鯨井孝一郎 ②
※
両親が用意してくれているホテルは、決してグレードの低いホテルではないが、滞在して数日過ぎてしまうとバイキング形式の朝食にも飽きが来る。
鯨井との言葉のすれ違いの影響は少なからずあるにしても、朝から味の濃い物や油っこい重い物は食べる気にならず、野々村美保はシンプルにトーストとサラダだけをチョイスした。
美保の心情を知ってか知らずか、向かいの席に座る旦那様は朝から真タラのフライにポタージュスープとバゲットサンドを並べ、年齢に抗うような食欲を見せている。
「んんっ! 旨いな! 出発を午後にして正解だわ」
「クジラさんの嬉しそうな顔が見れて良かったよ」
「いやぁ! この歳になると美保ちゃんと過ごす以外に楽しみってなくてな。食事と睡眠だけはその日その時に目一杯楽しむと決めてるんだ」
口髭にスープが付いているのも気に留めず、鯨井はみるみるうちに皿を空にしていく。
――変わらないなぁ――
妙な感慨を抱きながら美保は作り笑いではない微笑を浮かべる。
物心ついた頃から鯨井に遊んでもらっていたが、思い通りにならないことがあって美保が機嫌を損ねると、鯨井は決まって美保の興味があることに全力で付き合って機嫌取りをしてくれる。
両親や友人もそれに似た気遣いはしてくれるが、鯨井のような全力投球ではない。
「ほら、髭に付いてるよ」
「おお、ありがとう」
なるべく明るい声で注意を促すと、鯨井は子供のようにワタワタと食事を中断してナプキンを口元へ当てた。
――私が子供っぽいのは医者の家に生まれたからだけど、普段の振る舞いはクジラさんの方が子供だよね――
先程の部屋でのやり取りがなければこういった気付きはなかったろう。
美保は自身の動揺が収まり、ようやっと平常心で物事を考えられていることを自覚した。
些細なミス――などというものでは済ませられない大ポカをやらかしてしまい、取り繕うためには鯨井と目を合わせることができなかった。
うっかり黒田刑事と遭遇したことを口走ったのは、鯨井への怒りや不満だけではない。播磨玲美への敵視や疑惑がキッカケとはいえ、憂さ晴らしに付き合ってもらった黒田に少し心が傾いてしまったからだ。
ただ、容姿や正義感やセックスの激しさは合格点であっても、自己中心的であったり恋愛下手なところで減点が多かった。
堅くて熱い男は嫌いではないが、偏屈であっても自分のことを優先してくれない男とは付き合えない。
その一点において黒田より鯨井を愛せると思えるわけだが、互いのことが分かっていればいるほど気遣い合える代わりに、バレてはいけない本気の秘密は怒った演技をしてでも隠さねばならない。
「……コーヒー、とってこようか?」
「ん! 気が利くねぇ。さすが俺の嫁さんだ」
「おだてても味は変わらないわよ」
「そうか? けど、見送りのキスは変わると思うが?」
席を立ってドリンクバーへ向かおうとする美保に、鯨井は冗談めかして追い打ちをかけてきた。
「……バカね」
少しは場所をわきまえて欲しかったが、自分の機嫌でキスの長さが変わるのは事実なので、肯定とも否定とも言えない微笑を返してやる。
――クジラさんが、というより医者や学者って、やっぱり少しズレてるのよね――
美保が知っているだけでも、祖父穂積・父貴雄・播磨玲美・大学の教授達など、皆それぞれにデリカシーや良俗といったものが欠けているように思う。
学問や研究に勤しむあまりに、人格や常識が一般とはズレてしまうとは言われるが、美保は少し違うように捉えている。
言葉通りにズレているだけならば、失言やミスを繕ったり補えば済む。
しかし欠けている場合、失言を失言と思わず、なぜ失言と捉えられたかに思い至らない。
さすがに家族にこういった偏屈が何人も居ると対処法は身についているが、場所によって受け流せる恥とフォローできない恥に閉口せざるを得ない場合もある。
――ママもよく結婚しようなんて思ったものね。私はパパみたいに合理的な人は無理だもの。播磨先生みたいになるのがオチね――
サーバーからコーヒーを注ぎつつ、医大の同級生同士で結婚した両親を思い浮かべ、ついでに医者同士で結婚したが短期間で離婚した播磨玲美の噂へと思い至った。
なんでも、社長令嬢と婚約中の男性医師を寝取ったがために義実家と折り合いが悪くなり、陰湿なイビリの仕返しに浮気相手との子供をこしらえて独りで出ていったらしい。
噂の全部を信じるわけではないが、播磨玲美の素行や振る舞いが生んだ尾ヒレだけに、幾分か真実を含んでいると思えてしまう。
――経緯や顛末はともかく、字面で見ればすごい人生よね。ああいう女性を『強か』というのかな。とても真似できない――
今までは鯨井に向ける玲美の視線の熱さに腹が立っていたので、彼女の半生や立場に立って考えたことはなかった。
結婚、妊娠、出産、育児、離婚……。
玲美の足跡を単語で並べてみて、ふと思い至る。
「強か、ね――」
「美保ちゃん、どうした?」
コーヒーカップをトレイに載せたまま立ち尽くしていた美保に気付き、鯨井が呼びかけた。
すぐに現実に戻った美保は笑顔を作って鯨井の元へカップを置く。
「なんでもないよ。おまちどうさま」
「ありがとう」
「……ねえ。せっかく京都に居るんだし、どこかにお参りにでも行かない?」
席に着きながら、美保は思いついたままを鯨井にぶつける。
「お参り? これからか?」
「そうよ。午後に出発するなら時間あるでしょ?」
「まあ、そうやが……」
唐突な提案に鯨井は戸惑っているようだが、否定や拒否をする様子はない。
「お参りなぁ……」
「おじいちゃんの事もあるし、これからのこともあるし。デートとか観光の思い出も作りたいじゃない?」
「なるほど。言われてみればそうだな」
美保の切り出し方は強引だったが、鯨井はあっさりと快諾してくれた。
二人の関係は美保がこの世に生を受けてからの付き合いだが、美保と鯨井が恋人として過ごした時間は、先日、美保が告白した夜の数時間しかない。
昨夜の交わりを含めても二十四時間に満たないのだ。
二十代の美保が甘やかな思い出作りを求めてもなんらおかしくないはずだ。
むしろ今のうちから鯨井に記念日やイベントの大切さを刷り込まなければならないだろう。
――播磨先生みたいにはなれないだろうけど、私も強かにならないとね――
婚約が成立したばかりだというのに、さっさと淡路島へとって返そうとする鯨井には、そのくらいの気概で臨まねばと美保は思う。
――じゃないと、結婚指輪も選んでくれなさそうなんだもん――
それは美保にとってそれなりに大事なイベントなのだ。




