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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
【幕間】恩師
124/485

御手洗清 ②

   ※


 山路耕介は佐賀県の北西部・唐津市の生まれで、唐津焼の工房を営む親の指導の元、陶芸家の道を志したこともあるという。だが幸か不幸か山路には焼き物の才は表れず、工房は才覚顕な兄が継ぐこととなり、山路は工房の経理を担当すべく福岡県の国公立大学で経営学を学ぶこととなる。

 そこから経済と政治への興味と野望を持ち始め、工房を切り盛りする傍らで政治的な活動へと参加していった。

 最初こそ地方政治団体の後援会に顔を出す程度だった山路だが、被選挙権を得る頃には各方面への根回しを済ませ、佐賀県政へと打って出た。

 そして地方自治の限界と闇を見た山路は十年の準備期間を経て国政へと立ち向かい、圧倒的な論旨と熱量であれよあれよと総理大臣までの階段を駆け上がった。


 御手洗が山路と出会った頃は、山路は今の御手洗と歳が近かったはずだが、勢いと熱量は今の御手洗の比ではなかった。

 それほどに豪快でパワフルな人物であった。


「老いと病は、かように恐ろしいものか」

「……先生?」


 チャーター機のリクライニングソファーに体を預けていた彩海だが、テーブルを挟んで向かいに座した御手洗の呟きを聞き逃さず、問いかける。


「なんでもない。……いつものやつだ」

「あ、ハイ。失礼します」


 御手洗の手招きで用件を察し、彩海は席を立って御手洗が腰掛ける座席の肘掛けに尻を引っ掛ける。

 間を置かず即座に御手洗は彩海の背中に手を回し、彩海も御手洗の頭部を引き寄せ、二人はゆるりと抱き合う。

 本来ならこれは妻である小百合の役目なのだが、御手洗の飛行機恐怖症の特効薬はこれしかなく、御手洗から彩海への信頼の表れでもある。


 資金面での黒い噂は絶えないが、異性関係で御手洗がこうした接触を取るのは妻である小百合と彩海しかおらず、意外に潔癖な政治家と言える。

 御手洗と出会った頃の彩海はまだ二十代で、末席の私設秘書として雑用しか任されなかったが、一流大学を出た公設秘書よりも有能であることが分かれば即座に第一秘書へと繰り上げられ、その抜擢により小百合よりも密に接する彩海に不倫の疑惑が囁かれたこともあった。


 若く、知的で、男好きする彩海の容姿はそうした噂が立たぬ方がおかしかったし、御手洗がもう少し俗な男であれば体の関係もあったかもしれない。


 まもなく五十の扉を叩こうかという彩海は二十代の頃の美しさを損なっておらず、今の方が一線を越えかねない魅力を放っている。


「……すまん。落ち着いた」

「少し、眠られますか?」


 スーツ越しだが豊かな乳房に頭を埋める御手洗の髪を撫でながら問うと、一拍おいて御手洗が体を離して答えた。


「いや、帰りにしよう」

「分かりました」


 いつも通りの短いやり取りをし、彩海は音もなく座席の肘掛けから降りて元の席に着く。


「今更だが、お前の人生を俺の政治活動に使ってしまった。すまん」


 照れくさいのか、夜の闇しか映さない機外に目をやりながら侘びた御手洗に、彩海は小さく笑って返す。


「やめて下さいな。第一秘書のお役目をお引き受けする時にも申しましたとおり、人生を賭けて働かせていただいております。あの時の宣言に嘘偽りが無いことを証明し続けて来た結果に過ぎません」


 毅然とした彩海の言葉に、御手洗はやはり目を合わさずに言う。


「しかし、な。女の幸せというものもある。お前ほどの女性をそれから遠ざけてしまったのは、俺のミスだ」

「ふふ。何年かに一度仰いますね。私は御手洗清に嫁いだつもりとも申しましたよ。裸にされても、妊娠させられても、人質交換で八つ裂きにされても、秘書の職務をさせていただけるなら何事も厭わない。その覚悟は今も変わりません」


 泰然とした態度を崩さない彩海をチラリと見やり、御手洗はまた窓の外へ視線を戻した。


 姿勢を正し座席の背もたれに背中を付けず、キッチリと着こなすダークブラウンのスカートスーツにはシワ一つ無い。裾から覗く脚は膝からピッタリと揃えられて斜めに伸ばされ、膝の上で重ねられた指にはゴールドの指輪が一つだけ嵌められている。

 かなり昔に彩海にせがまれて、御手洗が彩海の誕生日に送った指輪だが、求婚者よけのために左手の薬指に嵌められている。


「むしろ抱いてくれと言われた時は慌てたぞ。その指輪だって、ずいぶんと小百合を怒らせた」

「申し訳ありませんでした。ですが、今こうして総理のお仕事をお手伝いできる喜びは格別です。なんでしたら、今でも抱いて下さってよろしいんですよ? すっかりオバサンになってしまいましたけど、それもひっくるめて総理の私物(もの)ですから」

「悪い冗談はよしてくれ。俺にだって我慢の効かない時がある」


 さすがの現職総理大臣も身内からの攻撃には本気の狼狽を見せ、そのまま眉間にシワを寄せたので、彩海は微笑みながら謝罪した。


「失礼しました。ようやく総理らしいお顔に戻られました」

「まったく……。お前じゃなければ本当に手篭めにしてやるところだ」


 ジロリと彩海を睨んだ御手洗だが、すぐに表情を緩めて続ける。


「だがまあ、お前が居るから俺も手を抜けんのかもしれん」

「有難うございます」


 妻以上に妻らしく、秘書以上に的確な働きは、御手洗をして同志か分身かと思うほどに信頼を寄せられる。

 時折、彩海が男であれば自身の後継を任せたものをと、御手洗は言いようのない嘆きがよぎる。それほどに彩海の才能や働きは秀でていて、唯一無二といえた。


「――失礼します。あと三十分ほどで佐賀空港に到着いたします」


 キャビン前部から顔を出した私設秘書が申し出て、御手洗と彩海の了解の合図を目にするとすぐに自席へと戻った。


 公務であれば彩海の補佐として置いている第二秘書か第三秘書を同道させるが、恩師山路への見舞いは私用のため、今回は私設秘書を命じてある御手洗の次男(たかし)を連れて来た。

 長男の(さとし)は御手洗と同じ道を歩む事を嫌い、民間企業に就職してしまったし、長女の(めぐみ)は若いうちにイタリア人と結婚して国内には居ない。


 一時期は彩海の待遇面を憂慮するために、毅と彩海の縁談を持ちかけたこともあったが、彩海も毅もそれぞれの理由を主張して破談となった。


「――なあ。やっぱり毅とは結婚できないか? 二人ともまだ間に合うぞ?」


 シートベルトを装着しながら、藪から棒に切り出す。


「先生。そのお話には条件をつけたはずですよ」

「そうだぞ、父さん。あんまりしつこいと本当に可能性がなくなってしまうぞ」


 彩海のやんわりとした否定と被さるように、先程の秘書然とした口調とは全く違う口調でキャビン前部のシートから毅の嗜める声が飛んできた。


「そうは言うが、山路先生でさえ病に倒れられたんだ。俺だってそのうちポックリ逝きかねん。毅ももうすぐ三十五だろ? 彩海の幸せな姿も見たいんや。孫は無理でも結婚式は見たいんや」

「こ、こんな時にこんなとこで言うなよ……」


 歳のことを言われて毅は怯んでしまうが、毅が彩海との縁談に条件を付けたことの意味を御手洗は正しく理解している。


「先生、そのお話はまた落ち着いた時にいたしましょう。毅さん、後で先生にはキツク怒っておきますから、そんな顔はやめて下さいな」

「ありがとう。ごめんなさい。秘書の仕事に戻ります」


 彩海が体を捻って嗜めると、毅は素直に引き下がった。

 こういったやり取りを見れば見るほど――似合いなんだがな――と御手洗は願望を募らせてしまう。


 縁談を断ったとはいえ、彩海も条件を付ける程度には毅を認めているのだから、些細な拘りや条件なんぞ捨ててしまえ!と思ってしまうのは、御手洗の老いとねじ曲がった親心なのかもしれない。


 二人はバレていないと思っているのかもしれないが、秘書同士の打ち合わせではない二人きりの外出があることを御手洗は知っているのだ。

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