セルフコントロール ①
滋賀県大津市の琵琶湖のほとり。
七月に入っていよいよ夏本番となり、夏休みを前にして週末には比良の山々へのハイキングやピクニックの行楽客、琵琶湖のブラックバスを狙う釣り客など、それぞれのスポットではすでに人々が集まり賑わいを見せている。
中でも、七月から八月にかけて行われる花火大会は豪勢で、湖岸から真上に上がる花火はダイナミックで見応えがある。
だが今、別荘やペンションが建ち並ぶ地域に響いている轟音は花火のそれではない。
光も瞬かなければ煙も立たず、だが琵琶湖の湖面や湖岸の街路樹は、轟音を伴った衝撃で波が立ち枝葉を揺らす。
「紀夫! 左だ!」
田尻の指示で慌てて左を向く紀夫だったが、そこにはすでに何もなく、またキョロキョロと辺りを見回す。
「動いて!」
地上から真の声が飛んだが、すでに遅かった。
「おわっ!?」
何かが背中に触れたと思った刹那、急激に重みがかかって紀夫の体は地上へ向かって真っ直ぐに落ちていた。
状況を判断しようと振り返った紀夫の視界に、自分とは反対方向に飛び去っていく少女の姿が映る。
「俺を踏み台にしたのか!?」
怒りや腹立ちよりも圧倒的な能力差を受け入れるしかなかった。
昼下がりの青空をバックに、少女の影はグングン小さくなって、急な方向転換をして紀夫の視界から消えた。
「うわっ!」
エアジャイロを操作して着地の準備をしていると、ヘッドギアに内蔵されたスピーカーから田尻の悲鳴が響いた。
視界の隅でゆっくりと変化していく高度計のAR表示を気にしながら周囲を見渡すと、紀夫から百メートル離れた湖面に同心円のさざ波が生まれていた。
――田尻は琵琶湖に落とされたのか。あの子もやる事が派手だな……――
新品の防具をいきなりずぶ濡れにした田尻を哀れみつつ、態勢を立て直せた自分の腕を鼻にかけながら、紀夫より早く湖岸へ降り立った少女を眺める。
少女の名は藤島貴美。
淡路島の諭鶴羽山で修行を積んでいる修験者だ。幼い頃から厳しい修行を行い、修験者の中でも少数の者しか持ち得ない神通力や霊力といった不可思議な力を発揮できる。
本来はそれらの能力は困窮する人々を救うために、加持や祈祷で発揮されるが、今回は高橋智明の暴走を食い止めるという依頼を受け、偶然出会った鈴木沙耶香に連れられて城ヶ崎真達と合流した。
真らは、家族や知人のツテを頼って手に入れた身体を硬質化するナノマシンHDの真価を試すことと、同じくツテから手に入れた火薬に頼らない武器エアバレットの試用のために、琵琶湖を訪れている。
『アイテムは揃った。あとはレベル上げだ』とは真が憧れるバイクチームWSSのリーダー本田鉄郎の弁だが、これを達さなければ、真の高橋智明打倒も鬼頭優里救出も遠のいてしまう。
付け加えるなら、真が貴美の仕事をサポートすることもままならないだろう。
HDの効果は想像以上の成果だったし、エアバレットは少年の手には危険すぎるくらい威力があったが、しかし高橋智明の瞬間移動や空中浮遊の対抗策となるべきエアジャイロは、田尻と紀夫の無残な姿で分かる通りだ。
バイクの運転で鍛えられた速度感覚は、高速で直進することに恐怖心を感じさせなかったが、上下左右のすべてがフリーな空中では街灯でクルクル回っている羽虫よりもチープな動作をしてしまい、貴美に踏みつけられひっくり返されてしまった。
「負けた、負けた! なんであんなに自由に飛び回れるんだ?」
貴美の活躍を抱きついて喜んでいるサヤカの近くに降り立ち、紀夫は他人事のように貴美に問うていた。
「……法章様の教えでは、自然に溢れて漂っている『気』を足場にするとあった。すなわち、私のような守人は、自分が積み上げた徳に自然の気の助けを借りて力を使っている、のだそう……」
法章とは、貴美の伯父にあたり、貴美の先代の守人であった人物なのだそう。現在は修行から離れ、目を患いながらもミスティHOW・SHOWとして大阪で占いや人生相談を生業としている。
法章は守人としての能力も高く、神通力や自然界の気にも精通している。
「『気』ねぇ……。空中で足場にしてるってことは、この辺にも『気』が漂ってるってことだろ? 何も感じないんだよなぁ……」
紀夫は適当に近くの空中を手で探ってみたが、辛うじて琵琶湖から比良山地へ吹く風を感じた程度だ。
「もちろん、自然を受け入れ、共存し、ともに補い合うための修行をせねば感ぜられない」
「……だよなぁ」
貴美の補足に紀夫はうなだれた。
「あ! 真、田尻を引き上げてやってくれ。エアジャイロは水中じゃ約立たずだからな」
「うっす!」
テツオの指示を受け、真は返事一つで湖面に浮き沈みしている田尻の元へ飛んでいく。
エアジャイロは、空気鉄砲の原理を進化させたエアバレットに、吸気と圧縮噴射の機能を付加した移動装置として試作された物だ。本来はホバークラフトやリニアモーターカーの競合ジャンルとして開発が進められたが、どんなに頑張っても金属を含む車体は浮き上がらなかった。ならば、と一人乗りモーターグライダーやホバースケート様の商品へと軌道修正され、個人用飛行ツールとして再生された。
しかし、絶対的な使用条件として空気を吸入し続けなければ飛び続けることができず、水中や雨の日はそのポテンシャルは著しく下がってしまう。
「次は俺と瀬名でやってみるか?」
「……ゼロヨンならやってみたいけどなぁ。空中戦って、どうも戦闘機かロボットのイメージを払拭できないんだよなー」
テツオの誘いに瀬名は渋い顔をした。
低速でノロノロと動きながら幼稚園児のような鬼ごっこではつまらないらしく、逆に高速で真っ直ぐ飛べるゼロヨンを提案していた。
ゼロヨンとは、スタートラインに停止させた車やバイクで直線四〇〇メートルを疾走して勝敗を競うレースの事だ。単純明快で勝てば爽快感のあるゲームだが、車両の性能だけでなくシフトチェンジやアクセルワークなど洗練されたテクニックも必要で、小技を得意とする瀬名好みのテストの仕方だ。
テツオと瀬名は小学生時代のボーイスカウトからの付き合いなので、二人の間に遠慮や上下関係はない。
それでも、田植えの季節に農道を走っているトラクターのようにノソノソと湖面をなぞって飛んで行く真を眺めながら、『カッ飛ばしたい』と要求されるとテツオも苦笑せざるを得ない。
「んじゃあ、今から真のとこまで飛んで行って、アイツを追い越したらコッチまで引き返すってのを競わないか? それから空中戦ならテンション上がるだろ」
丁度、真が田尻を湖面から引き上げるのを指差してテツオが持ちかける。
と、湖岸にしゃがみこんでいた瀬名が立ち上がって身構えた。
「そうこなくっちゃな!」
「サヤカ!」
テツオも瀬名と同じポーズで身構え、傍らで貴美と談笑していたサヤカに号令をかけるように命じる。
「ん。……レディ、ゴー!!」
瞬時にテツオの意図を理解し、サヤカはボールを投げるように右手を振りかぶって、勢いよく真を指差す。
HDで強化された身体能力の全てを脚力に変換し、二人は前方へと文字通りに飛び出す。
跳躍の加速がかかっているうちにエアジャイロを最大出力で噴出させ、水柱を立てながら一瞬で真を通り過ぎる。
「何だぁ!?」
「テツオさん?」
高速で飛び去ったテツオと瀬名は、∪ターンの動作に入る。
瀬名は、左側を飛んでいるテツオにぶつからないために、右に旋回していく。
一方のテツオはエアジャイロの出力を一瞬オフにし、背面飛びのように体を仰け反らせながら方向転換し、再び全力で圧縮空気を噴射させる。
「ノーブレーキのロスか!」
テツオの軌道に度肝を抜かれながら、瀬名はノーブレーキで高速旋回したがために襲ってきた横向きのGと戦っていた。
「真っ直ぐ、飛べよ!」
テツオもまた背面飛行という自分で演出したイレギュラーに怒っていたが、ゲームか映画で見た戦闘機同士のドッグファイトを参考に、体を回転させ続けて乱れたバランスを整えた。
「テツオさん!」
「瀬名さん、落ちる!」
舞い戻ってきたテツオに真が叫び、田尻はGに負けてすっぽ抜けそうな瀬名を案じた。
「くっそ! ったれ!」
高速旋回で曲がりきれなくなってきた瀬名の体は外へ弾き出そうとする力に負けかけていた。が、行って来いというルールのないレースであることを思い出し、今更ながら湖面スレスレに手足を伸ばしてブレーキにし、同時にスタート時と同じ脚のバネを効かせて爆発的に飛び出し直す。
「……テッちゃんの勝ちぃ!!」
個人用の飛行装置とは思えない噴射音を響かせながら、ものの五秒でテツオがサヤカの頭上を通過していった。
テツオから一秒と遅れない間隔で瀬名も通り過ぎ、再びの噴射音とともに煽られた琵琶湖の湖水が雨のように辺り一帯に降り注いだ。
「……あんなにスピード出るのかよ」
紀夫は二人が飛び去った上空を見上げながら、明らかにバイクより速いエアジャイロのポテンシャルに呆れた。
「おかえり」
「うっす。アレなんすか? 競争っすか?」
田尻をぶら下げて戻ってきた真は、出迎えてくれたサヤカに直球で聞いた。
水に浸かっていないはずの真も、テツオと瀬名の煽りで波飛沫をかぶりずぶ濡れだ。
「そうだよ。真くんを折り返し地点にして競争してたの。もちろん、テッちゃんの勝ちだよ」
楽しそうに笑うサヤカに文句を言うわけにはいかないが、勝手に折り返し地点にされて水をかけられたら微妙な気分にはなった。
「……二人、戻って来ない」
サヤカの後ろで貴美がボソッとつぶやき、全員がハッとなる。
琵琶湖上空から貸し別荘を通過し、比良山地の方へ飛び去ってそこそこの時間が過ぎている。
全員で空を見上げてみるが、テツオと瀬名らしき姿は見当たらない。




