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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
【幕間】独自捜査
120/485

黒田幸喜 ①

「――それでは、ごゆっくりどうぞ」

「おおきに」


 丁寧に挨拶をしてふすまを閉じる中居に愛想よく返事をし、中居が客室から完全に立ち去るのを待ってから、黒田幸喜(くろだこうき)は詰めていた息をゆっくりと逃した。


 雨に濡れて少し重くなったバッグを床の間に置き、海に向いた窓へと近寄る。


 多賀西警部派出所の榎本(えのもと)の予報どおり、日没頃から降り始めた雨は、ガラス窓に映った黒田の影の中で今も音を立てて強く降り続いている。風向きのせいか、窓ガラスに向かって突撃してくる雨粒は数え切れず、けれどぶち当たってみすぼらしく垂れていく水滴を見ていると、またため息をつきそうになったのでカーテンを閉じた。


 バッグ同様湿って重くなったポロシャツと綿パンを脱ぎ捨てて、客室に用意されていた浴衣ヘ着替えると、幾分心は落ち着いた。


「はあ……。どんならんのぅ……」


 昨今の大阪人や淡路島民でも使わなくなった『どうしようもない・どうにもならない』といった意味の方言を呟き、黒田は煙草を引っ掴んで旅館の喫煙所へ向かった。


 多賀西派出所を出たあと、一宮(いちのみや)界隈を散策して時間を潰しているうちに、アポイントを取っていた雑誌記者と落ち合うことが叶った。


 その記者は、アシのない黒田に合わせて洲本から乗用車で伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)まで移ってくれ、喫茶店で互いを取材し合う形となった。

 ただ、この記者との会談によって黒田は焦りを覚えると同時に、何から手を付けるべきか判断に迷うこととなってしまった。

 記者とのやり取りは次のようなものだった。


   ― ― ―


「今日はすんまへんな。急なアポに加えて、一宮まで来てもらって、申し訳ない限りやわ」


 ゆったりしたアームチェアーに腰掛けながら詫びる黒田に、白の半袖シャツにノーネクタイの記者は汗を拭きつつ笑う。首からは記者証が吊り下がっていて、社名の下には高田雄馬(たかたゆうま)とある。


「連絡を頂いた時は何事かと思いましたよ。以前、名刺をお渡しさせていただいたのは、五年前の事件の時でしたよね。それ以降、伺うたびに怒鳴られて追い返されてましたから、こんな日が来るとは夢にも思いませんでしたから」


 確か、黒田が高田の取材を受けたのは五年前の殺人事件だった。遷都の準備が進み淡路島の人口が増えるに従って犯罪が増えてきた頃で、二十代の男女の別れ話がこじれて殺人に至ってしまった悲しい事件だった。


 その頃の黒田はまだ南あわじ署の刑事だったが、犯罪が増加傾向であったとはいえまだまだ凶悪犯罪や重大事件は少なく、記者発表や取材対応の規範のない頃だ。それは警察だけではなく、取材にやって来る新聞記者や雑誌記者も同様で、()()()が悪く不文律もなかったため事件現場周辺や警察署内で黒田ら刑事と高田ら記者との怒号が飛び交う一幕もあった。


「ははは。もう五年になるんやなぁ。高田さんも出世したみたいやね?」

「いやいやいやいや。班長なんて肩書が付きましたが、ペーペーをまとめるだけの損な役回りですよ」


 言葉とは裏腹に高田の笑顔からは自信や誇らしさのようなものが伺える。名刺を突き出して強引に渡してきた新人時代とは大きな違いだ。

 と、二人の会話の切れ目を読んで、四十代の女性が注文を取りに来た。


「お決まりですか?」

「ああ、アイスコーヒーで。ここは俺が奢るし、なんでも頼んでよ」

「そりゃ、有り難い。……じゃあ、アイスコーヒーを」

「はーい」


 やや横に大きい女性は店内のテーブルを避けながらカウンターへと去っていった。パートで来ているウエイトレスというよりは、カウンターで調理を始めたマスターの奥さんだろうか?

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