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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第一章 三つの仔
16/485

変転 ④

   ※


「…………ん、うん?」

 鯨井孝一郎(くじらいこういちろう)の寝覚めは最悪だった。

 野々村美保(ののむらみほ)の自宅で急展開の告白を受け入れ、久々のセックスに気持ちよくなったのは良かったのだが、美保は娘ほどの年齢差がある二十代の女性だ。当たり前のように二回戦三回戦を求められ、運動不足の体にムチ打ってどうにか美保を満足させて眠りに落ちた。

 そこから一時間もしないうちに頭に着信が鳴り続け、無理矢理に起こされたのだ。

「……人使いが荒いのぅ」

 グチを言いながらもノソリと体を起こし、数回頭をかく。

〈おはよーさん。こんな夜中になんでしょね?〉

 回らない頭ながらいつものように軽い感じで電話に応じた。が、電話の向こう側はたくさんの人の声が入り乱れてかなり混乱しているようだ。

〈鯨井さん! とにかくすぐ来てください! 異常なんです!〉

 誰が電話してきてるのか分からないくらい、電話口の女性は慌てているようだ。

〈ちょっと落ち着いてくれ。急患か? 機材の異常なのかえ?〉

〈来てもらえば分かります! 早く来て!〉

 ヒステリックに怒鳴って電話は切られてしまった。

 医療関係者の電話としては有り得ない内容だった。

 鯨井は中島(ちゅうとう)病院の脳外科・脳神経外科の専属医ではあるが、国生(こくしょう)大学医学部の助教授も兼ねている。緊急の呼び出しの際は、どちらのどんな要件でどのくらい緊急かを示すのが通例となっている。

 中でも救急で運び込まれる急患なら、事故なのか急に倒れた結果脳神経の精密検査を必要とするのかなどの状況説明は必須だ。また、施設や機材が異常を示した際には、何がどう異常であってどのくらいの範囲に影響が出ているかの状況説明が付加されるものだ。

 鯨井が『緊急』『異常』という単語から『急患か?』『機材のトラブルか?』と問い返したのはこういったセオリーがあるからだ。


 ともあれ、鯨井はベッドから抜け出し、服を着始める。

「……急患、ですか?」

「ごめん、起こしちゃったか? なんか意味不明な電話で呼び出しだよ。さっき寝たばっかりなのにヒドイ話だよ」

「ごめんなさい。欲張っちゃったから……」

 起き上がった反動で小さく揺れた乳房を隠すこともなく、美保は若さゆえの本能を恥じた。

「なに、オジサンの体力が負けてただけさ。いつでも満足させられるように少し鍛えとかないとなぁ」

 自嘲した笑みを浮かべながら美保に顔を近づけ、鯨井は短いキスをした。

「……結婚したら、子供は三人は欲しいんです」

「はは。分かった、頑張るよ」

 ずいぶん先を見てるなと思いながら、鯨井は立ち上がって玄関へ向かう。

 美保もベッドから下りて床からブラウスを拾って袖を通し、ボタンを留めながら鯨井を追う。

「目覚ましのコーヒーが欲しかったけど、また今度だな」

「これからはいつでも飲めるじゃない」

「そうだな。行ってくるよ」

「行ってらっしゃい」

 靴を履き終えた鯨井は、美保を抱きしめ美保も鯨井を抱き返してベッドさながらの熱いキスをして鯨井を送り出した。


 一旦自宅に寄って着替えを鞄に詰め込んで、鯨井は自家用の軽自動車に乗り込む。

 マンションの前を走る国道28号線は、夜が明けてすぐということもあり、車の行き来は少ない。

「嫌な天気だな」

 日が上りきっていないせいかほんのり暗く、薄く広がる雲がなお暗く感じさせる。

 鯨井は軽自動車を東に向け二つほど交差点をやり過ごしてから北に入り、いつものようにファームパークの前を通って中島病院の来院者用駐車場へ駐車した。

 着替えの入った鞄と仕事で使う資料の入った鞄を抱えて病棟に向かっていると、高級外車が何台か病院のアプローチを通って奥の関係者用駐車場へ入っていき、後について走ってきたバイクが二台、来院者用駐車場の入り口あたりに停車した。

 近くにはすでにバイクが二台停まっているので、事故か何かで来院した者の関係者かな?と思いつつ、大して気にせず病棟へと入った。

「おはよーさん。急な呼び出しだな。何があったんかな?」

「鯨井先生! 助かります! も、わけ分かんないんです!」

 外来受付の中もてんやわんやの様子で、鯨井の顔を見た事務員は切羽詰まった顔で訴えてきた。

「おはようございます。鯨井先生にも呼び出しが?」

「おや、萩原先生に高杉先生まで? え、播磨先生までって、はあ?」

 礼儀正しく鯨井に声をかけてきたのは内科の萩原医師。そして彼の後ろには放射線技師の高杉と婦人科の女医の播磨玲美が続いてい、鯨井に軽くお辞儀をした。

 さっき関係者用駐車場へ入って行ったのは彼らだったようだ。

「昨夜の当直は外科の清水先生でしたよね? 何があったんでしょう?」

「電話ではとりとめのない説明で、なんとも……」

「そちらにも? 私も急いで来てくれとだけで」

「なんだかなぁ」

 鯨井だけでなく他の医師たちも充分な説明もなく呼び出されたようで、ますます分けがわからなくなり鯨井は頭をかいた。

「先生方! こちらへお願いします!」

 病棟の奥から普段の業務中では有り得ない声が上がった。

 院内では基本的に大声をあげることは禁止されていて、入院患者だけでなく来院した患者やその家族に不安を与えないため、重要な会話ほど声をひそめる規則がある。

 実際、待ち合いロビーのベンチに腰掛けている数人の男女が不安そうに周りに目を配っている。

 中でもシャツの袖口や襟元を血で汚した茶髪の少年の挙動は、不安や心配にまみれていて、鯨井の印象に残った。

「なんだコレ?」

「真、大丈夫か?」

 鯨井の後にバイクで駐車場に入ってきた少年二人が、茶髪の少年に話しかけているのを目の端に捉えながら、鯨井は他の医師と一緒に病棟の奥へ向かう。

「皆さん、お休みの時間に申し訳ないです。私では意味の分からないことが起こっていて、理解を超えてしまっているんです」

 看護師に通されたのはMRIのモニター室で、制御盤とモニター画面が並んだ縦長の空間に、当直だった外科の清水医師のほか内科や泌尿器科やリハビリ科のトレーナーまで、中島病院のドクターのほとんどが集められていた。

「何があったんだね?」

 内科の萩原医師がまず口火を切った。

「順を追って説明します。まず、午前二時半頃に少年が一人救急外来で運び込まれました。同行していた友人達によりますと、昨夜の二十二時に食事をした際、微熱や頭痛、それから胃もたれか消化不良のような症状を訴えていたそうです。その時は大して気にもせずバイクでツーリングに出掛けたそうです」

「夜中にツーリング? 若いですな」

「鯨井さん」

 思わず茶々を入れてしまった鯨井を婦人科の播磨医師に咎められた。

「ああ、失礼。続けてください」

「オホン。どうやら淡路島一周を楽しもうという流れだったらしく、三時間後に東浦の辺りで一度胃の中の物をリバースしたそうです。同行していた少年はその場で救急搬送を願うかバイクで病院に向かうかで迷ったそうですが、搬送された少年が自力で向かうことを望んだようです」

「なるほどね。無免許だったのかな」

 内科の萩原医師が少し含むように呟いた。

 清水医師はうなずいてから続ける。

「恐らくそうでしょう。それから津名港で休憩をとったそうなんですが、その時は辛そうな表情はしていても嘔吐や排便はなかったようです。休憩のあと洲本市街地まで走って再び休憩で停車したところ、血を吐いていたそうで、流石に危険を感じで当院へ運び込んだ、ということです」

 ふうむ、と全員がそれぞれの知識や学識に照らし合わせて考え始める。

 微熱や頭痛から嘔吐し吐血する疾患を探っている。

「待ってください。問題はここからなんです」

 腕組みをしたり顎に手を当てて考え込む医師たちに、清水医師は待ったをかけた。本当に重要な情報はここからなのだ。

 萩原医師が聞く。

「ここからが異常、ということかね?」

「はい。……まずはクランケの現状を見ていただいたほうが分かりやすいかもしれません。ちょっと、ショッキングなので、そのつもりでお願いします」

 清水医師はその場にいる全員を見回してから、少し躊躇うような恐れるような面持ちで、モニター室とMRI検査機器のある部屋との境にあるカーテンを開いた。

「お、おおぅ」

「キャッ!」

「なんだ、こりゃ?」

 なんとも形容し難い光景に医師たちから驚きの声が漏れ、播磨医師はあまりのことに近くに居た鯨井に抱きついた。

 ガラス窓の向こうには、検査台に横たわる人型の物が真っ赤に濡れたままベルトで拘束されていた。

 素直に『人』と形容されなかったのは、皮膚が裂け、骨が露出し、眼球や臓器がむき出しになり、所々から血飛沫を吹き上げていたからだ。

「生きてる、よな?」

 鯨井が播磨医師に抱きつかれたまま窓に詰め寄る最中に、横たわる人型のアゴが割れまた血が吹いた。

「イヤアアア!」

「お? おお、播磨ちゃん、ちょっと奥に行こうか」

 耳元で嬌声をあげられ、播磨医師がしがみついていることに気付いた鯨井は、医師の間を縫ってモニター室の奥に播磨医師を連れて行く。

 そこにはすでに悲壮な顔をした女性看護師が二人縮こまっていて、その二人に播磨医師を託すように押しやる。

 足元にはうずくまって震えている男性看護師も居たが、それも仕方あるまい。

「これは、その、なんと言っていいか……」

「こんな話は聞いたことがない」

「はは、エイプリルフールは終わってるし、ハロウィンには早い、よな」

 冷静沈着な萩原医師も言葉を失い、他の医師たちも戸惑ったり冗談を言ったりして精神を落ち着かせようとしている。

「清水先生、あの状態になってたのかな? ここに来てからああなったのかな?」

「は? はあ、ここに運び込まれて問診の途中で血を吹き出しはじめまして……。この数時間の間に骨や臓器が表層に露出し始めました」

「なるほど。勝手にあんなことになられると、グロいというより、スプラッタ映画並みですな」

「よく、平気で、うぷ!」

 遠くから鯨井の落ち着きを指摘しようとした高杉医師が口を抑えて黙る。

 医師になってから歴の短い彼には少々キツイ状態かもしれない。

「清水さん、一度そこは閉めましょうか。……それと、ここに運んだということはCTやMRIやX線の撮影は済んでるんでしょ?」

 鯨井に促されて清水医師は慌ててカーテンを閉じた。

 隣では磁力線技師が制御盤の操作を始め、萩原医師が腕時計を気にする。

「清水先生、こちらは準備できてます」

「ありがとう」

「ああ、君。外来の受付は一旦止めておくように伝えてきてくれ。通常の診察にはしばらく取り掛かれないから」

「はい」

 磁力線技師と清水医師のやり取りの傍らで、萩原医師が入り口に控えていた女性看護師に指示すると、看護服の左肩から腹までを血に染めた看護師はクリップボードを抱くようにして部屋を出ていった。

 清水医師は技師の手元に目を走らせてから医師たちに向き直る。

「はい。データはあります。いずれも変化が始まってからの物ですが、三時間前のMRIとX線写真があって、先程もう一度MRIを撮りました」

「院内ネットにもアップしましたから、ここのパソコン以外からも見れます」

 清水医師の説明を継いで、磁力線技師が言った。

 本来、病院内のローカルネットワークには特定の個人のデータはアップロードしない決まりなのだが、複数の医師でカルテを共有する場合などにパスワード付きで開示するケースは無くはない。院内ネットにアップすることで病院内のパソコンやH・B(ハーヴェー)で接続して一度に複数人で閲覧が可能になる。

「気が利くな。どれどれ」

 モニター室に集まった医師たちはパソコンに見入ったり瞼を閉じて問題の映像を開いていく。

 遠くで何かが割れたり、千切れたりする音がしたが、データの検証に集中している医師たちには聞こえなかった。

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