いた時にはユリ殿に気弾をぶつけてしまっていたのだ」
後悔の念があるからか、罪悪の気持ちに苛まれているからか、上体をぐらつかせる貴美の背中を手で支えてやる。
「……そんなやり取りがあったから、リリーが攻撃を浴びせたって感じか」
「私が悪いのだ。ユリ殿の気持ちにまで気が回らなんだ。私が怪我をしたのは、私のせい……」
優里と貴美。どちらの気持ちも想像できてしまった智明からすれば、今の貴美の状態がいたたまれない。
どちらにも咎はあるが、どちらかが悪いという話ではない。単純な気持ちのすれ違いがあっただけで、どちらも悪くない。
「そんなことはないよ。貴美さんに怪我をさせたのはリリーなんだから、貴美さんのせいってことはない。
ただ、こんな言い方は良くないかもしれないけど、真とリリーの間で好きとか嫌いってやり取りがあったみたいなんだよね。
その結果を踏まえずに真が連れ戻すだ何だの頼み事をしてることがおかしいんだよ」
「それは、トモアキ殿とユリ殿のやり取りをマコトが知らないから……」
智明にもたれかかるようにして顔を上げた貴美の目には、また涙が溜まっている。
「そうだね。リリーが、真と貴美さんのやり取りを知らないのと一緒だよ」
「そうか。……そういうことなのか」
智明の腕にもたれるようにしていた貴美の頭が、智明の胸へ滑るように落ちたので、抱き止めるように受ける。
「私は、私がマコトのことを好きだということを隠したまま、ユリ殿に失礼なことを言ってしまっていたな……」
智明の足に手を延べて体を支える貴美だが、甘えるように智明に体重を預けたので、智明は背もたれへとゆっくり倒れてやる。
「それ、リリーは気付いたんじゃないかな。だから余計に意固地になって反発したのかも」
「まさか?」
よほど意外だったのか、貴美が智明の胸の上で態勢を変えて顔を向けてきた。
「うん。貴美さんは気を失ってたから覚えてないだろうけど、自衛隊が新宮の敷地に入り込もうかって時に、リリーが怪我した人の治癒をやったんだよ。その時、何百って人を一度に治癒したはずなのに、なんでか貴美さんだけは治癒されてなかったんだ」
貴美の体が滑り落ちないように両手で支えつつ、智明は続ける。
「俺が先に貴美さんに治癒を始めちゃったからかなって思ってたけど、どうやらちゃんと理由があったみたいだ」
智明の予想を聞き、その先を聞くべきか悩んだようで貴美の視線は少し揺れてそむけられた。
が、そっぽを向きながら貴美の口は開かれた。
「ど、どんな理由?」
「多分だけど、貴美さんが真のことを好きだって分かってヤキモチ妬いたのかなって」
「…………」
「でもそれは貴美さんも同じで、リリーにヤキモチ妬いてキツく当たってるんだなって。だからこんな感じになっちゃった気がするよ」
「…………そうか」
貴美は一言だけ呟いたが、それなりのショックを受けたのか智明の胸に顔を伏せてしまった。
「……貴美さん?」
智明の体の上に重なり動かなくなった貴美を案じて声をかけたが、貴美は小さく震えただけで返事をしない。
「大丈夫。大丈夫だよ。人間なんてみんな言葉足らずな生き物なんだから」
貴美の体を支えていた左手で貴美の背中を抱き、右手で貴美の髪の毛を撫でながら智明は言わずもがなの慰めを口にした。
「……私は、未熟だ……」
ハッキリと聞こえたのはそれだけで、貴美は小刻みに震え始め小さな嗚咽は明らかな泣き声になって智明の胸に伝わった。
「大丈夫。大丈夫」
優里の時と同様、貴美が泣き止むまで智明は待つことしか出来なかった。




