事件前夜 ⑤
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実際のところ智明の体調は限界に近かった。
頭痛はどんどん酷くなってきていて、首筋から後頭部にかけてズキズキとうずいているし、肘や膝は力一杯しぼられている雑巾みたいにカクカクと震えている。胃の中の物を全部出して楽にはなったが、鳩尾から喉仏までが焼けるように熱い。
「……親不孝の報い、かな……」
反抗期と言えるほど親が鬱陶しかったり嫌っていたりするわけではないが、ここ数年、智明とその両親の間には明らかな溝が出来ていた。
どこからズレ始めたのか、いつからこうなってしまったのかも分からないほど、両親は智明に無関心で、智明も固執しなかった。
ただただ会話もなく、関心もなく、興味もないのに、同じ家に居ただけだ。
「……行けそうか?」
「ん、ああ」
真が控えめに声をかけてきたので智明は短く答えた。
長々と話すと強がりがバレそうだから。
「よし。まずは津名港まで行く。そしたら一日くらいバイク転がしててもややこしいことにはならないからな」
「うん」
真は智明の弱々しい返事に一瞬戸惑ったようだが、智明の強がりを信じてくれたようで、気合を入れるために「よし」と呟いてからヘルメットを被った。
かたや智明も震える足でなんとか立ち上がり、ヘルメットを被ってバイクにまたがった。
真はセルスターターを押して、手順通りに三方確認とウインカーとシフトチェンジを行ってゆっくりと走り出す。
真がいつも通りにしてくれることで智明も安心することができた。
ヘルメットの中で徐々に小さくなっていく真を見ながら、真の意図を汲むために、動作はゆっくりだが智明も手順通りにバイクをスタートさせる。
「よしよし。ちゃんとついて来いよ」
智明にも、真にも、我慢のツーリングが再開された。
現在、淡路島には和歌山から橋梁がかけられ、山間部のトンネルを通って中条で地上駅に停車し、高架に設けられたレールで大鳴門橋を通って徳島まで走るリニアモーターカーの駅舎と通路が完成しつつある。新国会議事堂と今上天皇の居所の完成に合わせてリニアモーターカーの乗り入れが開始される予定だ。
まだ正式な日程の発表はないが、翌年の四月一日を目指して工事やその他準備が進んでいる。
リニア線以外で他府県から淡路島に入るとなると、北端の明石海峡大橋か西端の大鳴門橋を渡って来られる自動車か中型以上のバイクでということになる。海上からの方策として明石―岩屋間の高速艇もあるが、高速バスの増便が決まってしまうとその存在感は薄れてしまうと懸念されている。
調整中の方策として、大阪港と関西国際空港からフェリーないし高速艇の運行が考えられているが、こちらも高速バスやリニア線との競合が予想され、実現するかどうか芳しくない。
では島内の交通機関はというと、洲本港から西淡志知を経由して福良まで『へ』の字にカーブする地下鉄と、一宮から五色浜・慶野を経由して阿万まで淡路島西岸を縦断する鉄道がすでに整備されている。
これに加えて遷都とは別資本になるが、淡路市は津名港から一宮の伊弉諾神宮まで路面電車を通そうと、鉄道各社と調整している。
この他にも民間のバス会社が数社、路線バスや周遊バスの試算を行っているようだが、現状主な交通機関は淡路島南部を十字に通る地下鉄と鉄道だけだ。
今上天皇のお言葉から遷都の計画が進行して三十余年。
淡路島の人口は七十万人超と、二十一世紀初期より五倍に膨れ上がり、三原平野と洲本平野はマンションが乱立し、新都国生市と隣接する淡路市は企業の本社ビルや工場の建設ラッシュにある。
気の早い政治家や富裕層は五色浜近郊に土地を買って住居を建て、洲本港・由良港・福良港周辺にはリゾートホテルが続々参入している。
それでも淡路島の山並みと海岸線を美しく残す努力と配慮がなされ、海べりの県道や国道を多用するアワイチのような娯楽も、辛うじて生き残っている状態だ。
特に、ビルやマンションや工場ばかりが増えていくと、若者の娯楽はそのすき間を縫うしかなくなり、ツーリングやサイクリングが好まれるのも若さゆえかもしれない。
ただ、走るだけで発散できないのも若さというもので、キッカケは様々だろうが群れをなして縦構造の小さな社会を作りがちでもある。
現在、淡路島には少年を中心としたバイクチームが複数存在し、活動地域と規模で分けられ、四つの大きなチームの名が有名を馳せている。
一つは洲本平野の小チームが連合した洲本走連。
もう一つは三原平野を活動拠点とするWSS。
そして五色北部から一宮・津名で活動している空瑠橘頭。
最後に、岩屋から東浦までを仕切っている淡路暴走団だ。
一見、二十世紀に幅をきかせた暴走族や暴力団の下部組織のようだが、シマ争いや抗争を生業とするグループではなく、純粋にバイクとツーリングを楽しんでいる集団とされている。
洲本走連は学校や地域の友人達が集まった小チームの集合体だし、空瑠橘頭のチーム名は柑橘農家の倅に由来する。
WSSが少し特殊で、元はボーイスカウト経験者やOBが集り、旅行や行楽を楽しむグループから、ドライブやツーリングを重点的に追求したい若年層が抜けて立ち上げられたチームだ。
この三チームは割りと温厚で大人しいチームで、過去の暴走族やチーマー・カラーギャングとの差別化のために、海岸の清掃や主要道路の見回りなどを自主的に行っている。
しかしこれは表向きの外面で、影では盗難車の捜索や奪還を請け負ったり、無免許運転の迷惑者を粛清したり、暴走行為やシマ争いを企てる荒くれ者を掃討したりと、荒事も活動に含むため互いの地域を侵さない協定を結んでいる。
ここで一種異質なチームが淡路暴走団だ。他の三チームと出発点は同じで地元のバイク好きの社会人が集まってチームになったのだが、地域奉仕は影で行い荒事を表立って行うことで、小チームの暴走や目立ちたがり屋やはみ出し者の横行を抑制する方向で活動している。
それでも他の三チームの指針には共感しており、チームメンバーはテリトリー以外では協定の遵守を徹底している。
これら四チームで結ばれた協定はいつからか淡路連合と呼ばれるようになり、年に四回全チームの全メンバーが集って協定を確かめ合う集会を執り行っている。
二月は洲本走連が仕切りで洲本港で、六月は空瑠橘頭が仕切りで津名港で、九月は淡路暴走団が仕切りで佐野運動公園で、十二月はWSSが仕切りで慶野松原で行われる。
まさに今夜がその集会の日取りに当たり、津名港の広大な駐車場にはバイクや乗用車が続々と集まって来ていた。
流石に参加者が二百名近くいる上に、ほぼ同数のバイクや自動車が集まるとあって、事前に警察に届けを出していても現場にはパトカーと白バイが出張ってきている。
大抵の地域住民は物々しさと人数のために関わろうとはしないが、バイクやチームに憧れる少年たちは少しでも近付こうと努力するも、警察官に追い返されている。
淡路連合のメンバーにも未成年者が多いのだが、この人数で昼間に集会を開くわけにも行かず、対外的に奉仕活動も行っていることから警察も例外的な黙認の姿勢をとっている。
「本田ぁ、ほっちどない? べっちゃないけ?」
黒地に金字の刺繍が入った特攻服姿のガタイのいい男・川崎実が、強面をさらに強調する野太い声で傍らの男に声をかけた。
川崎に声をかけられたのは本田鉄郎。スラッとした長身に作務衣をまとい、スポーツ刈りが似合う甘いマスクに微笑みをたたえながら、川崎を振り返る。
「川崎さん、ごめん。二人遅刻してんだわ。今ダッシュで向かわせてるから、もうちょっと待ってて」
「テツオ君の部下にしちゃ、珍しいな。シバかなあかんな」
テツオを冷やかしたのは、ヒョロッとした体にジーパンと赤皮のライダースを着たリーゼントに口ヒゲの男・山場俊一だ。
「お仕置きするなら、ウチが全面的に手伝うわよ」
ツナギのライダーススーツに身を包んだロングヘアーの女・鈴木沙耶香が、さらにテツオを茶化す。
「みんな、勘弁してよ。聞こえが悪いよ」
「まあ、仲良しこよしとちゃうけど、警察も絡んどっさかい、時間は守らななぁ」
「川崎さん、今日は僕の仕切りやから、警察には僕から伝えるから」
「山場君なら上手く言ってくれるから安心ね」
「サヤカちゃんもほっちは上手やん。てか、お仕置きやったぁベッドでワシにして」
「川崎さん、セクハラはダメだよ」
ムッとしているサヤカ以外は楽しそうに笑顔を見せるが、和気あいあいとしたやり取りなのにそれぞれの目は笑っていない。
四人はそれぞれのチームのまとめ役で、川崎は淡路暴走団の大将。
テツオはWSSのリーダー。
山場は空瑠橘頭の頭。
サヤカは洲本走連のクイーンだ。
各々のテリトリーや活動に干渉しないという不可侵の協定の元に顔を合わせているが、協調したり情報交換したりツルんで走るのはあくまでトラブルが起こっていない時の特別な時だけだ。
連合に所属しない新勢力が暴れたり、他所のテリトリーで揉め事が起こった時は、抗争同然に殺伐とする。
「シュンイチ君、あと十五分だけだから! お願い!」
「テツオ君に頼まれたらしゃーないな。ほな、ちょっと言うてくるわ」
テツオと山場は歳が近いこともあり互いに名前呼びで、テツオが山場に頼み事をする時はいつも合掌しながら年相応の可愛らしいウインクを放つ。
山場は山場で、普段のテツオの可愛らしさをつい甘やかしてしまいがちだが、テツオは暴れだしたら手がつけられない程の強者で、彼への畏怖もあって強硬な否定や拒否はしない。
「あと十五分やな。間に合わんかったら貸しにすっさかいの」
「あざっす! あーせん!」
軽く手を挙げて川崎もテツオから離れていったが、この男が一番の危険人物である。
家業の土建屋を親から継ぎ、二十八歳ながら現場も営業もこなすパワーとフットワークが売りで、ヤクザも警察も怖くないという生き方がそのままチームの方針に生きている。大柄で現場仕込みの怪力はもはや生きる伝説となりつつあり、強面なのも手伝って歯向かう者は少ないが、嫁のアテがないのが唯一の欠点らしい。
さすがのテツオも川崎には丁寧だ。
「テッチャン。気を付けないとあのクマゴリラは何を言い出すか分からないわよ」
「分かってる。アレはあと五年もすれば歳食って勝手に自滅するさ。そっからはテリトリーとか縄張りなんか関係なく、俺らが仕切るんだ。もうちょっと待っててくれな」
「そればっかりね。あと五年したら私は二十歳越えるんですからね!」
「そりゃ俺も一緒だ」
サヤカは整った顔立ちで、栗色のロングヘアーが似合うモデル体型で、まさしくクイーンと称されるにふさわしい容姿なのだが、チームの頂点に立つだけの器と力はしっかりとある。サヤカ自身に腕力はないが、ことバイクの運転技術と勝負度胸は男勝りで、その容姿と肝っ玉に惚れ込んだ親衛隊がガッチリとクイーンをサポートしている。クイーンのクイーンたる由縁はその統率力で、普段は散り散りに走り回っている各チームを鶴の一声で右を向かせられる。
また、クイーンが存在するのだからキングも存在するわけで、人目もはばからずにテツオがサヤカと抱き合ってキスを交わすのだから、だいたい察せるはずだ。
「じゃあ、また後でな」
サヤカを見送ったテツオは、和やかに警察官と談笑する山場を一瞥してから自身のチームの元へ歩いていく。
一番人当たりが良くて無害そうな山場だが、なかなかの曲者で、彼の口から出てくる言葉は半分以上がその場しのぎのデマカセだし、昨日の約束は今日にも裏切るし、陰険で外道な策謀は日常茶飯事だ。
一同に介せば笑い合う面々だが、その腹の中は互いに伺いしれず、『淡路連合』だの『協定』だのが存在するのも仕方ないのかもしれない。