鯨井孝一郎 ①
「もう行くの?」
アンダーシャツとボクサーパンツ姿でホテルの洗面所に向かおうとしていると、背後からそう声がかかった。
昨夜からの雨のせいで室内は暗く、七月の早朝とはいえカーテン越しの明かりだけでは相手の表情は見えない。
「すまない。なんだか胸騒ぎがするんだよ」
鯨井孝一郎は早口で言い訳して、野々村美保の視線から逃れるため洗面所へと向かう。
『胸騒ぎ』などとありきたりな文言を使ったが、確固たる前兆を感じているわけではない。しかし、現在淡路島から離れているという気焦りや、何かが起こってからでは淡路島に近寄れない不安、先行させた播磨玲美への心配など、鯨井の心情は様々なマイナス要因が入り混じっている。
本来なら昨日のうちに淡路島へ戻っていたという予定変更も響いている。
もう一つ、国生警察の黒田刑事が体験したという瞬間移動やテレパシーなど、高橋智明が表した超能力の危険度も気になっている。彼の脳内に発生した未知の器官が何であるかも気にかかっているし、その器官が超能力と関わりがあるのかも知りたい。
どちらにせよ、今現在京都のホテルに足を止めていることに出遅れを感じている。
――とはいえ、美保ちゃんや師匠をないがしろにはできんかった。出遅れとっても、京都に来た選択は間違ってないはずだ――
顔を洗い、いつも通り口髭と顎髭を残してシェービングし、歯を磨いて髪型を整える。
仕上がりのチェック、というわけではないが洗面台の鏡に映る自身の顔をジッと見つめる。
――よし。ぶれてない。迷ってない――
手術を行う日の朝のように、目元にも口元にも迷いや動揺がないことを確かめ、洗面台から離れようとした時、硬いものが洗面台に当たる音がした。
「……しばらく慣れそうにないな」
音の正体は昨夜嵌めたばかりの左手薬指のペアリングだ。
美保にはよく似合う小洒落たデザインだが、無骨でシワやたるみの目立つ鯨井の左手には少々若ぶったデザインで、なかなか見慣れない。そこに指輪があると分かっていても、何かに当たって音が立ったり、異物が巻かれている違和感は拭えない。
――診察やオペの時は外さにゃならんけどな――
衛生面でも検査機器への影響の面でも、医療現場では貴金属を外すのが常識だ。これはさすがの美保も理解してくれるだろう。
鯨井は金属製の輪っかの重みを刻み込むように、あえて強く薬指の根元に押し込んでから洗面所を出た。
「クジラさん、そんなに心配症だっけ?」
美保が点けたのだろう、室内に照明が灯り、ベッドには下着を身に着けブラウスを羽織った美保が腰掛けていた。
「いつだって心配事や不安はあるさ。言うか言わないかだけだよ」
片手をヒラヒラさせて応え、鯨井は自分のバッグが置かれているソファーへと向かう。
「言える心配事と、言えない心配事の線引きはなんなの?」
「そんなものは無い、とは言えんか。……例えば、美保ちゃんを不安にさせないことは言えるの。反対に、心配にさせることは、言わないかもしれん」
妙な突っかかり方をされ、美保らしいと思う反面、美保にしては剣がありすぎる問いだと思ったが、面倒と思っても今は答えなければならなかった。
鯨井からすれば美保の機嫌が悪い理由は全て鯨井が原因なのだろうと想像できるし、美保の機嫌を直しておかなければ京都に来た意味も左手の指輪も意味をなさないと想像するからだ。
「じゃあ、こんなに早くアワジに帰る理由は、私には関係ない不安のためで、クジラさんと私が離れ離れになるのに、それは私が心配しなくてもいい理由だって言うの? 矛盾してない?」
いつになく厳しい追求に、鯨井は舌を巻く。
荷物を整理するていで美保に背中を向けておいて助かった気もするが、無言でスルーするわけにはいかない。
「……俺は医者のはしくれだ。病院も通常の診察を再開したと聞いとるし、入院中の患者さんのこともある。いつまでも個人の研究を優先してられなくなってきたのが、公の理由だな」
「じゃあ、プライベートな理由もあるの?」
「もちろんだ」
一旦言葉を切って、美保の方へ向き直ってから続ける。
「今のアワジは何が起こるか分からん。だから俺はアワジに戻って医者をやらないかんと思っとる。でもそのためには大事な人は安全なとこに居るっていう安心も欲しい。とはいえ、例の病院を襲撃した犯人のその後が気にかかっとるのも本音だ。アワジで医者やってたら『あわよくば』ってこともあるかもしれん、と思っとる」
「……私がそばに居て手伝うとかは出来ない?」
視線をそらさずに言った美保の目は、真剣だった。
「それも考えたんだがの。……自衛隊がドンパチ始めてしもうたらどうなるか分からん。まだ美保ちゃんに地獄絵図は見せられんよ」
鯨井はゆっくりとベッドへ歩み寄り、美保の隣に腰を下ろして肩を抱く。
淡路島へと急ぐ理由は建前であっても、二十歳そこそこでちゃんと医療現場に携わったことのない美保に、血生臭い戦場を見せたくないのは本音だ。
鯨井は、美保の祖父野々村穂積の勧めで海外派遣の医師団に参加したことがある。
回数にして二回、と聞くと医師団に参加した熱意が軽く感じられたり、そこで得た経験など大したことがないように聞こえてしまうが、期間で言えば半年に及ぶ。
一度目は南アフリカの小国で、栄養失調や感染症・伝染病などの医療支援として二ヶ月間。
二度目は東南アジアで起こった災害の支援として、軽重を問わずに外科全般と、現地の機器を使用した脳外科に関わる治療に四ヶ月のあいだ従事した。
南アフリカでは高い気温もさることながら、虫や埃の舞うテントで伝染病の診察を行ったり、点滴や消毒液などの物資や自分達の食事などが心許なかったり、夜は野生動物の襲撃に緊張したりと、過酷な環境だった。
何より心が傷んだのは、やせ細り飢えや病に苦しんでいる現地の人々が、医師団を頼りつつも怖れを見せず、じんわりと苦しみながらだったり急変して卒倒したりといった死に際に、感謝の言葉と笑顔を見せたことだ。
彼らに落ち度は少なく、学びの場もなければ情報も行き渡らないなど、伝染病や感染症に無知であり過ぎたのだ。行き届かない政治がための不幸とはとても言えない。
東南アジアでは、別の意味で劣悪だった。
物資や食料が無かったり、テントで診察や手術を行うなどは南アフリカの時と変わらないが、大災害という範囲の広さと負傷者数は一度目の数倍に及んでおり、治療の範囲も打撲や骨折から内蔵の損傷に脳挫傷やクモ膜下出血に失明など、非常に多岐にわたっていた。
何より鯨井を憔悴させたのは、救助作業や復旧作業・生存者の確認や物資の輸送などで手が回らず、亡くなった人々がそこら辺に打ち捨てられていたことだ。
遺体を集めたり弔うことすら出来ない環境も心苦しかったが、そこここに死体が転がる中で、内出血で体中がどす黒く変色した人々を診察したり内臓が傷付けられ腹をパンパンに膨らませた人々の手術を行わねばならないことは、医師団として関わった意義すら忘れそうになるほど感覚を麻痺させ、人間らしい感情や情緒を失ってしまったことが一番辛かった。
腐敗臭の中、ひしゃげた腕や千切れた足を処置し、裂き割られ露出した脳を見なければならないのだ。
同行していた医師には内戦や紛争地の支援に参加した先達がいて、虚ろな瞳で漏らした『戦地より酷い』という言葉が忘れられない。
しかし、そんな経験は腹を括った一部の者だけがすればいい。これから子供を授かろうとする美保が見るべきではない、と思う。
「……本当にそんな状況になるのかなぁ。黒田さんも、しばらくアワジから離れたほうがいいって言ってたけど、ニュースじゃそんな感じしないんだけどなぁ」
さっきまでとは裏腹に、美保がすんなりと危機的状況を受け入れ始めたので、鯨井は美保の変心が気にかかった。のみならず、美保の口から黒田刑事の名前が出たことに驚いた。
「このタイミングで自衛隊が出てくることが怪しいんだわ。というか、美保ちゃん、黒田君に会ったのか?」
「え? うん。……ほら、高速バスから電車に乗り継ぐ時に、見たことある人が居るなと思ったら刑事さんだったの。行き先を聞かれたから『お祖父ちゃんのお見舞いで京都に行く』って言ったら、『その方がいい』って」
「……そうか」
黒田刑事と美保の接点が分からなかったし、ポートアイランドで黒田刑事と話した時には美保の話題は出なかったので、つい良からぬ想像をしてしまった。
しかし、よくよく考えれば刑事が参考人として関わった女性を口説くなどあり得ない。
美保が黒田刑事と出くわしたのは高速バスからJRに乗り換える際だったということは、JR舞子駅か三宮駅周辺ということになる。
黒田のメールと美保からのラインの履歴を思い返しても、密会とか秘め事とかそういった要素は感じられない。
――嫁さんが若いとこんな心配もし始めるんかな。この歳で嫉妬とは思いたくないが。……この歳だからこそ、か?――
老婆心だと一笑に付したかったが、どうやらすんなりとはいかないらしい。
「刑事が言うんだから信憑性はあるだろ。黒田君と美保ちゃんの間柄でさえそんな忠告をするんだ。逆に余程のことだと思えるがの」
「…………そうね。……そうかもしれない」
しばらく間を開けて答えた美保の視線は、もう鯨井ではなく自身の膝に向けられていた。
言葉では承服した印象を受けたが、美保の表情や仕草はどこか普段とは違って見えた。
――飲み込めない現実を受け入れようとしてくれとるんか? それか結婚や婚約で関係性とか立場が変わることに混乱しとるんか?――
赤ん坊の頃から知っている美保の所作だが、今回ばかりは鯨井も表情だけからでは読み取れない。
――受け入れようとしとるんも、混乱しとるんも、もしかして俺の方か?――
思い至った先にあったのは人間のジレンマそのものと思えた。
常に自分が正しく完璧であると思いこんでしまうと、相手の間違いを指摘したりついつい説得や注意をしてしまう。
こと『する側とされる側』の立場がそもそも認識違いで、本当の立場も関係性も真逆であったなら、『する側』だと勘違いしている自分の行いはなんと滑稽なのだろう。
美保の疑問や追求が平常であるなら、鯨井の行動と言動は常軌を逸していると捉えられて当然となる。
「……ごめんな。大事大事と言いつつ、今日の俺は美保ちゃんを大事にしていないよな。悪かった」
「いいよ。クジラさんが仕事を大事にしているのは知ってるし、研究や仕事に没頭してるとこも好きだもん。……私が有頂天になってはしゃぎすぎたのかも」
今更の気遣いはやはり手遅れで、美保は肩を抱く鯨井から顔を背けてしまった。
長い付き合いから、美保がこうなってしまうと機嫌を直すのはなかなかに困難だ。
「いや、そんなことはない。美保ちゃんみたいに振る舞うのが普通なはずだ。きっと俺の感覚がズレてるんだよ」
自分で言いながらも、さっきまでのやり取りを取り繕うような言い回ししか出来ないことが申し訳なくなり、鯨井はそっぽを向いたままの美保を抱き寄せた。
美保は抵抗や拒絶こそしなかったが、未だ表情は晴れない。
「……そうだ、朝飯食いに行かないか? 出発は午後に延ばすから、それまで二人のこれからのことを話そう」
「無理、しなくていいよ」
呟くような小さな声だったが、それでもようやく美保は鯨井と視線を合わせてくれた。
「無理なんかしてない。こういう展開で無理してたら、結婚生活なんぞ成り立たんやろ」
鯨井はセックスだけが男女を繋ぐ関係性とは思っていないし、こと恋愛や交際や結婚についていえば、セックス以外のメリットやプラス要因がなければと考えている。
播磨玲美に無いものが野々村美保にあるから、結婚へと話を進めた。
それを高橋智明への興味や好奇心でないがしろにしかけたことは、鯨井の短所だと痛切に思い知らされた。
「……それもそうね。私が子供みたいなこと言ってるよね。ごめんなさい」
「そんなことはない。俺がジジイ過ぎるんだろ。そこも話し合っていこう」
「分かった」
心からの笑顔、とはいかなかったが、ようやく美保は強張らせていた体の力を抜いて鯨井にもたれかかり、形だけの笑顔を見せた。
――付き合いが長いのも困りものだな――
美保の嘘を見抜けてしまうように、作り笑いかそうでないかも分かってしまう。
美保もきっと自分を見てそんなような思いがあるのだろうと思うと、『気を引き締めなければ』となる。
鯨井が親元を離れて三十年が経ち、初めて家族を持つことの重みを知った朝だった。




