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譲り羽  ―ゆずりは―  作者: 天野鉄心
第四章 恋人たち
110/485

恋人たち ②

   ※


「命の輝き?」


 真には貴美の言っていることの半分も理解できなかった。

 アニメやライトノベルで『命』をそういった比喩で表現することはよくある。

 だがそれを瞑想によって見ようとした貴美の動機を聞かなければ、何億という星粒に溢れた映像の説明には到達しないと思える。


「そう。前にも触れたことはあるが、私は修験者(しゅげんしゃ)。自然をたっとび、自然を崇めるという教えを生涯の糧としている。だがある時、生命とは、自然とは、と自問した。守人(もりびと)として人々の救済に努めても、世間の不幸や悲哀は減ってはくれぬ。そんなことを考えてしまっては人々の救済も行き届かぬゆえ、真理を見定めねばと思い立った」


 ややうつむき加減に話す貴美を、真は黙って見つめる。


「独りで真夜中の森に座し、眼を閉じて自然の全てを数えようと意識を無防備にしておいた」


 話しながら貴美は当時を再現するように目を閉じ、ゆっくりと顎を上げていく。


「じんわりとまっさらな暗闇が広がり、最初に植物の気配が浮かび始めた。

 ……樹木だけではない。……花も、草も、土中の種も、だ。

 ……次いで、草木と共生する昆虫たちが集まってきた。

 ……草木に寄り添う虫だけでなく、宙を舞う羽虫も、木を彫り抜く虫たちも、土中で眠る虫たちも、だ。

 ……昆虫たちが見えるということは、近くの動物たちが現れるのは当然のこと。

 ……猿も、鹿も、リスも、鼠も、猫も、犬も、鳥たちも……」


 物語を紡ぐような貴美の声にいざなわれ、いつしか真は貴美に体を寄せながら目を閉じて聞いていた。

 真の頭の中でも、貴美の言葉を追いかけるように、木や、草や、虫や、動物が映像として浮かんでくる。


「ああ、これが自然なのだと、私は満足しかけた。

 ……だが暗闇にはまだまだ余白があった。

 ……私の座しているのは大地があるから。私が潤っているのは水があるから。私が呼吸しているのは大気があるから。そして、大地も、水も、大気も、必ずどこかで風とともに自身を存在させている。これが自然であった」


 真の頭に、どこのものともしれない景色が浮かび上がってきた。

 若い稲穂が揺れる田んぼとその脇を流れる水路。水路は遠くに盛り上がった山へと伸びてい、その山は沢山の木々が茂って目を焼くほどの緑だ。山の背景には夏真っ盛りの暑そうな青空が立ち、輝くように白い雲が風に流れている。

 この一枚の風景に、虫や、鳥や、鹿や、猿や、魚や、その他たくさんの動物も潜んで生きている。


「ああ、草の一本にまで、命がみなぎっているんだな」


 震えるような感動を伝えようとした真だが、貴美はそれを押し留めた。


「否。この風景には肝心なものが現れていない」

「肝心なもの?」


 貴美に駆け寄ったはずの真は、突然の通行止めに困惑した。

 空があって、大地があって、川が流れ、風が空を渡り、草木が繁茂し、動物や虫が生きている。

 何が足りないというのか?


「……それはこの景色を見ている『自分』。そして、自然と共生しつつ破壊し、再生し、造成し、育てようとしている、『人間』。人間もまた、自然の一部」

「人間が、自然の一部、だって?」


 真は驚いて目を見開いた、はずだった。

 しかし寄り添っているはずの貴美の姿はなく、訪れた事のないどこかの都会のスクランブル交差点の雑踏の中に立ち尽くしていた。

 空を塞ぐように高く伸びたビルディング。アスファルトで覆われた大地。水の流れは側溝の汚水。風には車の排ガスとエアコンから排出された熱気。動物や虫は、物陰にチラチラと蠢く害獣と害虫。草木は道路脇の色あせた植え込みと街路樹と雑草。


「こんな景色の中に、自然があるものか!」


 真は目を閉じてかぶりを振った。


 ――全て作りものばかりじゃないか――


 全否定した真の意識に、また暗闇が広がったが、ポツリポツリと、光の粒が点き始める。

 夕暮れ時に家々の窓に電灯が点き始めるイメージ。


「……この一つ一つが、命」


 暗闇に光は生まれ続け、あっという間に真の周りは光の粒で埋め尽くされていく。


「全て、命?」


 貴美の言葉をなぞった真は、あることに思い至って目線を上へと向けた。

 そこには何万、何億という光の粒が星空のように広がり、竜巻のようにうねり、雨のように降り注ぎ、暴風となって真を襲った。


「これは、貴美に見せてもらった星空と同じだ」

「そう。もっと高い所から見下ろしてみるといい」


 貴美に導かれて上昇し、その通りに真が振り返ると、コンピュターグラフィックスで描画された地球儀のように、光の粒が大陸や島を形どっていた。


「もしかして、地球はこれだけの命の輝きに満たされているってことなのか?」


「数千億、もしかすると兆を超えるやもしらん」


 真の当惑や感動をよそに、貴美の声は少し低い。


「俺は、あの中のちっぽけな点よりも小さいんだな……」

「そうではない。光は全て等価。命に大きさの違いは、ない」


 消沈しかけた気持ちを温かく抱きしめられた。

 目を開けると、貸し別荘のベッドに寝転んだ真に覆いかぶさるようにして、貴美が真を見つめていた。


「……さっきのが、貴美が見た本当の世界なんだな?」

「そう。私が辿ったままを真に見せた。全員に共有しなかった理由は、わかってもらえた、かな……」

「そう、だね。テツオさんやクイーンは大丈夫だろうけど。普通は混乱しちゃうかも」


 テツオとサヤカを少し英雄のような扱いをしているのは真の良くない部分ではあったが、動揺の大きさを考えれば、普通は整理のつかない体験だろう。

 真の場合、貴美に導かれたという前提があるからこの程度で済んでいる、とまとめる。


「瀬名さんじゃないけど、人生観変わっちゃうな」

「それは、この後にどのようなことを考えるかによるのでは? この先に悟りという領域や世界があるのだから」

「な、なるほど」


 少し話がマクロに拡大してきて、真では処理できなくなってきた。


「今のが二つ目。……問題は三つ目、なのだ」


 真のお腹の上にまたがっている貴美は、さっきまでまっすぐに真を見つめていた目を、脇にそらした。

 少し顔が赤い、気がする。


「ああ、そっか。三つあるって言ってたっけ。……どんな話?」


 貴美が視線を反らしたことが気になりながらも、真は貴美に話しの続きを促した。


「わ、私は、マコトが好きだ」

「あ、ありがとう……。お、俺も、キミが好きだよ?」


 視線を彷徨わせながら急な告白をした貴美に対し、真も唐突に投げられた直球の告白を真っ直ぐに返す。


「そ、それで、だな……。一つ目の話に戻ってしまうのだが、私は、その、テツオと共鳴というか、共感というか、感覚や半生を共有、したのだ」


 目に見えてしどろもどろになりながら、貴美は続ける。


「その、半生を共有すると、だな。記憶や感情や考え方も相手に倣ってしまう部分があって、だな。……つまり、テツオがサッチンとどの様な愛情の交感をしているかなども、実体験のように記憶してしまうわけで……」


 顔を真っ赤にして話す貴美を見上げていて、真もだんだんと話の向かう先が読め始め、高揚や期待が膨れ上がるのと同時に、焦燥・動揺・緊張といった混乱に支配される。


「二人の、してることを、見たの?」


 健康な十代男子の知りたい気持ちが先走る。


「う、ん。……だから、心配になったのだ」


 暴走しかけた真から逃れるように、貴美の声は急にトーンダウンした。


「心配? なんの?」

「……父様から加持祈祷(かじきとう)で依頼を解決する際に、恋愛という要素を知っていなければいけないと、恋愛や交際やセックスの知識は教えられていた。けれど、今まで御山で修行をしていて、恋愛という感情や思想には至らなかった。だからこそ私は自然や生命を尊び、守人の役目を担えていたと考えている」


 貴美は真剣な眼差しで語り始めたが、言葉を切る前にやや苦渋の表情を伺わせた。

 貴美がそういった後ろ向きな表情を見せたのは初めてだったので、真も真剣に貴美と向き合う。


「今は、違うの?」

「違う。圧倒的に違う。……私はマコトが好きだ。初めての感情だ。マコトと一緒にいたいし、マコトがずっと一緒にいてくれるなら、大変嬉しい。マコトとならセックスを求められても抵抗なく差し出せる。……そういう、欲が生まれても、いる」


 これまでの純粋無垢な貴美の印象から外れた『セックス』という一語に真は慌てたが、その後に続いた『欲』という言葉に、貴美の迷いや逡巡が絡み合った動揺を目にし、男のスケベ心は一旦抑えねばと努める。


「欲を持っちゃいけないのか?」


 それは真にとっては些細なことだと思えたからそう聞いた。

 真にとっては『欲』というものは、朝起きたときから一日を過ごして眠りに就くまで、絶えず生まれ続けている普通のことだからだ。

 腹が減ったから何か食べたい。喉が渇いたから何か飲みたい。新しいゲームや漫画の最新話に早く触れたい。つまらない授業は早く終わってほしいし、友達や仲間との楽しい時間は永遠に続いてほしい。今手にしている持ち物よりも多少高価な物を手に入れたい。誰からもオシャレだと言ってもらえる服や靴がほしい。わずかな刺激で勃起する性欲を発散したい……。

 数え上げればきりがない。


「……人の感情には、煩悩という欲や願望が百八あると言われている。それらは真っ当な人生を歪め、死後に待つ罪と罰の裁定の対象になるという。そして、死後に極楽浄土へと昇るためには人生を全うするうちに煩悩を廃し、悟りを開くことが第一だと考えられておるのだ。だから、私たち修験者は文明を遠ざけ、自然を敬い、動物を殺めず、人々の救済によって徳を高めようとしている」


 これまでにも何度か貴美の口から語られていた『教義』の根本がこれなのだろう。

 なるほど、と真は貴美が何に苦しんでいるのかが分かったような気がした。


「俺と付き合ったり、その、イチャイチャするのは『欲』に突き動かされてることになるから、教義とか教えから外れるって、ことかな?」

「それも、ある。……私が辛いと感じるのは、マコトへの気持ちが抑えられないことだ。サッチンの言葉で言えば『抱かれたい』のだ。マコトの望むままに私を差し出したい」


 一瞬、真の脳内に、テツオにセックスを求めるサヤカのイメージが浮かんでしまい、慌てて意識の外へ追い出す。

 今は貴美のことだけを考えなければいけない時間のはずだ。


「俺も、キミとそうなれるなら嬉しいけど……」

「この先が、悩ましい」

「え? この先?」


 真の想像とは違う流れに向かい始め、間を開けずに問い返してしまった。


「元来、神道でも仏教でも女には清らかさが求められてきた。巫女は生娘(きむすめ)しか務められぬし、尼も性交を遠ざけている。外来の一神教でも婚前の交渉は認められていない。月経さえ汚れとされる観念もあると聞く」


 真は貴美の言葉に「言われてみれば」と納得してしまう。

 ヒンズーでは男性が女性に触れることを禁じていたり、イスラムでは家族以外に女性が容姿を晒すことも禁じられていたりする。

 それほどに世界は女性に対してピュアを求めているとも考えられた。

 反面、月に一度の月経に伴う出血は不浄とされたり、出産を神秘的に捉えながらも性交や妊娠に対する男の認識は低俗だ。


「えっと、なんて言ったらいいか……」

「私は不安なのだ」


 貴美の言いたいことが分からなくなってきて戸惑う真に、貴美は短く告げた。


「マコトにこの身も心も差し出すことで、守人の力を失ったり、教えから逸脱し、悟りを開き人々の救済を行うという本懐が遂げられなくなるのではと、思うのだ……。マコトを愛しつつ、力も残すなど、欲の極みではないか……」


 急に表情をしかめ、貴美はもみくちゃな顔から涙をこぼして真の上に倒れ込んだ。

 昨日もこんな感じに貴美が涙を流していたことを思い出し、ともかくも彼女を落ち着かせるために、真は貴美の細い体を抱いた。


「分かった。分かったよ、キミ。キミにとって教えがすごく大事で、俺のことも好きでいてくれてるのが、すごく嬉しい。けどさ、俺はまだ十五だし、キミも十七だろ? 好きだからってホイホイ簡単にセックスしなくたっていいんだよ。……俺も我慢するし、そもそも守人の力を残しながら恋をしようってのも欲張りなんじゃないかな」


 慰めていたはずの真の言葉に、抱かれたままの貴美の背中がピクリと跳ねた。


「欲張り……。そうかもしれない」


 押し殺した嗚咽の合間に、貴美が力なく応じた。


「ん。一つずつクリアしていけばいいんじゃないかな。もしかしたら今までの守人にも恋愛とか出産しても力を失わなかった人がいるかもしれないし、恋愛やセックスが教義に反してない可能性もあるんじゃないか?」


 なんとか貴美を元気づけようと真は想像を並べ立てる。

 貴美が頭の向きを変えて真の耳元でささやく。


「教義とセックスがケンカしないなんて、あり得るのかな……」

「かもしれないよ。……だってさ、人々を救済したいってのも、思いが強すぎたり自分中心になってしまったら、それも『欲』になりかねないよ。セックスも、気持ち良さとか手に入れる喜びみたいな部分は『欲』だけど、好きな人とくっついてたいっていうのは、本能とか人間や動物の使命でもあるんだし」

「使命、か」

「そう、使命」

「種の存続。命の連鎖。血の代替わり」


 真の腕を押しのけるように貴美が上半身を起こし、真の目を見ながらつぶやく。

 おもむろに貴美が真の顔に両手を添えて、キスをした。


「ならば、私はマコトの命と血を宿したい」

「う、うん。でも、先にキミの依頼とか俺の目的を終わらせてからの方が良くないかな」

「そうだった」


 大事な用件を忘れていた貴美は照れ笑いをし、また真の胸に寝そべってキスをする。


「めっちゃキスするな」

「キスは大丈夫。昨日からたくさんしてるけど、今日はちゃんと力が使えた」

「なるほど。お墨付きが出たね」


 そうなると真も遠慮がなくなり、貴美を抱き寄せて唇を重ねる。

 何度も何度も唇を重ね、互いの体を確かめるようにほうぼうに手を這わせていく。

 貴美を仰向けに寝かせ、覆いかぶさって真は貴美の全身にキスをしていく。

 真のキスの乱れ打ちを浴びながら、貴美の中ではテツオの追想がフラッシュバックし、サヤカの息遣いや感情をトレースしてしまう。

 真も、頭のどこかで制御しようとする自分と、空腹に耐えきれず捕食しようとする獣の自分とを同居させつつ、本能が指し示す一本道を駆け抜ける。


「マコト!」

「キミ!」


 互いの上気した顔を見つめ合っていたはずなのに、目を閉じて唇を重ねた刹那、真っ白な眩い光が二人を包んだ――

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