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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
【幕間】 それぞれの真理
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(四) 城ヶ崎真

 ――ああ、気持ちいい――


 目を閉じても真っ白な光に照らされている感覚は続き、光の温かさは丁度良く、体の浮遊感も優しくて、どこからも力を加えられていない心地良さに、真は恍惚の言葉をもらした。


 ――想像と現実はかなり違うな――


 覚えたての頃には腰砕けになって、長々と余韻を楽しんでしまって乾いたティッシュが張り付き大変なことになったが、後始末に慣れてしまったように、近頃はマスターベーションでは快感を感じなくなっていた。

 こうなってしまうと早熟も考えもので、オカズやネタは入手し辛いのに欲求だけが募っていってしまう。

 下世話な話、身の回りにあるものでその場を凌ぐしかなく、本人には決して勘付かれてはならないが、優里や真の姉(こころ)に何度も世話になった。


 そんな鬱屈した真の欲求は、H・B(ハーヴェー)を手に入れたことで一気に改善された。


 これは性的な部分だけではなく、獲得できる娯楽やツールの制限が取り払われたからで、暴力的なゲームや規制のない過激動画などは真の好奇心を掻き立て、少年らしく寝食を忘れて熱中させた。


 そもそもH・B化は二十歳を超えていることが使用条件であるため、H・Bを使用している時点で成人として多種多様なアプリケーションがダウンロードできる。


 ――それでも映像とリアルはこんなにも違う――


 身体的な成長だけでなく、大人の行いをした高揚感や充足感のせいか、知ったふうなセリフを呟きながら真は光の中を漂う。

 しかし、興奮や余韻が永遠に続くわけではなく、また大人ではないからそうした熱も意外に早く冷め始め、温かな光は次第にフェードアウトして夜が訪れたような闇へと差し替わっていく。


「なんだ? もう終わりか?」


 遠ざかっていく興奮と余韻にがっかりしながら、それでもこの後に何が起こるかに興味が移り、辺りに目を配る。

 とうに真は真っ暗な闇の只中にその身を置いていて、相変わらず広い空間を漂っている感覚だけがある。

 何事かが起こるのか?と暗闇に目を凝らすが、就寝前に部屋の明かりを消した直後のように、ザラリとした気持ちの悪い闇が視界を埋め尽くすのみだ。


 ――なんだよ。雰囲気的にはキミに見せてもらった真理の世界みたいなのに、何も見えないじゃないか――


 派手好きで楽しそうなものに目がない真としては、ゲームの様に冒険の舞台となる島や大陸やボスモンスターでも現れるのかと期待したが、その気配はまだない。

 ただ、テツオの発案で田尻や紀夫たちと車座になって精神集中を行い、宇宙のただ中か星空へといざなわれた瞑想を想起させる静寂と浮遊感があるのは確かだ。


 ――何も起こらないなら、こっちが何かしてみるか?――


 それは些細な思い付きだ。

 ゲームスタート直後に、ろくなチュートリアルもなくフィールドに置いてけぼりにされた時の対応策でもある。


 もっとも、ただただ漂っているだけのこの暗闇の中では真に出来ることは限られている。手足を動かした感覚はあるが、空気や風に触れた感触はないし、顔を両手で覆っても数センチ先の手すら見えぬ程に暗い。「あっ!」とか「わっ!」などと叫んでみたが、反響もしない。


 ――でも声は出たし、耳も聞こえた。目は暗闇を見てる、気がする。どこを見ても黒だからよくわかんねーけど――


 感覚だけのものだがぐるりを見回したり、頭上や足元を見てみたりもしたが変化はなく、ならばと正面の一点を見つめてみたりもする。

 と、ポツリッポツリッと光の点が現れ始める。


 ――なんだ?――


 地味な変化に、まだ真の情動は動かないが、変化が起こったことへの期待は大きい。

 真が注視したからか、それともそういう仕様であったのか、光の点は徐々に増えていく。


 やがて点は広い範囲で現れ始め、密集している場所とまばらな場所が現れてくる。


 ――何かに似てるな……。キミが見せてくれた生命の輝きにも似てるけど、ちょっと違うぞ――


 貸し別荘の裏手で車座になって見せてもらった貴美の精神世界は、もっと天体望遠鏡の写真や星空に近い物だったし、光の大きさもまちまちで並び方も重なったり流れたりと多少の動きもあった。

 今、真が目にしているのは、例えるならば遊覧飛行している夜空から地上の家々に明かりが灯っていく様に似ている。

 真っ直ぐに列になって並んでいたり、等間隔でカーブしていたり、ポッカリと四角形の空白があったりと、単純な光の点の集合ではない。


「これは、本当に街なんじゃないか?」


 光の点が広がってゆき真の視界を埋め尽くした時点で、ようやっと景色の一端を把握でき、誰とはなしに問いかけていた。

 ただ、それに答えるものはなく、なおも光は真が注視するエリアを中心にして、同心円にその勢力を広めていく。


 ――どこまで広がるんだ?――


 まだ辛うじて首を回したり見渡せる規模だが、光の拡大は留まる気配を見せず、真はもっと高い位置からの視点に変えなければと考える。


「お? おわっ!?」


 真の考えた通りに視点が変わり、高度百メートルくらいから千メートルほどへ一気に体全体が引き上げられ、思わず声が出た。

 これを『思い通りになった』と捉えるべきか、『もうちょっと優しく対応してくれ』と捉えるかは、そろそろ決めるタイミングかもしれない。

 ともあれ、より高い位置から光の広がりを見渡した真は、記憶の中の映像との合致を認める。


「本当に夜景じゃないか」


 方角が少しズレていたが、光の群れが湾曲して途切れている形は大阪湾に似ており、光の密集は京都・大阪・神戸の市街地を形作っている。位置関係から見て、足元で光点に縁取られた暗がりは琵琶湖だろうと推測できた。

 人口分布を表す時に度々用いられる、海と陸が黒塗りされ人家や街灯の明かりだけがクローズアップされた地図そのままの光景だった。


 ――てことは、この光の一個一個に家庭や家族や仕事場みたいなのがあって、必ず人の営みがあるってことだよな?――


 少しずつズームアウトして縮小されていく夜景を眺めながら、真の視界には近畿一帯の夜景が広がり、いよいよ淡路島や四国に加え三重や岐阜などの東海や甲信越も視野に入り始め、北側は日本海まで見渡せている。

 そうやって視野が広まったことで真は自分の認識の間違いに気付く。


「そうか。夜景の光って、家とか会社だけじゃないんだよな。……街灯とか線路とか、ショップのネオンや公園の案内板だって夜中は光ってるよな」


 足元の琵琶湖に架かる琵琶湖大橋を浮き彫りにしている光は、東西へと渡る車列の光だけではなく、橋の欄干に街灯代わりの照明が取り付けられているのを認め、そう思い至った。


 他にも目を向ければ、明石海峡大橋も同様の照明が設けられ、高速道路やJRの線路にも照明は配されている。

 光の密集する市街地には赤や青、緑や強い白色の光も目立つ。


 そうして真が細部を注視したり考えを巡らせたりする間にも、視点はどんどんと高くなっていき、遂には日本の国土全体を視野に収めるまでになっていく。


「何度か見たことがあるけど、こうして本当の大きさで体感すると迫力が違うな……」


 あくまで貴美の見せてくれた精神世界の中での仮想であると割り切っているからか、真の感想は少し他人事ではある。それでもスケールの大きさや視野に収まらない広がりは真の胸を打つ。


 ――こういう景色を人生に一度でも見れたなら、人間の考え方や生き方って、変わっていくよな。キミの様に人々の救済を考えるのは、こういう大きなモノを見たり、すぐ近くの小さなモノを感じたり出来るからだろうな……――


 さらに上昇する視点の中で、日本海や太平洋に浮かぶ船舶の光を見、また視野に入り始めたロシアやアジアやインドネシアや太平洋上の島々の光を見、真の心に言いようのない震えが走る。


「あ……っ!」


 いつの間にか真の立ち位置は地球の大気圏を突破し、漆黒の幕に浮かぶ夜の地球と、その表面を飾る人工の輝きを見ている。


「これが、人の営み、か?」


 地球の夜の部分と、端に生まれている昼の部分とが視野に入り、真は自らの人一人としての小ささを感じ、同時に地球の表面で小賢しく生きる人間という文明の儚さを感じ、尊さや喜びや、切なさや小ささが涙となって流れた。


 ――それでも人は生命を繋ぐのか? 動物や虫も、それでも生きようとするのか?――


 今の真の視点の高さからは地球はバスケットボールくらいでしかない。

 タオルで拭えば、その表面の人間や動物や昆虫たちは塵や埃よりも簡単に拭き清められてしまえる。


「…………小さいな。宇宙は、もっと、広い……」


 急激に視点は移り、地球が他の星の輝きに埋もれてしまうと、また違う光の密集と繋がりを形作っていく。


「銀河? 星雲? ……いや、全く知らない地図だ……」


 真の知識や記憶にない映像が形作られ、思い出すことも考えることもやめてしまう。それほどに宇宙の大きさと深さは真を取り込み、圧倒的に包み込んでいる。


「でも、似ているものは、ある」


 否定ではないが、目の前の光景を自分の理解の及ぶ範囲に収めようと、真は言葉を繋ぐ。


「人間が地球の表面の塵とか埃なら、地球も宇宙の中の点の一つなんだ。……ということは巨大なシステムの中の部品とか分子の一個ってことだよな。……フラクタルの逆を見てきたってことだ。そしたら、宇宙っていう機械の中の地球の、その表面の人間の文明なんて原子と電子くらいの小さな活動みたいなもんだろ。そんな大きさで、戦争とか政治とかって、何やってんだって話だよな……」


 真の諦めは人間への呆れへと転嫁してしまったが、安定した視点は貴美の見せてくれた生命の輝きに似た広がりで止まった。

 恐らく真のつぶやいたフラクタル構造の最大値に達したのだろう。

 幾何学的紋様の細部を切り取り拡大すると、同じ紋様が現れ、切っても切ってもその細部は同じ紋様が現れるというフラクタル構造は、小さな物をより小さく見ていくだけの無制限の探求を意味する。

 だがその出発点となる最大値も、細胞や物質の表面のように無限に並んだ一個でしかない。

 無限の中の一個の、無限に小さくなる断面。

 とうに真の知識や想像から離れた光景は、『己』という概念の限界を示したのかもしれない。


「……だからって『無い事』にはできないっていうか、したくないんだよな。俺はまだ、智明がなんでこんなことを引き起こしたのかの答えを聞いてないからな」


 怒りとも恨みともつかない感情の爆発に、一気に真の視点は一点を目指してズームインを始める。

 大宇宙から天の川銀河を目指し、その端にある太陽系へと潜り、地球の一点へと突き進む。


「マコト!! 来ちゃダメ!!」


 貴美の制止が聞こえたが、却ってそれが目印となった。


「智明! そこにいるのか!?」

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