(五) 迎合 ③
※
同じ頃、サヤカは貴美の取り扱いに苦慮していた。
テツオと真が部屋を離れたことで貴美をなだめられるかと思っていたが、衣服を着させてもシーツを被ってベッドで丸まってしまい、サヤカの声掛けにも答えなかった。
とりあえずシャワーを勧めたことで貴美は貸し別荘の個室に設えられていたバスルームへ向かってくれたが、その後の展開はサヤカには予想できない。
「……どお? 少し落ち着いた?」
バスルームから出てきた貴美に控えめに声をかけたが、そのリアクションはやはり薄い。
うつむき加減の貴美は小さく首をうなずかせただけだ。
それでもサヤカが腰掛けたベッドの隣に座ってくれた。
「キミ?」
「…………すまぬ」
「うん?」
「サッチンに失礼な態度をとった」
「そんなことない。失礼とか思わなかったよ」
答えつつサヤカは胸をなでおろした。シャワーという一人きりの時間を作ったことで、貴美なりに気持ちの整理を行ってくれたようだ。
「いや、あれは恐らくだけど、嫉妬だと思う。ま、まだ恥ずかしいから、多分そう」
やはりうつむき加減の貴美にサヤカは『?』だらけになる。
――嫉妬? 誰に? 恥ずかしいのは分からなくはないけど、だからって私を突っぱねた説明にはなってないんだけど?――
とはいえ、貴美の感じている恥ずかしさは少しだけ想像がついた。
サヤカも初体験の折りには、秘め事を秘め事としておきたい気持ちと、周囲に言って回りたい衝動などがあいまっておかしな態度になってしまったことがある。加えて、周りの視線が秘め事を見抜いているように見えたり、汚らわしく見られたり蔑まれているように見えたりという恐れも持った。
もしかするとテツオとサヤカが現れたことが、貴美にそういった後ろ暗さを感じさせたのか?
それとなく水を向けてみる。
「恥ずかしいのはなんとなく分かるかな。私もそうだったから。でも嫉妬っていうのはなんだろ?」
サヤカが貴美の様子を覗き込むようにすると、貴美はむくれた幼児のように顔を背けた。
――そんな子供みたいなことしなくても――
思わず貴美の行動に呆れてしまったが、まだ出会って数日の関係ながら貴美の態度の傾向は見えてきた。
平時はやたら堅苦しい言葉遣いや大人ぶった落ち着きを見せる傍ら、初めて体験する物事や文明的な物への対処、更には自身の内面に関しては急に幼くなる。
大阪の本町で貴美の伯父藤島法章を訪ねた時も、着慣れない洋服と背の高いビル群の只中で怯えていたことを思い出す。
「……サッチンが羨ましいから」
「うん?」
貴美が顔を背けたまま呟いたが、その真意を測りかねて思わず聞き返していた。
「……今日、テツオが瞑想をしようって言い出したキッカケは、私と魂の共感をしたから、なのだ」
「ああ、うん。テッちゃんから聞いたよ。それが?」
「そこで全部、見た」
「ゼンブミタ? ……え、何を?」
話の繋がりが見えなかった上に、『全部』とは範囲が広すぎる。
「その、テツオのサッチンへの気持ちとか、感情とか、二人が何をしてるかとか」
「そ、そ、そうなんだ」
時折幼さを見せる貴美に対し、いつの間にかサヤカがお姉さんぶる関係性ができてしまっていたが、さすがにテツオと二人きりの行為を覗かれたとなると、サヤカも少し慌てた。貴美の前でテツオと自分との関係は『恋人同士である』と明かしていても、やはり『見られた』というのは微妙な気持ちになる。
実際には貴美がテツオの記憶や心情を『共有』したのだから、テツオの記憶の中のサヤカとの行為は、覗きや盗撮とも違うのでなおさらリアクションしにくい。
「二人と同じことをしたはずなのに、私は真にちゃんと伝えられなかった気がする。サッチンのように振る舞えることが、うやましくて、もどかしくて、妬いてしまった」
「それは、どうなんだろ……」
何か大きな違和感を感じつつも、貴美の感情が分かるようで分からず、サヤカは言葉を継げなかった。
思えばサヤカはこれまでに『ヤキモチ』や『嫉妬』といった感情を抱いた覚えがない。不自由を感じたことのない家庭環境だったし、人も物もある程度思い通りになってきた。何よりもテツオと出会ったことで恋を知り、テツオ以上の男も現れていないのだから、サヤカが他人に嫉妬するタイミングはこれまでになかった。
むしろサヤカが周囲の羨望と嫉妬の対象だったくらいだ。
テツオの行動範囲に他の女の影がチラつくこともあるが、『テツオほどの男ならば言い寄られることもあるか』と納得してしまう部分もある。自分が初心な男をからかって遊んでいることを見逃してくれているのだから、サヤカもテツオの交友関係に口出しできるものでもない。
「私への嫉妬なんだよね?」
「……うん。初めて、胸の中に黒い気持ちが湧いたのは、さっきサッチンの顔を見た時だから……」
相変わらずのうつむき加減ながら、チラチラとサヤカを伺いつつ呟く貴美は、悪戯がバレて姉に怒られている妹のようだ。
――これってやっぱり、あれだよね……――
真と体を重ねた後だというのに、サヤカに嫉妬するというのは、筋が通らない。ただ、それを指摘し正しい筋道を説くとなると、さすがのサヤカも尻込みしてしまう。
まだ気付いていない貴美の恋心を明かさねばならないからだ。
「それは、おかしいな。だってキミの好きなのは真君でしょ?」
「その通りだ」
「だったら、私と真君がそういうことをしててキミがヤキモチ焼くなら、私への嫉妬ってなるんだけどな?」
「……あ」
サヤカの誘導で貴美は正解に思い至ったのか、目を見開いてサヤカヘ振り返る。
「私は、テツオを……テツオと……。そ、そうではない。それは違う! サッチンがいるのに、そんなことは起こらない!」
貴美は半ば叫ぶような声量で否定し、すがるようにサヤカのTシャツを掴む。
「キミ、落ち着いて」
初めて貴美が取り乱す様を見、詰め寄る貴美の肩を押さえてなるべく冷静に声をかけた。
「でも! 私がテツオを好きになるなど、ないのだと――!」
「大丈夫。分かってる。信じてるし、分かってる」
貴美の強い否定は抑えが効かないと悟り、サヤカはそのまま貴美を引き込んで抱きしめてやった。
「ちょっと、一度に色んな事があったもんね。大丈夫だよ。私を友達と思ってくれてて、キミが真君を好きなのなら、あとはキミがキミらしくするだけなんだよ」
「サッチン……」
サヤカはようやく貴美の状況を把握できたので、貴美の背中をさすりながらしっかりと抱きとめ、しつこいくらい貴美を肯定してやる。
「……すまぬ」
「大丈夫。大丈夫。何があっても、キミはキミだから」
赤子をあやすようにゆっくりと左右に揺れ始めたサヤカに、貴美もサヤカを抱き返して体を揺らし始める。
「ありがとう。サッチン」
ようやく普段通りの声音に戻った貴美を認め、サヤカは体を揺するのを止める。
――私の時もこんなだったのかな――
サヤカは鼻先にある貴美の髪の毛のシャンプーの香りを楽しみながら、二年前の自分の行動を思い出していた。
喧嘩、というほど険悪なものではなかったが、サヤカは父親との口論の末に実家を出て一人暮らしを始めた。互いに怒鳴ったり暴れたりもなく、自分の意見を述べて回答を受けるという静かな問答の末、比較的穏便に独居へと至った。
但し、そこからは肉親とは思えないほど淡々と条件を差し向ける戦いが始まり、サヤカの独居に関する契約書を交わして、父と娘は現在の距離を保っている。
――あれが反抗期だったなんて、静かすぎて誰も信じてくれないよね。キミも、きっと言われないと気付かないだろうな――
サヤカは心の中で苦笑しつつ、貴美の突然の情緒の乱れへと考えを向ける。
貴美の口からは明確に語られていないが、恐らく貴美と貴美の両親との間には多少なり溝や隔たりがあるのだろう。貴美の話し方や態度を見るに、一見厳格な躾や教育を受けているように伺えるが、ふとした時に垣間見せる幼さは精神的な不安定さだと思えた。幼い頃からの修行により、意識や魂は高いところにあるが、情緒や精神が育まれていないのだろう。
サヤカからすれば、貴美の両親が修行や教義を重んじるあまり、人としての感情や温もりを貴美に与えていなかったのでは?と勘繰ってしまうほどに、貴美の精神は幼く脆い。
貴美の口から母親の話を聞かないところを見ると、片親なのかもしれない。
――だからって私にダダこねたり、反抗されても困るんだけどなぁ――
他に気を許せる相手が居ないからと考えれば許せる話ではあるけれど、まだサヤカには貴美の母親代わりを演じてやるつもりはない。
貴美の経験していないことを、サヤカがたくさん経験しているからと言って、サヤカに当たられたのではたまったものではないのだ。
「落ち着いた?」
「うん。……恋って、こんなにも自分が見えなくなって、自分の未熟さに歯がゆくなるものなのだな……」
抱擁を緩めると、貴美は申し訳なさそうに述懐し、こぼれそうになる涙を必死に堪えているようだ。
「……そうだね」
言葉では貴美を肯定してやったが、実際はサヤカの恋路に貴美のような山や谷は今のところない。それでも笑って肯定してやらねば、貴美の精神的な成長は図られないだろうし、サヤカも他人に恋や人生を説いてやれるほど老成しているわけでもないから、深入りしても表面的な取り繕いにしかならない。
――そういう意味じゃ、キミの方が大人かもしれないな。自分の未熟なとこをこんな短時間で見つけられるんだから――
もう一度貴美を抱きしめながらどこか冷めた考えを巡らせてしまう。
貴美の伯父法章を訪ねた際に一度。
ウッドデッキで真と話しているのを盗み聞きしている時に一度。
そして今、サヤカの胸の中で貴美は嗚咽を漏らしている。
――女の子のこうゆうとこ、苦手だな。真君の方に行けばよかったかな――
貴美の背中をさすりながらとりとめのないことを想像してしまう。
――ダメダメ! もう童貞イジリはやめたんだってば! さすがにテッちゃんに怒られちゃう――
貴美が落ち着きを取り戻し始めたのでサヤカも現実へと思考を切り替える。
「……羨ましい」
「うん? なあに?」
「オッパイ。サッチンの、私より大きい……」
体を離した貴美の目線がうつむき加減だったのはそういうわけかと、サヤカは呆れてベッドに倒れ込みそうになってしまった。
「あはは……。こればっかりは生まれ持ったものだから。真君はそんな注文をつけてきたの?」
今、部屋には女子二人だけなので、あえて下卑た話題に踏み込んでみる。
『恋には下心があるから性的アピールは押し上げるべし』というサヤカのモットーに基づいたものだ。
「そうでは、ない。ちゃんと、愛でてくれた」
首まで真っ赤になりながら答えた貴美だが、少し含みが感じられた。
「じゃあ、問題ないじゃない。好き同士なら見た目の特徴なんて、障害になんないよ」
「違う」
太ももの上で手や指をモジモジさせながら貴美は強く否定したので、サヤカは目線だけでその先を促す。
「……優里も、大きかった、から」
言い訳をする子供のように小さな声で貴美は呟き、自身の胸の前に両手をやってプリンと一回しする。どうやら鬼頭優里の胸の膨らみを再現しているようだ。
「やんなくていいってば」
思わず苦笑しながらツッコんでしまったが、サヤカの見た夢の中の優里は、朧気な輪郭ながら貴美の示したくらいの豊かな乳房をしていた。
「確かにそのくらい大きかったけどね」とは続けつつも、「長続きさせるなら外見より中身だよ」と慰めるしかできない。
本当はもっと色々言ってやりたいことはあるのだが、いかんせんウッドデッキでの貴美と真の会話は、サヤカが知らないはずのことなので言うことができない。
「そう、じゃない。……マコトは、優里のことが好き、みたい、だから」
「ああ、まあ、幼馴染みだったっけ。うーん……」
サヤカは腕組みをして考える素振りをしたが、答えはすでに出ている。
恐らく、先程の夢のような空間で貴美と優里と真で何らかのやり取りがあったか、真の行動に優里への好意を匂わせるような場面があったのだろう。
だがサヤカからすれば城ヶ崎真は、単純に気が多い十五歳の少年に過ぎない。
乱暴な言い方をすれば、好意と性欲が直結しているようなものなのだ。
さすがに幼馴染みへの好意は、恋愛と友情のどちらかである可能性はあるが、この二日ほどのサヤカの見立てではピュアな恋愛よりも性欲が勝っていると思える。
――そうじゃなきゃ、私やキミにああも引っ付いてこないってば――
『見境がない』とまで貶めるつもりはないが、節操がないと思われても仕方のない行動は多々あった。
――まあ、そうやって手の平で遊ばせられるから可愛いとか思っちゃうんだけどね――
鼻の穴を膨らませた真の顔を思い出してサヤカは小さく笑った。
「……そこ考え始めちゃうと際限ないから、今は信じるしかないんじゃないかな。疑ったり、思い通りにしようとするのって、疲れるだけだし。多分、人間の欲深い部分だと思うしね」
ありきたりな慰めを言っただけだが、『欲』の一語に貴美は過剰な反応を見せる。
「そうだ。そうなってはいけない」
何か確信を得たらしい貴美は、スッと背筋を伸ばして居住まいを正し、目を閉じリズムよく深呼吸を繰り返していく。
「サッチン、ありがとう。危うく教義から逸れたことをしでかすところだった。それどころか欲の沼に飲まれてしまうところだった。マコトを信じて信じ抜くことにする」
ようやく微笑んでくれた貴美だったが、サヤカは本心からは喜んであげられない。
男も女も、恋を信じ抜く時は際限がないことを知っているからだ。
貴美の事情があったとはいえ、サヤカが滋賀県まで走ってきた根本的な理由は、命を懸けてテツオの役に立つためだからだ。
「キミ。この先、辛いこともあるだろうけど、そうと決めたらその決心を曲げちゃダメだよ」
「無論」
「納得とか諦めがつくまで、だよ」
「勿論」
喧嘩の時のように貴美をねめつけるサヤカヘ、貴美は清らかでくもりのない視線を返してくる。
見つめ合うこと十数秒――。
「ん。頑張ってね」
「うん」
一気に相好を崩したサヤカに釣られて貴美も屈託なくうなずくのだが、そんな貴美にサヤカはにじり寄って耳元でささやく。
「ね、真君とどんなことしたの? 気持ち良かった? 優しかった? 激しかった?」
「にええええ!? そそ、そんなこと! は、恥ずかしい、のだ!」
「私のこと見たんでしょ! 教えなさいよぅ! ホレホレホレホレ♪」
「サッチン! ちょっ、きゃあああ!」
恥じらって逃げようとする貴美を、サヤカはベッドに押し倒して、くすぐりながら尋問を続けていく。
この尋問は、真とテツオが戻ってくるまでしばらく続けられた。




