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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第六章 影響
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立場と責務 ②

   ※


『ちょっとお願いしたいことがあります』


 旧南あわじ市八木にある中島病院の職員食堂で、昼食を摂ろうとしていた播磨玲美は一件のメールに困惑した。

 メールの送信者は赤坂恭子。

 同じ病院に勤務している婦人科医師と正看護師であるから面識もあるし、恭子が婦人科担当だった時期もあり、院内で顔を合わせれば挨拶や世間話くらいはする。

 また互いに件の病院襲撃事件の被害者でもある。

 ただ玲美を困惑させたのはメールの文面で、恭子が用件も書かずに寄こしたという一点が引っかかった。


 手早く昼食を済ませて、玲美は書類整理などのためにあてがわれている専属医用のオフィスへ移る。

 ドアに鍵をかけ、白衣を脱いでコートハンガーに掛けてデスクへと着く。


〈……ああ、赤坂さん? 何かあったの?〉

〈お忙しいところ申し訳ありません。メールではお願いできないことがありまして……〉


 脳内から掛けた電話に、恭子がすぐに出たところをみると、どうやら彼女は公休日のようだ。

 どこか声のトーンが低く困惑気味に聞こえる。


〈私にできることなら応えなくはないけれど。どんなお願いかしら〉

〈ありがとうございます。……実は、その、知り合いが倒れてしまいまして……。播磨先生に診察をと思ったんですが……〉


 いつもハキハキとした恭子が言い淀むのを聞き、玲美は察するものがあった。


〈通常の診察や救急ではないということ?〉

〈……やっぱりダメ、ですよね?〉


 玲美の確認に恭子は小さな声で聞き返してきた。


 通常、個人で開業した医院ではこうした飛び込みの診察を受ける場合はあるが、それでも落ち着いてから保険の処理や治療を施した記録を残さねばならない。

 玲美の勤務する中島病院のような組織や規則の整った病院では、時間外の診察や施術は救急で対処する形を取る。

 それ以外の診察は記録やカルテが残らないため、事件やトラブルを生むばかりか、病院全体としての信用を失いかねない。

 それを正看護師と専属医がやり取りすること自体、規則違反であると知っているから玲美も恭子も微妙な言葉選びになってしまっている。


〈理由によるんじゃない? 赤坂さんはアウトだと思っていても、私から見ればセーフだってこともある。もちろん、この電話の時点でアウトな理由なら、他の手段を考えるくらいはするけれどね〉


 正直、玲美が恭子に対してここまで肩を持ってやる必要はないし、そこまでの関係性もない。

 院内の玲美の評価や評判、嫌われ具合や陰口は玲美自身が一番よく分かっている。

 だからこうした話が持ち込まれることはないし、持ち込んで来たのが他の人物ならば、玲美を陥れるトラップだと感じて断っていただろう。

 だが赤坂恭子は正直で裏表がなく、感情がそのまま言葉に出る人物だ。

 玲美を触れづらい人物として遠ざけつつ、患者の回復のために指示を受けるべき医師としての尊敬があるのだ。

 現に、規則違反を承知しつつも例外の診察を頼んではいるが、拒否される前提ながら頼らずにおれない理由が声と言葉に滲んでいる。

 それを無下に扱えないくらいには玲美にも人情はある。


〈すいません。……友達なんです〉

〈赤坂さんの?〉

〈………………高橋君の、です〉


 数秒の沈黙のあとに届いた言葉は、玲美を無言にさせた。

 玲美と恭子の間で共通して認識している『高橋』という人物は一人しかいない。

 中島病院襲撃事件の容疑者である十五歳の少年、高橋智明。

 数日前に同僚の鯨井孝一郎医師からは、高橋少年は諭鶴羽山に建設された新皇居を占拠し、近々自衛隊がその奪還に向かうと聞かされた。その確度は国生(こくしょう)警察仮設署の刑事である黒田幸喜によって裏打ちされてもいる。

 その高橋智明の友達が人目を忍んで治療を求めているという状況は、玲美が取るべき判断を色々と迷わせる。


〈それは、なぜ? ……いえ、正規の診察ではいけないのね? ……違うわね。赤坂さんはその人の状態を見たのかしら? 危険な状態なの?〉


 玲美の迷いがそのまま言葉選びに表れ、自然と確認の言葉が多くなる。

 もしかすると断る理由か、引き受ける理由付けのために言葉が多くなったのかもしれない。


〈私も知人から取り次いでもらえないかと頼まれたことなので、なんとも……。ただ、カルテが残ったり警察沙汰は避けたいと念押しされたものですから……〉


 恭子が患者の容態を直接診ていないという一点は仕方がないことだと理解したが、記録に残ることや警察が関わることを避けている点に関しては、玲美は返答に困ってしまう。

 高橋智明の状況を考えれば、その友人の治療を行うことは後々トラブルを招きかねないとは思う。

 しかしここまで恭子が切迫しているならば、手を貸してやりたい気持ちもある。

 と、玲美は『()()()()()()()』という単語に引っかかりを覚える。


 ――確か、黒田さんが二度目に柏木先生の所に来た時に、何か言ってらしたわね……。そう、確か『優里ちゃんも超能力が使える』とかなんとか……――


 国立遺伝子科学解析室の地下深くにある柏木珠江の研究室で、鯨井が高橋智明のMRI画像を解説している際に、高橋智明の連れていた少女も彼と同じ能力を有しているという話題が出ていた。


 ――もしその『優里ちゃん』が、赤坂さんのいう『高橋君の友人』だったなら……――


 点と点を繋いでみて、玲美の心臓が跳ねた。


〈……赤坂さん。もしかしてだけど、その患者さんは女の子なのかしら?〉


 段々と早くなる鼓動の音を飲み込むようにしながら、玲美は恭子に問うた。


〈え? あ、はい。十代の女の子ですよ。えっと、十五歳のはずです〉


 やはり、と想像が現実になり、玲美は興奮とも動揺とも言えぬ感情を抱き、口の渇きを覚えて生唾を飲む。


〈……分かったわ。その子、職員用の駐車場から私のオフィスへ来てもらって、ここで診察しましょう〉

〈……大丈夫、なんですか?〉


 脳内の通話ながら恭子の声はうわずって聞こえた。

『大丈夫』という一言に、病院の規則・玲美の立場・恭子の行く末……様々な不安や心配が含まれているように思う。


〈そうね。規則違反を突きつけられれば言い逃れはできないわね。けれど、私の責任でこの話を引き受けるなら、赤坂さんに咎が向かないようにはするつもりよ〉

〈そんな。……それは、良くないですよ〉

〈……あなたならそう言うと思った。でもね、それでいいのよ。あなたのことだから断れない理由があるはずだもの。そうでしょう?〉


 自分のズルさに嫌悪しながら玲美は恭子の弱点を刺激する。

 赤坂恭子という人間は、ユーモラスで人を笑顔にさせる太陽のような一面がある。その反面、助けを請われれば強く断れず、真面目で人が良いから正論と規則違反の狭間で気持ちが揺れてしまうのだ。

 玲美はそんな恭子の『人の良さ』を刺激することで、規則違反よりも人助けを優先するように仕向けた。

 玲美がどのように弁明し責任を取ろうとも、恭子の行いは明るみに出るだろうし、玲美だけが処分を受けても恭子の心には何かしらのしこりは残る。

 そこまでの後腐れがないようにしてやりたくとも、それは玲美の裁量の埒外で、恭子が心の中で割り切れるかどうかなのだからどうしてやることもできない。


 ――我ながら悪女ね。また嫌われてしまう――


 恭子の説得や慰めを口にしながら、玲美は自分の性分をまた嫌いになった。


〈――分かりました。午後二時に職員駐車場でお待ちしています〉


 玲美の口八丁手八丁にようやく恭子が納得したのだが、玲美はおや?となる。


〈あなたも同席するつもり?〉

〈もちろんです。私一人がぬくぬくとしているわけにいきませんから。ほら、言うじゃないですか。得するなら更に買えって〉


 急に明るい声を出した恭子に玲美は〈どういうこと?〉と尋ね返す。


〈や、やだなぁ。『毒食わば皿まで』のシャレですよ。聞き返されたら恥ずかしいじゃないですか!〉


 いつもの恭子らしい明るい声を聞いて少しだけ玲美の気持ちも落ち着いた。


〈あなたの覚悟は分かったわ。それじゃあ時間通りに、ね?〉

〈はい! よろしくお願いします!〉


 晴れ晴れとした恭子の声は通話の終了とともに玲美の脳内から消え去り、ほうっと一息ついてから玲美は自分にあてがわれているオフィスを見回す。


「さて、お昼休憩は一時半まで。その後には十分ほどのミーティング。赤坂さんとの待ち合わせは二時。午後の診察は三時から。なかなかタイトね」


 通常通りの予定を並べるだけでも玲美のスケジュールに余白はない。


「……赤坂さんに危ない橋を渡らせるのだから、ミスはできないわ」


 玲美は声に出すことで腹を決め、デスクから予備の聴診器やペンライトや血圧計を取り出す。

 当座必要な道具を確かめたあと、オフィスにしつらえられている仮眠用のベッドを確認し、不足している物品をメモに取る。


――今更こんなことをしてもアノ人は褒めてくれやしないのにね。……バカみたい――


 白髪頭に髭面の五十男の顔を思い起こしながら、玲美は自嘲しつつ、婦人科の看護師に連絡を取るために内線の受話器をとった。


「……ああ、休憩中にごめんなさいね。ちょっと具合が悪くて調べたいことがあるの。今から言う機材をオフィスまで運んでもらえないかしら?」


 受話器の向こうで平坦な看護師の声がし、玲美はもう後戻りできないことを強く意識した。

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