#実神鷹 ―何も知らない舞魅と何かを知ってしまうぼく― 1
7月22日。まだ朝9時だっていうのにうだるような暑さだ。海かプールにでも行きたい。
とりあえず体を冷やさないと、そして頭を冷やさないと、脳細胞が死滅してしまう。
この暑い中、労働する社会人たちには本当に、本当にすごいと素で思う。
あれから、休み無く働かせていた脳細胞、神経回路、その他思考力を一旦停止させる。
「何だろうな………」
この気持ち悪さは。胸に詰まる不快感。少し呼吸が苦しくなる感覚。頭痛と言うほどでもない頭の重さ。全身の倦怠感。肩の張り。この全てが一つの理由から来る症状だとしたら、さてどうだろう。なかなか考える価値はあると思うが。
「……もしもし、舞魅?今暑い?…………うん、じゃあ、プールに行こう。水着は後で買えばいいからさ………うん。じゃ、待ってて、僕が行くから」
さて、準備しなくちゃ。水着と、ゴーグルと、財布と携帯、舞魅へのキモチ、よし、行こう。
「似合ってる。すごい似合ってる」
「え~そうかな~?えへへ」
「じゃ、軽く体操して、早く泳ごう。あ、舞魅って泳げるの?」
「こう、こうして、こんな感じでしょ?」両腕をぐるぐると回す舞魅。クロールのつもりなんだろう。別の見方をすれば、デパートでだだをこねる小さな子どもだ。「うん。それに足をばたばたーってさせるんだよ」僕が言うと、ばたばたーの真似をしようとしたのか足が若干動いたが、そこで動きが止まった。「ど、どうすればいいの?」「水の中じゃないと無理だよ」
そんな楽しい会話をして、人が流れるプールに入った。比喩なんかじゃなく、本当に人間が流れているプールだ。きっと流れるプールなんて名目に過ぎないんだろうな。
「こんなに人が多かったら泳げないね」
「僕は泳がなくてもいいよ。水につかってるだけで涼しいし」
「そう?じゃあ私もいい」その前に舞魅は泳げるのか?と水を差すことはしなかった。水を差すまでもなく、僕らは水の中なわけだし。
手を握ったまま、人間の流れるため池を一周した。僕と舞魅の体は心地よい清涼感に包まれていたけど、僕の左手と舞魅の右手だけは熱を持ったままだった。それから一旦プールサイドに上がり、別の種類のプールへと向かった。今度は流れも何も無い、本当に普通のプール。むしろ水槽といった感じだ。
そしてこの水槽、子どもが入るにはいささか深かった。
浅いところは1m10cmくらいだが、プールサイドから離れるほど深くなっていき、一番深いところで僕のあごが浸かるくらいだった。僕の身長と頭の大きさから推測するに、深さ1m50cmくらいだろうか。もっと分かりやすく言えば、舞魅の体全てが水に入ってしまった。
「っちょ!た、たかふっぐぐ手離さはないあうぶ」
背伸びしてジャンプして、頑張って顔を出そうとする舞魅をちょっとだけ観察した。後3秒で溺れるなと思ったところで舞魅の体を引き上げた。赤ちゃんをだっこするような形。
「舞魅は体重軽いな。体も細いし」
「そ、そう?鷹くんが力あるんだよ。きっと」
ありふれた会話。お互いを褒めるカップル。浮力をよく知らない舞魅。
舞魅が溺れない深さのところまで、舞魅を連れて行った。僕の体にしがみつかせて。周りから熱い視線を受けたが、夏だから遮断した。今度冬に是非頂戴したい。
「舞魅、日食って分かる?」
「分かるよ!ニュースでやってた。何か太陽が見えなくなるんだよね?それで、周りが薄暗くなったりするやつ」
「そうそれ。まぁここじゃ薄暗くはならないんだけど。これで太陽見てみれば?」UVカット仕様のゴーグルを舞魅に渡す。本当はダメだけど、ちょっとだけ。
「おおー見える見える!ほんとだ、太陽が半分以上隠れてるよ!」興奮する舞魅をしばらく眺めて、ゴーグルを取り上げる。「見すぎるのはよくないから」「えぇー」「それに、僕も見たい」
ゴーグルをはめて、太陽を見てみる。三日月のような形をした光る星が見える。隠れている部分が多いにもかかわらず太陽の光が健在なのは少し疑問だが、うん、まあこんなモノ、滅多に見れるもんじゃないな。
しばらく見てると太陽は雲に隠れてしまった。日本中からの視線に嫌気がさしたんだろうか。
「次、波のプール行こうか」
人の多いプールに逆戻りとなった。波を起こす機械が設置してあるプールには、その波を消そうと必死な人たちで溢れていた。どうせなら機械じゃなくて、海で本物の波相手にしたらどうだろうか。多くの人が幸せになれそうな気がする。
「舞魅は海行ったことあったっけ?」
「……っもしかして波を知らないと思ってる?私だって何も知らないわけじゃないんだよ」胸を張って自慢げに言う舞魅。胸部のふくらみが増して見える。見ているのがばれて「エッチ」と言われ肩をはたかれた。これが意外と痛い。
奥までいくのは億劫だったので、僕と舞魅は波打ち際で座っていた。15にもなって情けないが、波打ち際の方が波のエネルギーを最大限に受けると言うことを知った。具体的に言おう。体が波に持ってかれた。舞魅は「はわわわわっちょ、待っ」なんて可愛い声を出しながら沖のほうへ連れて行かれた。溺れたらいけないので、という名目で舞魅を助けに行き、人ごみの中でちょっとだけ抱き合ってプールを出た。初めて人ごみに感謝した瞬間だった。
帰りの電車内で、舞魅は眠ってしまった。誘拐の件で疲れていたのだろう。気分転換にと思ったのだが、体力面で持たなかったらしい。ま、精神面を癒せたというのなら上出来としよう。
舞魅の見ていないところで僕は笑った。
舞魅の睡眠が予想以上に深くて、電車を降りる時にかなり焦った。どうしたものかと悩んだ末、一旦背負って降りて、ホームのベンチで起こしてやった。
「んー………あと15分……」
「何だその中途半端に長い時間の要求は」
今度は舞魅がへらっと笑った。僕は笑顔を返さなかった。
「舞魅」「なぁに?」耳元で囁いた。
「愛してる」「―――っ!」
舞魅はこけそうになった。間一髪、僕が阻止することに成功したからよかったものの。
「な、何、何でそんな、いきなり……」「もう会えないかもしれないと思ったから」真顔ではなく、少し優しげな表情を作って舞魅に告白した。舞魅はクエスチョンマークを出す。
「舞魅はさ、僕が居なくなったらどうする?」
「……何それ。居なくなる予定がある……の?」
「無いよ。でも、聞きたいんだ。僕が居なくなった時にどうするか」
「考えたくない」
「でも、いつか来るかもしれない」
「鷹くんはどうするの?私が居なくなったら」
「舞魅が居なくなれば僕も居なくなると思う」「??それってどういう………」
「だから、愛してる」
「………………………」
舞魅の家の前で唇を重ねる。僕の舌が舞魅の口内へ入り、舞魅の舌と絡まる。チュク、チュブ、そんな音が僕の体に入ってくる。舞魅は抵抗することも無く、いつの間にか僕に身を委ね、僕はその体を支えていた。「あっ、はっ、はうぅ……」と舞魅が声を出したところで、僕は舌と唇を離した。舌と唇には柔らかい感触と、舞魅の味が残っていた。
しばらく見詰め合う僕と舞魅。僕は舞魅の肩を抱いたまま。西に傾いた太陽だけが僕らを見ていた。昼間の熱い視線を返してやろうと言わんばかりの暑い何かを僕らに浴びせてきた。太陽によるものか体の反応によるものか判断しかねるが、舞魅の顔全体が赤く塗りつぶされていた。
「……………………」
「……………………」
かける言葉が見当たらない。故に焦る。早く、何か話しかけないと。
「私も、鷹くんのこと……」「……………………」僕を見上げる舞魅。舞魅を見下げる僕。それから舞魅の唇は動かず、目を逸らされてしまった。
「えへへ、暑いな、何でだろう」そう言って自分の耳に触れる舞魅。よく見れば耳まで赤い。
「夏だからだろ」今になって自分の顔も火照っている事に気付いた。
「また明日」と、会う予定も作らないままに口にする。
「うん、また明日、バイバイ」と、同じように返してくる。手を振って応えておいた。
帰り道。
夕陽が僕に赤外線その他を浴びせてくる。僕には熱を浴びせられているだけにしか思えない。
でも今日は特別、夕陽からいつもと違うものを頂いた。
それは酷く不安定な啓示のようなものだった。
夕陽が一層暑く感じられた。
体温が0.5℃ほど上昇した。